第236話:消えた道
どれくらい、
そうしていただろう。
抱き締めていた腕から、
少しだけ力が抜けた。
「……ごめんなさい」
力のない、弱い声だった。
セレネリアは、
ゆっくりと私から身体を離す。
涙で濡れた頬を、
何度も拭った。
「ごめんなさいね……」
苦しそうに笑う。
「こんなつもりでは、
なかったのに……」
私は首を横に振った。
「私は……大丈夫です」
「優しいのね」
セレネリアは、
少しだけ目を細めた。
「その優しさまで、
似ているから……困ってしまうわ」
その時だった。
―――コンコン。
静かなノックが響く。
「母様」
聞き覚えのある声だった。
続けて。
「お母様?」
もう一人の声。
セレネリアは小さく息を整え、
目元を拭った。
「……ええ、入って」
扉が開く。
「母様……!?」
カイルが真っ先に駆け寄ってきた。
「また無理を?」
その顔には、
心配が浮かんでいる。
「大丈夫よ」
セレネリアは穏やかに笑う。
「少し昔話をしていただけ」
「……本当に?」
「ええ」
少し遅れて、
リリシアが部屋へ入ってきた。
そして。
私を見る。
その視線は、
私の顔から。
閉じられた絵本へ。
棚の貝殻へ。
ゆっくりと部屋の中を巡っていった。
「……お母様」
小さな声だった。
「その方を……
お姉様のお部屋へお通しになったのですか?」
責める声ではない。
でも。
この部屋を大切に思っていることは、
その一言だけで十分に伝わってきた。
セレネリアは、
少しだけ申し訳なさそうに頷く。
「……私がお願いしたの」
「……そう、でしたか」
リリシアは静かに頷いた。
それ以上は何も言わない。
けれど。
私を見る瞳は、
どこか複雑そうだった。
私は思わず頭を下げる。
「……ごめんなさい」
「!」
リリシアは小さく目を見開いた。
何かを言いかける。
けれど、
言葉にはならない。
ただ私を見つめたまま、
静かに息を呑んでいた。
「……」
唇が少し動く。
それでも、
声は出なかった。
「リリシア?」
カイルが、
不思議そうに名前を呼ぶ。
リリシアは、
はっとしたように目を伏せた。
「……何でもありません」
そう答えたけれど。
もう一度、
私へ視線を向ける。
さっきよりも、
少しだけ戸惑っているように見えた。
「……?」
私が首を傾げると、
カイルが私とリリシアを交互に見た。
そして、
少し困ったように笑う。
「姉上は、
そういう時に謝る人じゃなかったから」
「カイル、やめて」
リリシアが、
少し強い声で名前を呼ぶ。
「そうだろ?」
「そういう意味ではありません」
二人のやり取りを聞きながら。
私はもう一度、
閉じられた本へ目を落とした。
似ている。
何度も、
そう言われた。
顔も。
声も。
考え方まで。
でも。
今の反応だけは、
私とマリエルが違うからこそ生まれたものだった。
「……」
私は、
マリエルじゃない。
それは分かっている。
でも。
じゃあ私は、
何なんだろう。
学院では、
考えたこともなかった。
私は私。
それだけだった。
親はいない。
生まれた場所も、故郷もない。
学院で作られ。
学院で育ち。
神器を扱うために生まれた。
それが、
私だった。
でも。
この国へ来てから、
少しずつ分からなくなっていた。
海で息ができた。
脚が尾に変わった。
王家の歌を歌えた。
海王鯨も、
私へ応えてくれた。
みんなは私を見て、
マリエルだと思った。
セレネリアは、
私を抱き締めて泣いた。
リリシアは、
私を見て戸惑った。
カイルは、
姉と違うと言った。
私は……ネレイディアなんだろうか。
でも。
普通のネレイディアなら、
学院で作られたりしない。
なら……人間なんだろうか。
でも。
普通の人間は、
海で呼吸なんてできない。
人間でもない。
ネレイディアでもない。
マリエルでもない。
なら、私は……。
『お前はマリスだろ?』
「……」
不意に。
エアの顔が浮かんだ。
本当に、
何を聞かれているのか分からないような顔。
私が敵だったことも。
学院に作られたことも。
役目を与えられて生まれたことも。
全部聞いた上で。
それでも。
『お前はユーリスの友達で、マリスだ』
あの時は、
分からなかった。
どうして、
それだけでいいのか。
生まれた理由がある。
作られた目的がある。
使うための力も。
扱うための神器も、
与えられていた。
それをなくしたら。
私には、
何が残るんだろう。
「……マリス」
自分の名前を、
小さく口にする。
それは、
学院から与えられた名前だった。
マリエルとは違う。
この国の誰とも違う。
でも。
エアはその名前を、
私のものとして呼んだ。
「……」
胸の奥にある苦しさは、
まだ消えない。
私は、
ちゃんとしたネレイディアじゃない。
普通に生まれた人間でもない。
誰かの娘でも。
誰かの兄弟姉妹でもない。
それでも。
『お前はマリスだろ?』
また。
あの声が、
聞こえた気がした。
私は閉じられた本の上へ、
そっと手を置く。
……私は。
何なんだろう。
まだ。
あの言葉だけでは、
分からなかった。
ーーーーー
俺は、
崩れた監視路を見上げていた。
海藻が絡み付き、
石柱は半ばから折れている。
七年。
その時間だけが、
この場所へ静かに積もっていた。
「……」
何もない。
そう見える。
だが。
アーダはここへ、
俺達を連れてきた。
理由がある。
「地上に向かうための道か……」
俺は、
崩れた石壁へ手を置いた。
「当時の見張りは、
何人いた?」
「昼夜合わせて六名だ」
短い返事だった。
「証言は?」
「一致している」
海流が、
静かに揺れる。
俺は周囲を見る。
崩れた見張り台。
海藻に埋もれた石畳。
「なら」
ゆっくり息を吐く。
「誰も嘘は吐いていないと?」
「そうだ」
アーダも頷く。
「なら、尚更おかしい」
ユーリスが首を傾げた。
「何がです?」
アーダは、
崩れた監視路の先を見る。
「その日、
マリエルは確かにこの先へ向かった。
見張り全員が、
その姿を見ている」
その声が、
少しだけ低くなる。
「だが、それを最後に。
この海の中でマリエルを見た者はいない」
「この先は?」
俺は、
監視路の奥を見る。
石畳は、
岩壁に沿って緩やかに上へ続いている。
「海面へ向かう正規の道だ」
アーダが答えた。
「地上との交易にも使われていた。
当然、出口側にも監視が置かれていた」
「そこには来なかったのか?」
「あぁ」
アーダの声が硬くなる。
「この道へ入ったところまでは、確認されている。
しかし、正規の出口を通った姿は誰も見ていない」
「……でも」
ユーリスが、
以前聞いた話を思い出したように口を開く。
「マリエルさんは、
地上へ出たんですよね?」
アーダは小さく頷いた。
「確実とは言い切れん。
だが、その可能性は高い」
少し間を置く。
「マリエルが姿を消した翌朝。
ここから離れた地上側の海岸で、
一人のネレイディアが海から上がる姿を見た者がいた」
「マリエルだったのか?」
「遠目だった。
だが…」
アーダは一度言葉を切る。
「青い髪を持つ若い女だったこと。
身体に王家と同じ波の紋様があったことは、
複数の者が証言している」
確かに。
それなら、
地上へ向かった痕跡にはなる。
だが。
「この道の出口とは、
別の場所だったんだな」
「あぁ」
アーダは、
監視路の先を見る。
「かなり離れている。
正規の流道を通れば、
必ずどこかの監視へ姿を見られる距離だ」
城を出た姿は、
見られている。
この道へ入ったところも。
そして翌朝には。
離れた海岸で、
地上へ上がったらしき姿が見られた。
それなのに。
その間だけが、
抜け落ちている。
「何度も調べた」
アーダの視線が、
崩れた石畳へ落ちる。
「だが、何も見付からなかった」
「……」
俺は周囲を見回す。
七年も前だ。
しかも。
ここは、海の中。
足跡も。
匂いも。
触れた跡も。
残るような場所じゃない。
だが。
獣を追う時だって、
足跡だけを見るわけじゃない。
草の倒れ方。
土の削れ方。
獣が身体を擦った木。
水を飲みに来る場所。
長く使われた道には、
何かが残る。
俺は石畳から離れ、
岩壁へ近付いた。
「エア?」
ユーリスの声がする。
答えずに。
海藻の揺れを見る。
ほとんどは、
海面へ向かう流れに合わせて動いている。
同じ方向。
同じ速さ。
だが。
岩陰の一部だけ。
海藻の先が、
横へ引かれるように揺れていた。
「……」
近付き、
手で海藻を退ける。
岩が重なっている。
正面から見れば、
ただの窪みにしか見えない。
その奥は暗く。
どこまで続いているのか、
ここからでは見えなかった。
「何かあるのか?」
アーダが隣へ来る。
「まだ分からない」
俺は、
岩肌へ手を当てた。
僅かな水の流れがある。
正規の道へ向かう流れとは、
違う。
岩の奥から。
横へ抜けている。
「ここだけ、
流れが別だな」
ユーリスも近付き、
岩陰を覗き込んだ。
「穴……ですか?」
「窪みかもしれない」
俺は答える。
隙間は狭い。
俺やアーダが、
装備を着けたまま通るのは難しそうだ。
だが。
身体の小さい奴なら、
奥まで入れる可能性はある。
俺は一度、
見張り台の方へ振り返った。
ここは岩壁が張り出している。
正規の道から少し外れるだけで、
見張り台から姿が隠れる。
この奥が、
地上まで続いているとは限らない。
七年前には、
岩の形が今とは違っていた可能性もある。
「この場所も調べたのか?」
俺が尋ねると、
アーダは岩陰を見た。
「周辺は何度も調べた」
少しだけ、
眉を寄せる。
「だが。
そこは人が通れる場所ではないと、
判断された」
「誰が?」
「当時の捜索隊だ」
俺は、
隙間の奥へ手を伸ばす。
岩肌に触れる。
貝殻。
珊瑚。
細い海藻。
何かが繰り返し通ったと、
言い切れるほどの跡はない。
ただ。
水だけは、
確かに流れていた。
俺は手を引く。
「通れるかどうかは、
外から見ただけじゃ分からない」
アーダが黙る。
「それに」
もう一度、
見張り台を見る。
「マリエルが地上へ行きたがっていたなら。
正規の道以外を、
探していた可能性はある」
「……」
「まだ、この穴を使ったとは言えない」
俺は、
暗い隙間を見る。
「だが。
ここから姿を消せることだけは、確かだ」
アーダは、
何も答えなかった。
七年前。
見張りの前を通り。
正規の道の途中で姿を消し。
離れた海岸から、
地上へ上がった少女。
その失われた道のりへ続くものが、
この先にあるのか。
今はまだ、
分からない。
俺は、
腰の槍へ手を添えた。
「調べてみるしかないな」
暗い岩の奥から。
僅かに流れ出す水だけが、
海藻を静かに揺らしていた。




