第232話:戦の支度
セレネリアの表情が止まった。
マリスは、
握られた手を見る。
それでも、
振りほどかなかった。
「私は……ネレイディアでも、ありません」
「何を……」
セレネリアの唇が動く。
だが、
マリスはそのまま続けた。
「作られました」
短い言葉だった。
アーダの目が、
僅かに細くなる。
「地上で……人の手によって」
マリスは、
自分の胸元へ触れた。
「ネレイディアの身体を、
真似て作られた、偽物…」
部屋から、音が消えた。
セレネリアの手が、
僅かに震えている。
「違う……」
掠れた声だった。
マリスが女王を見る。
「違いません」
静かに答える。
強い声ではなかった。
だが、
言葉を引っ込める気もないようだった。
「私は、マリスです」
少し間を置く。
「生まれた時から……その名前でした」
セレネリアは首を振る。
「そんなはず……」
震える声だった。
「そんなこと……あるはずがない……」
握る手に、
さらに力が入る。
「だって、あなたは……」
涙が零れる。
「マリエルでしょう……?」
マリスは、
小さく目を伏せた。
「……違います」
短く答える。
「私は……、
マリエルという名前ではありません」
セレネリアは、
何度も首を振る。
「違う……」
掠れた声だった。
「そんな話を聞きたいんじゃない……」
俯く。
「私は……あの子が帰ってきたと……」
それ以上、
言葉が続かなかった。
部屋は静まり返る。
誰も口を開けない。
アーダも黙ったまま、
妻を見つめていた。
マリスは、
ゆっくりと息を吸う。
「でも……」
小さな声だった。
「私は……あなたの娘ではありません」
「……っ」
セレネリアの肩が震えた。
「だから」
マリスは続ける。
「あなたが待っていた人には……なれません」
誰も動かなかった。
部屋の空気が、
凍り付いたようだった。
「……」
セレネリアは、
俯いたまま動かない。
握られたマリスの手だけが、
小さく震えていた。
やがて。
「……お前」
掠れた声が聞こえた。
俺は顔を上げる。
セレネリアが、
ゆっくりとこちらを見ていた。
涙に濡れた瞳。
さっきまでそこにあったものとは、
明らかに違う。
「お前達か……」
低い声だった。
「地上の人間が……」
一歩、
セレネリアが前へ出る。
「マリエルを……」
唇が震える。
「私の娘を……」
その視線が、
俺へ突き刺さる。
「返しなさい……」
思わず息を止めた。
「返しなさい!!」
部屋中へ怒声が響く。
「近衛!!」
外の兵達が反応した。
「その者達を捕らえなさい!!」
「セレネリア!」
アーダの声が飛ぶ。
だが、
女王は聞いていない。
「この者達が……!娘を……!」
兵達が俺達へ踏み出そうとした。
その時。
「お母様!!」
扉が勢いよく開いた。
「リリシア様!」
「カイル様!」
飛び込んできた二人を見て、
近衛達の動きが止まる。
「捕らえなさい!!」
セレネリアが叫ぶ。
だが、
兵達は動けなかった。
女王の命令。
その一方で。
部屋には海王親衛軍総司令のアーダが立ち、
片手で静止を命じている。
近衛達は互いに顔を見合わせたまま、
次の命令を待っていた。
「お母様!」
リリシアが駆け寄る。
そのまま、
セレネリアを強く抱き締めた。
「もう、おやめください!」
「離しなさい!」
「嫌です!」
涙を流しながら、
首を振る。
「お姉様なら、こんなことは望みません!」
「母上!」
今度はカイルが前へ出た。
震える母の肩を支える。
「どうか落ち着いてください!お願いです!」
セレネリアは、
なおも俺を睨んでいる。
「返して……」
震える声だった。
「あの子を……」
その時だった。
「……全員、その場を動くな」
低く響く声。
アーダだった。
その一言で。
近衛達は一斉に姿勢を正した。
誰一人として動かない。
リリシアが、
母の肩を抱く。
「お母様、行きましょう」
カイルも前に出る。
「お願いします……。
落ち着いてください」
だが。
「離して……」
セレネリアは、
首を振り続ける。
視線は一度も、
マリスから離れない。
「あの子が……」
震える声だった。
「また……いなくなってしまう……」
リリシアが泣きながら、
母を抱き締める。
「大丈夫です……」
「お願いです、お母様……」
部屋は騒然としていた。
誰も、
次にどう動けばいいのか分からないようだった。
「……一つ、聞いていいか」
俺が口を開く。
全員の視線が、
こちらへ向いた。
騒がしかった部屋が、
一瞬だけ静まる。
俺はアーダを見る。
「さっき……マリスの身体を見て、
王家の紋様だと言っていたな」
ちらと、マリスを見る。
服の下、白い肌にきれいな青が見える。
「その紋様は、
王家の者だけに現れるものなのか?」
「……何故、そんなことを聞く」
アーダが静かに尋ねる。
俺は、
すぐには答えなかった。
その横で。
「……まさか」
ユーリスが小さく呟いた。
俯いたまま、
何かを必死に考えている。
「人工的に作られたネレイディア……。
王家の紋様……。
王家の歌……。
瓜二つ……」
ぶつぶつと独り言を続ける。
「そんなこと……」
顔を上げる。
「いや……でも……」
そこまで言って、
はっと息を呑んだ。
ユーリスはマリスを見つめる。
マリスは、
困ったように目を揺らしていた。
俺もマリスを見る。
「マリス」
「……はい」
「自分がどうやって生まれたか、どこまで知っている?」
マリスは一瞬目を見開き、
ゆっくりと首を振った。
「知らない……」
静かな返事だった。
「気にしたことも……なかった……」
少しだけ目を伏せる。
「両親と呼べる人も……いない……。
教育係だけ……。
名前も、その人から……」
部屋が静まり返る。
俺は、
ゆっくり息を吐いた。
「……そうか」
点が、
一つずつ繋がっていく。
神器を扱うために、
人工的に作られた身体。
高い水の適性。
もし王家の血なら、
なおさら条件としては都合がいい。
最初から、
利用するためだったのか……。
「……もしかしたら」
小さく呟く。
「マリエルは……」
視線を上げる。
「まだ地上にいるかもしれない」
部屋が静まり返った。
「あの……」
小さく声を上げたのは、
ユーリスだった。
「一つ、お聞きしても……?」
アーダが静かに頷く。
「マリエル様が行方不明になられたのは、いつですか?
もしかしたら、大方の場所が絞れるかも……と」
「……七年前だ」
その言葉に。
「え……」
マリスが固まった。
いや。
俺達も、
すぐには言葉が出なかった。
七年……。
マリスの見た目と、時間が合わない。
俺が考えていたのは、
アルケシアが何らかの方法でマリエルと接触し、
彼女を元にマリスを作ったという流れだ。
だが、
それなら……。
「マリス……一応聞くが、
お前、いくつだ?」
マリスは、
ゆっくり顔を上げた。
「私……?」
少しだけ戸惑ったように呟く。
「……七歳」
誰も言葉を返せなかった。
「……七歳?」
リリシアが思わず呟く。
カイルアーダも、
僅かに目を見開いた。
目の前にいるマリスは、
見た目だけなら十代半ばほどにしか見えない。
落ち着いた物腰も、
話し方も。
今まで、
年齢を疑ったことすらなかった。
そこへ。
「……え?いやいや〜」
ミリカだった。
信じられないものを見るように、
マリスを見る。
「お、お前……」
言葉が続かない。
「七歳にゃ……?」
何度も首を振る。
「いや……そんなわけにゃいだろ。
それじゃあ、弟達よりちょっと上くらいだにゃ?」
ユーリスも戸惑いながら、
掠れた声を漏らす。
「私と……同い年くらいだと思ってました……」
マリスは、
困ったように視線を伏せた。
「……ごめんなさい」
謝ることじゃないだろ。
そう思ったが、
今は誰もすぐには言葉にできなかった。
「……いや」
小さく呟く。
俺は首を振った。
「これでいい」
全員の視線が、
こちらへ向く。
「少なくとも、…一つ分かった」
七年前。
マリエルが姿を消した年。
そして。
マリスが生まれた年。
偶然で片付けるには、
重なりすぎている。
「マリスが作られたのは、
マリエルがいなくなったのと同じ年だ」
アーダの表情が変わった。
「……何が言いたい」
「マリエルは、
ただ地上へ逃げただけじゃない」
俺はマリスを見る。
王家の紋様。
瓜二つの姿。
アルケシアが、
何もないところから偶然同じものを作った。
そんなことが、
本当に起こるのか。
「姿を消した後、
アルケシアの手に渡った可能性が高い……」
「アルケシア……?」
リリシアが聞き返す。
俺は頷いた。
「マリスを作った奴らだ」
部屋の視線が、
マリスへ集まる。
「こいつは、
ただネレイディアを真似て作られたわけじゃない」
マリスの傍らにある槍を見る。
「神器の槍を模して作られた武器を、
扱わせるために作られた」
アーダの目が、
ゆっくりと槍へ向いた。
「普通の人間には、
扱えないらしい……」
その言葉に、
アーダの表情が僅かに変わる。
近衛達も息を呑んだ。
俺は続ける。
「扱えるだけの身体が必要だった」
水に高い適性を持つ身体。
ネレイディアの力。
そして。
王家の血。
「だから、
マリエルを使った」
その瞬間。
アーダの顔から、
表情が消えた。
「……」
空気が張り詰める。
まだ、
確証はない。
だが。
マリスの姿。
王家の紋様。
七年前という時間。
神器を扱うために作られた身体。
条件は、
あまりにも重なっている。
「おそらく、マリエルから……何かを…」
アーダが呟く。
「血か」
拳が握られる。
「身体か」
声が震え始める。
「それとも……」
続きを言えず、
歯を食い縛った。
マリエルが今も生きているのか。
既に死んでいるのか。
それすら分からない。
だが、
少なくとも。
「娘を攫い……」
アーダの身体が震える。
「そんなもののために……」
視線が、
槍へ向く。
神器。
武力。
実験。
「利用したというのか!!」
声が部屋へ叩き付けられた。
同時に。
床。
壁。
窓の向こう。
周囲の水が、
僅かに震えた。
「……アーダ」
掠れた声。
セレネリアが、
ゆっくりと顔を上げる。
「今……何て言ったの?」
アーダは答えない。
拳を握ったまま、
唇を噛み締めている。
「利用……?」
セレネリアの声が震える。
「マリエルを……?」
誰も答えられない。
その沈黙だけで、
十分だった。
「……そう」
小さく呟く。
「そうだったのね……」
涙が頬を伝う。
「地上の者達が……」
視線が、
宙を彷徨う。
「私の娘を攫って……」
息を詰まらせる。
「やっと帰ってきたと思ったら……」
「セレネリア?」
アーダが呼び掛ける。
だが、
届いていない。
セレネリアはゆっくりと、
マリスへ手を伸ばした。
その頬へ触れる。
「こんなに怯えて……」
震える指先が、
頬をなぞる。
「自分の名前まで……」
「違います……」
マリスが、
小さく口を開く。
だが。
「忘れさせられて……」
セレネリアは聞いていなかった。
マリスの言葉も。
その表情も。
自分の中で出来上がった答えしか、
もう見えていないようだった。
「何をされたの……」
涙が止まらない。
「マリエル……」
その身体を抱き締める。
強く。
もう二度と、
奪われまいとするように。
「どれだけ苦しかったの……」
「セレネリア」
再び、
アーダが名を呼ぶ。
セレネリアは答えない。
だが。
その肩から、
震えが消えていた。
アーダの目つきが変わる。
「……セレネリア!」
女王は静かに、
マリスを離した。
そして。
近衛達へ振り返る。
涙に濡れた瞳。
そこに宿っていたものは、
もう悲しみだけではなかった。
「近衛」
静かな声だった。
「待て、セレネリア!!」
アーダが前へ出る。
だが、
女王は一切動じない。
先ほどまで。
娘に縋り。
泣き崩れていた母親とは、
思えないほど。
その背筋は、
真っ直ぐに伸びていた。
「戦の支度を」
部屋が止まった。
「お母様!?」
リリシアが声を上げる。
カイルも、
母の顔を見つめたまま動けない。
「待て!動くな!」
アーダが声を上げ、
兵達はその場で固まった。
「今は判断を下す時ではない!!」
「いいえ」
セレネリアは、
夫を見なかった。
「何も確定していない!」
「もう十分です」
即座に返す。
「私の娘は攫われた」
マリスの手を、
再び強く握る。
「地上の者達に傷つけられ、
記憶を奪われ、
自分が誰なのかさえ分からなくされた」
「違う!」
アーダが言い切る。
「まだ、
そうと決まったわけではない!」
「この子を見ても、
同じことが言えるの?」
セレネリアが、
初めて夫を見た。
「この子の顔を。
この紋様を。
七年という時間を」
声が震える。
だが。
そこに迷いはなかった。
「全て偶然だと、
そう言うの?」
「そうではない!」
「私は女王として命じます」
セレネリアが、
再び近衛達へ顔を向けた。
「全軍に招集を」
近衛達が息を呑む。
「海王親衛軍を動かします」
「セレネリア!」
アーダが声を荒らげる。
それでも女王は、
一歩も退かなかった。
「アルケシアを滅ぼします」




