第237話:俺には通れない
俺は槍を握り直し、
穴の奥を覗き込んだ。
「調べてみるしかないな」
暗い岩の奥から、
僅かに流れが出ている。
海藻が静かに揺れているた。
俺は槍を邪魔にならないよう背へ回し、
そのまま岩の隙間へ。
「エア?」
ユーリスが、
心配そうに声を上げた。
「少し先を見るだけだ」
体を横へ向ける。
片腕を先へ差し込み、
岩肌へ手を掛けた。
肩まで入る。
そのまま、
身を奥へ押し込んでいく。
「……っ」
胸の辺りまで進んだところで。
背中が、
岩へ当たった。
前にも岩。
後ろにも岩。
ぴたりと挟まる。
「……」
一度、
息を吐く。
体を捻り、肩を更に前へ出す。
だが。
今度は腰の辺りが、
岩へ引っ掛かった。
「エア、大丈夫ですか?」
「たぶん大丈夫だ」
答えながら、
腕へ力を込める。
僅かに、前へ動いた。
その瞬間。
脇腹へ、
鋭い痛みが走る。
「ッ……」
岩の突起が、
肌を擦った。
水の中へ。
細い赤が、
ゆっくりと滲んでいく。
「エア!」
ユーリスの声が強くなる。
「血が出ています!」
「これくらいなら平気だ」
さらに進もうとする。
だが、肩が動かない。
背へ回した槍も、
岩へ引っ掛かっている。
無理に身体を押し込めば、
まだ進めるかもしれない。
けれど。
この先にも同じ狭さがあれば、
今度は戻れなくなる。
「……駄目だな」
俺は力を抜いた。
ゆっくりと、
体を後ろへ戻していく。
入る時より。
出る方が、
ずっと難しい。
岩へ肌を擦りながら。
どうにか、
隙間の外へ抜け出した。
「見せてください」
ユーリスが、
すぐに俺の脇腹へ寄ってくる。
「浅いから平気だ」
「浅くても、
傷は傷です」
岩に擦れた部分から。
まだ僅かに、
血が流れている。
赤い筋が煙のように水へ伸び。
少しずつ、
穴の方へ引かれていた。
ユーリスが、
傷へ手を当てる。
「これくらいなら……
私でも治せそうです」
小さく息を整える。
「―――静寂なる水よ」
慣れない水の魔術。
ユーリスの手が、
淡く光った。
傷口を包むように、
柔らかな水の感覚が広がる。
少しして。
脇腹の痛みが、
ゆっくりと引いていった。
「……助かった」
「無茶しないでください」
「あぁ」
俺はもう一度、
岩の隙間を見る。
「やっぱり、
俺じゃ無理だな」
「当然だ」
アーダが、
少し呆れたように言った。
「見れば分かるだろう」
「外からじゃ、
本当に通れないか分からなかった」
「挟まれてから確かめることではない」
アーダは隙間へ近付き。
自分の肩幅と、
入口を見比べる。
そして。
すぐに首を横へ振った。
「私も無理だ」
その身体は、
俺よりもさらに大きい。
装備を外したとしても、
通れる幅には見えない。
セレスも岩陰へ近付き。
聖杭槍杖を身体へ寄せて、
隙間を覗き込んだ。
僅かに、
身体を横へ向ける。
だが。
入る前に、
自分の肩へ視線を落とした。
「……私も難しいな」
「セレスさんなら行け――」
ユーリスの言葉が、
途中で止まる。
視線が、
セレスの首元から下へ落ちた。
「あぁ……」
セレスは、
岩の形を確かめる。
「入口だけなら、入れるかもしれない。
だが、奥がこれ以上狭ければ動けなくなる」
「お前も、背は俺とそう変わらないから無理だろ?」
俺が言うと、
セレスは小さく頷いた。
「少しはお前より進めるだろうが」
聖杭槍杖を、
身体へ引き寄せる。
「これを置いていくつもりもない」
残るのは。
ユーリスと――。
「もし行くなら、私か……」
ミリカだった。
ミリカは。
岩の隙間を、
じっと見つめている。
耳が伏せていた。
尾も。
身体の後ろで、
小さく丸まっている。
城へ入った時から。
ずっと、
そんな様子だった。
水の中で息ができても。
自由に進めるようになっても。
ミリカにとって。
ここは、
自分のいる場所ではない。
周囲を満たす水。
頭上に空がないこと。
足を着けなければ、
身体が流される感覚。
まだ。
何一つ、
慣れてはいない。
俺は、
隙間から目を離した。
「一度、城へ戻るか」
「え?」
ユーリスが俺を見る。
「城の細い奴を、
連れてくればいい」
ネレイディアなら。
この程度の隙間を通れる奴も、
いるはずだ。
無理に今進む必要はない。
そう思った時だった。
「わ……」
ミリカが、
声を漏らした。
皆の視線が集まる。
ミリカは一度、
口を閉じる。
それから。
岩の奥を見た。
暗い。
光は、
ほとんど届かない。
僅かな水だけが。
その奥から、
静かに流れてきている。
耳がさらに伏せる。
それでも。
ミリカは、
両手を握った。
「わ、私が行くにゃ!」
大きな声だった。
自分自身を、
奮い立たせるような声。
「ミリカ?」
「私なら、通れるにゃ」
胸を張ろうとする。
だが。
尾はまだ、
僅かに震えている。
「爪もあるから、
岩も掴みやすいにゃ」
「無理しなくていいぞ」
俺が言うと。
ミリカは、
すぐに首を横へ振った。
「無理じゃないにゃ!」
「怖いんだろ?」
「こ、怖くないにゃ!」
言った直後。
岩の奥から流れでた水流が、
海藻を僅かに揺らす。
ミリカの肩が。
びくりと跳ねた。
「……少しだけ、
怖いにゃ」
小さく訂正する。
それでも。
逃げるように、
目を逸らしはしなかった。
「でも」
ミリカが、
俺を見る。
「エアが見付けた道にゃ」
握った手へ、
さらに力が入る。
「エアは、
入れないにゃ」
「……」
「だから、
私が行くにゃ」
声は震えていた。
だが。
目だけは、
真っ直ぐだ。
「一人では行かせられません」
ユーリスが。
ミリカの隣へ、
静かに並んだ。
「ユーリス?」
「私も行きます」
ユーリスは、
岩の隙間を見る。
自分の肩幅を確かめるように、
身体を少し横へ向けた。
「私なら、
おそらく通れます」
「だが」
「ミリカ一人よりは、
安全ですし」
ユーリスは、
はっきりと言った。
「何かあれば、治療もできます。
水の中で、どこまで上手くいくかは分かりませんけど……」
少し間を置く。
「火も使えます」
ミリカが、
ユーリスを見る。
「一緒に来てくれるにゃ?」
「もちろんです」
ユーリスは、
少しだけ笑った。
「私も怖いですけど」
「ユーリスも、
怖いにゃ?」
「この先に何があるか、
分かりませんから」
そう言って。
もう一度、
暗い隙間を見る。
「だからこそ、ミリカ一人で行かせるわけにはいきません」
俺は、
二人を見る。
ユーリスは細い。
装備も軽い。
ミリカなら。
流されかけても、
岩肌へ爪を立てて掴める。
この中で。
通れる可能性があるのは、
確かに二人だけだった。
「奥が危険だと思ったら、すぐ戻れ」
俺は言った。
「先へ進むことより、
戻ってくることを優先しろ」
「はい」
「分かったにゃ」
「流れが強くなった時もだ」
岩の奥から。
今も、
水が流れ続けている。
僅かだが。
一定じゃない。
強くなり。
また、
弱くなる。
「何か変だと思ったら。
確かめようとするな」
二人を見る。
「その時点で、戻れ」
ユーリスは、
真剣な顔で頷いた。
「分かりました」
ミリカも。
少し遅れて、
頷く。
「絶対に戻るにゃ」
セレスが、
聖杭槍杖を握り直した。
「入口は、
私達が守る」
アーダも。
暗い隙間へ、
視線を向ける。
「中で道が分かれていた場合は、どちらか一方だけを調べろ。
帰り道が分からなくなるような進み方はするな」
「はい」
ユーリスが答える。
ミリカは爪を出し、
岩の隙間へ近付いた。
その手は。
まだ少し、
震えている。
けれど。
俺の方を、
一度だけ振り返る。
それから。
少し無理をしたように、
笑った。
「行ってくるにゃ」
「あぁ」
俺は頷く。
「気を付けろ」
ミリカが先に。
細い身を、
岩の間へ滑り込ませる。
肩。
腰。
尾。
順番に。
暗い隙間の奥へ、
姿が消えていく。
少し遅れて。
奥から、
声がした。
「通れるにゃ!」
ユーリスが、
安堵したように息を吐く。
それから。
俺達を振り返った。
「行ってきます」
「あぁ」
ユーリスも、
身体を横へ向ける。
岩へ服を擦りながら。
ゆっくりと、
隙間へ入っていった。
やがて。
その姿も、
暗闇の奥へ消える。
残ったのは。
岩の間から、
流れ出す水と。
少しずつ遠ざかっていく。
二人の腕輪の、
淡い光だけだった。
「……」
俺は穴の前へ立ったまま。
その光を、
見送った。
やがて。
二つの光は。
岩の奥へ、
完全に消えた。
声も聞こえない。
水の流れる音だけが、
残る。
「大丈夫だ」
自分へ言い聞かせるように、
呟いた。
ミリカがいる。
ユーリスもいる。
危険なら。
すぐに戻れと、
ちゃんと伝えた。
それでも。
胸の奥には、
妙なものが残っていた。
「……」
ふと。
水の中へ、
視線を落とす。
さっき俺が流した血。
傷はもう、
ユーリスが塞いでくれた。
それでも。
流れ出した赤だけが。
まだ僅かに、
水へ残っている。
普通なら。
とうに周囲へ散っていても、
おかしくない。
だが。
赤い筋は、
ほとんど散らない。
細く。
長く伸びたまま。
まるで。
何かに引かれるように。
暗い穴の奥へ、
吸い込まれていく。
「……」
俺は。
穴の前で、
立ち止まった。
二人の腕輪の光は。
もう、
見えない。
水の音だけが残っている。
(何だ…この感じ…)
理由は、
分からない。
ただ、胸の奥が…。
…少しだけざわついた。
俺は目を閉じる。
呼吸を整え、耳を澄ます。
肌へ当たる水を、
意識する。
流れ。
岩へ当たる音。
海藻の揺れ。
一つずつ。
拾っていく。
そして。
ゆっくりと、
目を開いた。
「……アーダ」
「どうした?」
アーダも。
俺と同じように、
穴の奥を見ていた。
「この流れ……」
俺は、
穴から流れ出す水へ手を伸ばす。
指先へ当たる流れを、
確かめる。
「さっきと少し、変わったか?」
アーダは、
しばらく黙って水を見る。
やがて…静かに頷いた。
「…よく気付いたな」
そのまま、
流れへ手を差し出す。
「…確かに。
僅かだが、強まっている」
「やっぱりか」
普通なら。
気付かない程度の、
小さな違い。
けれど。
森で獣を追う時も。
風が少し変わるだけで。
獲物の動きは、
変わる。
あの時に感じるものと。
どこか、
似ていた。
「……」
穴の奥を見る。
今。
呼び戻すべきか。
そう考えた。
だが。
俺は、
首を横へ振る。
危険なら戻れ。
そう伝えた。
二人もちゃんと、
頷いた。
なら。
今は、信じるしかない。
俺は槍を握り直し、暗い穴の奥を。
ただ、
見つめ続けた。




