第231話:私はマリス
アーダが女王の名を呼んだ。
「……セレネリア」
静かな声だった。
女王は反応しない。
ただ、
マリスを抱き締めたまま震えている。
アーダはゆっくり近付き、
その肩へそっと手を添えた。
「少し休もう」
女王は小さく首を振る。
「嫌……」
震えた声だった。
「またいなくなる……」
その一言に、
近衛達が静かに目を伏せる。
アーダも、
少しだけ目を閉じた。
「大丈夫だ」
短く言う。
「この城にいる。
私が約束する」
女王はマリスを見つめたまま、
しばらく動かなかった。
やがて。
震える手で、
そっとマリスの手を握る。
「一緒に」
マリスは困ったように、
握られた手と俺を何度も見比べた。
「……エア」
俺は小さく頷いた。
「今は……。
俺達も後から行く」
そう言って、
少し強く槍を握る。
(もし無理なら、最悪力技だ)
マリスは俺の手元へ一度視線を落とした。
それから少し迷い、
小さく頷く。
「……はい」
アーダは近衛へ目配せした。
「陛下をご案内しろ」
「はっ」
近衛達が静かに前へ出る。
女王は最後まで、
マリスの手を離さなかった。
マリスはまだ水中での動きに慣れておらず、
支えられながら大人しくついていく。
そのまま、
二人は近衛達に囲まれながら奥の回廊へ向かった。
何度も。
何度も。
女王はマリスの横顔を見つめていた。
やがてその姿が、
回廊の奥へ消えていく。
静寂が戻る。
アーダはゆっくりと、
こちらへ向き直った。
「君達はこちらだ」
俺達は黙って後を追った。
ーーーーー
城の中は広かった。
青白い光石が壁を照らし、
水流の揺らぎが天井へ映っている。
しばらく、
誰も口を開かなかった。
水を掻く音だけが、
静かな回廊へ響く。
やがて。
「……すまない」
先を進むアーダが、
不意に口を開いた。
俺達は顔を上げる。
アーダは振り返らない。
前を向いたまま続ける。
「妻は……数年前から、
あの子を探し続けていた」
静かな声だった。
「手掛かりは、
地上へ向かったという痕跡だけ……」
少し間を置く。
「見つけてやれなかった……。
夫として、責めることはできん」
俺達は黙って聞いていた。
「君達には、突然巻き込む形になってしまったな」
アーダは歩みを止めない。
「まずは部屋へ案内しよう。
話は落ち着いてから、
改めて聞かせてもらいたい」
「分かった」
俺は短く答えた。
それ以上、
今ここで話すことはない。
歩き続ける。
廊下の左右には、
大きな窓が並んでいた。
その向こうには、
青い海が広がっている。
魚の群れ。
珊瑚。
遠くを泳ぐ巨大な影。
まるで海が城そのものへ溶け込んでいるような、
幻想的な光景だった。
「すごい……」
ユーリスが思わず声を漏らす。
「本当に海の中なんですね……」
ミリカも窓へ近付く。
「さ、魚がいっぱいにゃ……」
アーダは小さく頷いた。
「ここはセルネレイア城。
王家と海王親衛軍の本拠だ」
さらに歩く。
しばらくすると、
大きな扉の前で足を止めた。
近衛兵が一礼し、
ゆっくりと扉を開く。
中は広かった。
しかも、
空気がある。
部屋へ入った途端、
身体を包んでいた膜が消えた。
水気もない。
水中の城とは思えない、
木目を基調にした落ち着いた部屋。
長椅子。
机。
暖かな灯り。
そして。
天井近くには、
淡く揺れる魔法陣。
ユーリスが見上げる。
「ここは……。
あの術式陣が、
この部屋に空気を?」
背後から、
二本の脚へ戻ったアーダが入ってきた。
「地上からの客人を迎えるための部屋だ」
天井を見上げる。
「空気も、気圧も、
地上と変わらぬよう調整してある」
俺達へ視線を戻す。
「だから安心して休め」
俺は小さく頷いた。
「ありがとう」
アーダは首を横に振る。
「礼を言われることではない」
そう言うと、
部屋の中央まで歩く。
しばらく黙ったまま、
窓の外を見つめていた。
「……一つだけ聞いてもいいか」
俺が口を開く。
「何だ」
「マリエル王女?だったか。
彼女は本当に地上へ向かったのか?」
アーダは少しだけ目を細めた。
「あぁ」
短く答える。
「確かなことは少ない。
だが、王女が自ら城を出たこと。
そして地上へ向かった痕跡だけは残っていた」
拳を静かに握る。
「海も、港も、地上も探し尽くした。
だが……見つからなかった」
部屋に沈黙が落ちる。
俺はゆっくり息を吐いた。
「……だからか」
アーダが振り返る。
さっきまで城門で見せていた、
総司令としての鋭さは薄れていた。
「だからこそ、私は知りたい」
静かな声だった。
「君達は何者なのか。
マリスとは何者なのか。
そして……」
僅かに間を置く。
「何故、海王鯨が君達を選んだのか」
俺はアーダを真っ直ぐ見返した。
「……分かった。
知っていることは全部話す。
ただ一つだけ…」
アーダが頷く。
「俺達も、この海で起きている異変を追ってここへ来た」
その言葉に。
アーダの表情が、
初めて僅かに変わった。
「……やはり、その話か」
アーダは静かに息を吐く。
しばらく、
窓の外の海を見つめた。
「正直なところ……」
短く間を置く。
「こちらも原因は分かっていない」
部屋が静まり返る。
「ある日を境に、海が荒れ始めた。
港へ近付くことも難しくなり、
交易も漁も大きな影響を受けている」
アーダはゆっくりと、
こちらへ向き直る。
「我々も原因を調べていた。
…そんな時だった。
海王鯨が突然動き出した」
少し間を置く。
「理由は分からない。
命じた者もいない」
静かな声だった。
「海王鯨は自ら海を渡り、
そして戻ってきた」
僅かに視線を落とす。
「君達を乗せて。
そして……、失われたはずの娘によく似た少女まで一緒に」
部屋に沈黙が落ちる。
「偶然とは思えん」
アーダは真っ直ぐ俺を見た。
「君達は何を知っている?。
何故、海王鯨は君達を選んだ?」
俺は少しだけ笑った。
「……何だ?」
アーダが僅かに眉を寄せる。
俺は首を横に振った。
「いや、すまない」
短く息を吐く。
「あんた……優しいな」
部屋が静まり返る。
「普通なら違う」
アーダを真っ直ぐ見る。
「そんな状況なら、俺達が何者か。
何故ここへ来たのか。
無理にでも、そんなことだけを聞くはずだ」
少し肩を竦める。
「なのに、あんたは違った。
自分達に起きたことを、先に全部話してくれた」
「……」
「だから分かった」
静かな声で続ける。
「あんたは俺達を疑うためじゃない。
本当に知りたいだけなんだな」
アーダは何も答えなかった。
ただ、
静かに俺を見つめている。
俺は一つ頷く。
「約束通り知っていることは全部話す」
少しだけ口元を緩めた。
「ただし、信じられるかどうかは別だがな」
アーダは目を細める。
「構わん」
短く答えた。
「今の私には、
思い込みで可能性を捨てる余裕はない」
その言葉を聞いて、
俺は静かに頷いた。
「嘘は言わない。
約束する」
槍へ軽く手を添える。
「これは、この世界で神器と呼ばれるようになった……俺の槍だ」
その一言で。
部屋の空気が変わった。
ユーリスが息を呑む。
ミリカも、
思わず耳を立てる。
セレスは黙ったまま、
俺だけを見つめていた。
一方、
アーダは表情を崩さない。
だが、
その瞳だけは僅かに鋭さを増していた。
それから俺は話した。
……俺が知る全てを。
神話と呼ばれる時代のこと。
記憶のないまま、
森で目覚めたこと。
ルゥと出会い、
家族を得たこと。
影。
ルクナス。
火の力。
自ら燃え、
そして神話となったこと。
数百年後に再び目を覚まし、
学院へ来た理由。
神器となった、
この槍。
神話が利用され、
戦争の火種となったこと。
そして……。
この世界を作った者達から、
すべてを守るために俺が動いていること。
各地で起きている異変。
アンカー。
俺は、
一つも隠さず話した。
部屋は静まり返っていた。
誰一人、
口を開かない。
長い沈黙が流れる。
やがて。
「……俄かには信じ難い話だ」
最初に口を開いたのは、
アーダだった。
その表情に、
大きな驚きは見えなかった。
ただ静かに、
俺の話を噛み砕こうとしているように見える。
「正直に言おう」
短く息を吐く。
「君の話だけを聞けば、
常人なら妄言と切り捨てる」
誰も否定しない。
俺も黙っていた。
「だが」
アーダは続ける。
「現に海王鯨は君達をここへ運び、
マリエルによく似た少女も現れた。
海も荒れている。
我々の知らぬ何かが起きていることだけは、
事実だ」
静かな声だった。
「だから、
今ここで否定はしない」
「……そうか」
少しだけ目を伏せる。
「ならいい……。
次は、たぶんあんたが一番聞きたい話だ。
……だが」
アーダの肩が、
一瞬だけ動いた。
「できれば、マリス本人から話をさせたい」
アーダを見る。
「俺が勝手に言っていいことでもないんでな」
「……」
「何者なのか、どうやって生まれたのか」
アーダの表情が僅かに硬くなる。
それでも、
口を挟まず聞いていた。
「俺から説明することはできる」
続ける。
「だが、あいつ自身の話だ。
本人がいるなら、本人の口から話した方がいい」
「分かった」
アーダはすぐに頷いた。
そして、
扉の前に立つ近衛へ目を向ける。
「あの子をここへ」
近衛が一礼する。
「はっ」
扉へ手を掛けようとした時だった。
「待て」
アーダが呼び止める。
近衛が振り返った。
アーダは少しだけ黙る。
「……陛下は?」
「王女と共に、
お休みになられています」
アーダが小さく息を吐く。
「一人だけ連れてくることはできないか……」
「恐らくは……」
「分かった……」
一度だけ頷く。
「お二人をここへ。
ただし、無理にお連れする必要はない」
「はっ」
近衛が部屋を出ていく。
扉が閉じる。
再び静寂が戻った。
アーダは窓の外へ目を向けたまま、
何も言わない。
俺も黙って待った。
……やがて。
扉が、
ゆっくりと開いた。
最初に姿を見せたのは、
マリスだった。
その手を握ったまま、
セレネリアも一緒に入ってくる。
やはり、
離れなかったらしい。
女王は先ほどより落ち着いていた。
だが。
マリスの腕へ添えた手には、
まだ力が入っている。
少しでも離せば、
また目の前から消えてしまうとでも思っているようだった。
マリスは俺達の姿を見つけると、
僅かに安堵したように息を吐いた。
「エア……」
「あぁ」
マリスは女王の手を離れ、
そのまま部屋へ入ろうとした。
だが。
扉の外は水中。
部屋の中は、
地上と変わらない環境だ。
「ッ!?」
「マリエル!?」
水を抜けた瞬間。
脚へ戻り切るより早く、
マリスの身体が前へ傾いた。
俺はすぐに前へ出て、
その身体を受け止める。
「マリス!?大丈夫か?」
「う、うん……ごめん。
まだ慣れてない……」
セレネリアの視線が、
俺へ向いた。
先ほどとは違う。
涙に濡れた目の奥に、
はっきりと警戒が見えた。
女王はすぐに部屋へ入る。
「大丈夫だ」
アーダが妻へ告げる。
「彼らは、マリエルと引き離すつもりはない」
その言葉に、
マリスの表情が僅かに曇った。
だが、
今は何も言わなかった。
セレネリアはしばらくアーダを見つめる。
やがて。
マリスを俺から取り戻すように腕へ抱き寄せ、
そのまま長椅子へ腰を下ろした。
隣へぴたりと寄り添い、
マリスの手を両手で包み込む。
アーダも、
その向かいへ座った。
そして、
マリスを真っ直ぐ見る。
「呼び出してすまない」
「いえ……」
マリスが小さく首を振る。
「君のことを聞きたい」
その一言に、
セレネリアの手が僅かに動いた。
「この者達からではなく」
アーダは続ける。
「できれば、君自身の口から話してほしい」
マリスは一度、
隣に座る女王を見た。
それから、
俺を見る。
俺は何も言わず、
小さく頷いた。
マリスは膝の上で、
指を握る。
「……話します」
小さな声だった。
セレネリアが、
その手を強く握る。
マリスは一度目を閉じた。
そして、
ゆっくりと開く。
「私は……」
言葉が止まる。
少しだけ俯いた。
「マリエルではありません…」




