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第230話:セルネレイア


「マリエル……あぁ、よかった……」


震える声だった。


女王は、

マリスを強く抱き締めたまま離さない。


肩を震わせ、

何度もその髪を撫でる。


「生きていた……。

 本当によかった……」


涙が零れ、

海の中へ溶けていく。


「えっと……」


腕の中で、

マリスが困ったように口を開いた。


「わ、私は……」


少しだけ女王を見上げる。


「その……マリエル、じゃ……」


「言わなくていいの」


女王は首を振った。


「もういいの……。

 苦しかったのでしょう?、

 怖かったのでしょう?。

 帰ってきてくれただけで……」


また強く抱き締める。


「それだけでいいのよ」


「ち、違います!」


マリスが少し慌てる。


「私はマリスです!、マリエルじゃありません!」


その言葉にも、

女王は首を振るだけだった。


「そんなことまで言わなくていい……。

 誰かに脅されたのね……」


不意に放たれた女王の言葉に、

俺は嫌な予感がした。


「もう大丈夫よ。

 ここなら誰も手を出せない。

 だから安心して」


「違っ……」


マリスが助けを求めるように、

こちらを見る。


「エ、エア……」


俺も困った。


どう見ても、

話が通じる状態じゃない。


その時。


「…………」


重い音が近付いた。


金属とは違う。


だが、

石でもない。


ネレイディアの鎧が擦れる音か。


近衛兵達が左右へ分かれる。


その中央を、

一人の男が歩いてくる。


長身。


鍛え上げられた身体。


深い蒼の軍装。


腰には一本の長剣。


鋭い眼差しは、

歴戦の将そのものだった。


男は女王の隣まで来る。


「……陛下」


低く呼び掛ける。


女王は返事をしない。


マリスを抱き締めたままだ。


男は小さく息を吐いた。


そして、

ゆっくりこちらへ視線を向ける。


一人ずつ。


俺。

ユーリス。

ミリカ。


そして……セレス。


「……っ?」


男の目が止まった。


視線の先。


セレスが持つ、

聖杭槍杖。


空気が変わる。


近衛兵達が一斉に身構えた。


「聖杭槍杖……」


男が低く呟く。


「中央の教会の回し者か?」


セレスは静かに答える。


「回し者か……随分な言いようだが。

 今の私は、それを断罪する立場にはない、とだけ言っておく」


「……ほう」


短い返事だった。


だが、

警戒は消えない。


男の視線は、

今度は俺へ移る。


槍を見る。


しばらく黙っていた。


「……妙な槍だ」


それだけだった。


何か違う。


そんな違和感だけを、

感じ取っているようだった。


再び全員を見渡す。


そして、

静かに言う。


「私は海王親衛軍総司令、

 アーダ・セルネレイアだ」


声に威圧はない。


だが、

逆らい難い重みがあった。


「一つ確認する。

 君達は何者だ。

 そして……」


マリスを見る。


まだ女王に抱き締められたままだ。


「その娘を、どこで見つけた」


静寂。


俺はゆっくり口を開く。


「俺達は学院の仲間だ」


「……学院」


アーダの眉が僅かに動く。


「地上の学院か」


「そうだ。

 アルケシア統合魔術学院から来た」


「なら、もう一つ」


彼は静かに手を上げた。


近衛兵達が動く。


敵意はない。


だが、

完全に包囲された。


「安全確認のため、

 武器を預からせてもらう」


その一言で。


俺とセレスは、

ほぼ同時に動きを止めた。


「……悪いが」


俺が言う。


「この槍だけは渡せない」


続いて、

セレスも静かに口を開く。


「私もだ。

 教会を知っているなら、

 聖杭槍杖がどういった物か知っているはずだ。


 私個人の判断で、

 預けることはできない」


その瞬間。


近衛兵達の空気が張り詰める。


アーダは表情を変えなかった。


ただ、

静かに頷く。


「……なるほど。

 二人とも、理由は違えど拒否するか」


その視線には、

軍人としての警戒がはっきりと宿っていた。


嫌な静寂が落ちる。


その時だった。


「ま、待ってください!」


ユーリスが思わず一歩前へ出た。


「私達は敵じゃありません!」


「それにマリスは!

 その子は――」


「ユーリス」


俺は静かに止めた。


今は迂闊に話すべきじゃない。


説明することが多すぎる。


下手に一つだけ話せば、

余計に疑われる。


アーダは俺達を見据えたまま口を開く。


「敵ではない、と言うのなら答えろ。

 この娘とは、どういう関係だ」


「…………」


俺は少し考えた。


嘘はつかない。


だが、

話せないこともある。


「学院で知り合った」


短く答える。


「俺達は同じ学院に通っていた」


アーダの眉が僅かに動く。


「学院……」


「知り合って一年も経ってない。

 それ以前のことは知らない」


「……一年」


低く繰り返す。


俺は頷いた。


「俺達も、この国へ来るまで知らなかった。

 マリスが王女と瓜二つなことも。

 全部、ここで初めて知った」


アーダは何も答えない。


ただ、

俺を見ている。


その沈黙が重い。


女王は、

なおもマリスを抱き締めていた。


「マリエル……もう大丈夫だから……。

 誰もあなたを連れていかせない……」


「だから違います……」


マリスが困り切った表情で首を振る。


「私は……私はマリス……。

 お願い……信じて……」


女王は、

涙を流したまま微笑んだ。


「ええ、分かってるわ。

 もう無理をしなくていいの」


アーダはしばらく、

マリスを見つめていた。


やがて、

小さく息を吐く。


その吐息には、

疲労とも諦めともつかないものが混じっていた。


「……陛下」


静かに呼び掛ける。


女王は返事をしない。


マリスの肩へ顔を埋めたままだ。


アーダはそれ以上、

何も言わなかった。


ただ一度だけ目を閉じる。


そして、

再び俺達へ向き直った。


「話を戻そう……」


低い声だった。


「お前達の話が真実だとしても、

 私にはまだ理解できないことが多すぎる」


その視線が、

今度はマリスへ向く。


「その娘は、自らをマリスと名乗った。

 ならば聞こう。

 何故、王家の歌を歌えた?」


静寂。


「何故、海王鯨がお前達を乗せ、

 この国まで導いた。

 そして――」


マリスの腕に浮かぶ、

淡い水色の紋様を見る。


「何故、その身体に王家の紋様がある」


誰も答えられなかった。


俺も。

ユーリスも。

セレスも。


知らない。


俺達が知りたいくらいだった。


アーダは静かに言う。


「私が知りたいのは真実だ。

 お前達を責めることが目的ではない。


 その娘が何者なのか。


 何故、王家とこれほどまでに繋がっているのか。

 それを知りたい」


「……私が」


小さな声だった。


全員の視線が、

マリスへ集まる。


女王だけは、

抱き締めたまま離さない。


「私は……」


少しだけ俯く。


「私にも分かりません……」


アーダの眉が動く。


「私はマリスです……。

 それしか知りません」


マリスは俯いたまま続ける。


「この歌も。

 この模様も。

 海王鯨も。

 どうしてなのか……私も知りたいです」


近衛達の間に、

小さなどよめきが広がった。


「知らない……?」「そんなことが……」

「だが、あのお姿は……」


戸惑いの声が漏れる。


アーダは片手を軽く上げた。


それだけで、

ざわめきは静まった。


彼は目を閉じる。


少しの間。


何も言わない。


やがて、

静かに目を開いた。


「ならば」


その一言で、

近衛達の姿勢が正された。


「真実が分かるまで、

 お前達には城へ留まってもらう」


誰も口を挟まない。


「拘束するつもりはない。

 だが、この件は王家だけの問題ではない。

 ネレイディア全体に関わる問題だ。

 軽々しく町へ出す訳にはいかん。


 まずは城で、

 話を聞かせてもらう」


俺は小さく息を吐いた。


「断ると言ったら?」


アーダは少しだけ俺を見た。


「……断る理由があるのか?

 ここは海底だ」


静かな声だった。


「海王鯨の加護がなければ、

 地上の者はこの海では生きられん」


海……。


そう。


ここは海の中だ。


「城には、地上人のための居室がある。


 空気も。

 生活に必要な設備も整っている。


 だが、城を離れればその加護は保証できない」


脅しではない。


ただの事実だった。


俺は周囲を見る。


見渡す限り、

海だった。


逃げ場などない。


「……分かった」


俺は頷く。


「俺達も知りたいことがある。

 協力する。

 その代わり…」


アーダを見る。


「知っていることは隠さず話してくれ。

 それを飲んでくれるなら、

 俺も礼を尽くす、知ってることはすべて話す」


アーダも小さく頷いた。


「約束しよう。

 互いに知るためだ」


その時だった。


女王が、

なおもマリスを抱き締めたまま呟く。


「……マリエル」


その声だけが、

誰よりも切なかった。

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