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第229話:海底の都


海王鯨の上。


水流を浴びながら、

しばらくが経った。


頭上には、

まだ水面が見える。


陽の光が波に揺られ、

細く砕けながら海中へ差し込んでいた。


「水……こわいにゃ……」


ミリカはずっと俺から離れない。


くっついたまま、

ぶるぶると震え続けている。


だからなのか……。


海王鯨はそれから深く潜るのではなく、

沖へ向かって真っ直ぐ進んでいた。


(優しいやつだな…)


周囲を泳ぐ魚の数も増えている。


銀色の小魚。


身体の長い青い魚。


ひらひらと布のようなヒレを揺らす、

見たことのない生き物。


海王鯨の巨体を恐れる様子もない。


その周囲を、

慣れたように泳いでいる。


「……いっぱい」


マリスが呟く。


さっきまで自分の尾を見ていた視線が、

今は海の中を忙しなく動いていた。


小さな魚の群れが、

俺達を包む膜のすぐ近くまで寄ってくる。


マリスが手を伸ばす。


水面のような波紋が群れに広がった。


魚達は驚いて離れたが、

すぐにまた戻ってくる。


「触れない……」


少し残念そうに言う。


それを見て、

ユーリスが身を乗り出した。


「マリス、どうやって声出してるんですか?。

 もう完全に水の中ですよね、それ?」


ユーリスはこんな調子で、

変化したマリスに興味津々だった。


「息は?、苦しくないですか?。

 変わった時は!?、前兆は!?」


「え……ユ、ユーリス?」


久々に、

ユーリスの質問攻めを見た。


海王鯨が海の中、

ゆるやかに身体を傾ける。


その先には、

海底が広がっていた。


深い谷ではない。


陽の光が届く、

広くなだらかな海底だった。


白い砂。


大きな岩。


色鮮やかな珊瑚。


背の高い海草が、

流れに合わせてゆっくりと揺れている。


「……森みたい」


ユーリスが小さく漏らす。


確かに。


木の代わりに海草が並び、

枝の代わりに珊瑚が広がっている。


その間を、

魚達が行き交っていた。


透明な生き物が、

ゆっくりと俺達の横を通り過ぎる。


丸い身体。


そこから伸びる、

細く長い足。


淡い青色の光が、

身体の内側で明滅していた。


「何だ、あれ?」


「クラゲ……でしょうか」


ユーリスも自信がないらしい。


一匹だけではない。


海草の向こうから、

いくつもの光が浮かび上がってくる。


青。


緑。


薄い紫。


光を宿したクラゲ達が、

潮の流れに乗って漂っていた。


その光景に、

マリスが目を見開く。


「すごく、綺麗……」


海王鯨は、

光の群れを割るように進んでいく。


クラゲ達は触れる直前で左右へ分かれ、

その巨体が通り過ぎると、

再び後ろで一つの群れへ戻っていった。


しばらく進む。


珊瑚の数が増えていく。


岩の形も、

少しずつ変わり始めた。


自然に出来たものではない。


表面が平らに削られている。


いくつかは、

道の両側へ並べられていた。


「……道か?」


俺の声に、

セレスが前を見る。


「誰かが整えた跡だな」


海草の間。


白い砂の上へ、

薄い青色の線が続いている。


海王鯨は、

その線に沿うように進んでいた。


やがて。


遠くに、

一つの光が見えた。


クラゲの光とは違う。


揺れていない。


一定の明るさで、

海底の上に浮かんでいる。


「あれ……」


マリスが身を乗り出す。


一つだと思っていた光の隣に、

もう一つ。


さらにその奥にも。


青い光が、

ゆっくりと数を増やしていく。


点だった光は、

海王鯨が進むたびに輪郭を持ち始めた。


柱。


門。


その向こうに並ぶ、

いくつもの建物。


海底の流れに揺れる海草の奥で。


一つの街が、

青い光を灯していた。


「……」


言葉が出なかった。


こんな景色は、

見たことがない。


海の中に…街がある。


しかも。


そこには確かに、

誰かが暮らしている気配があった。


「……すごいな」


思わず漏れた。


その時。


隣へ、

セレスが並ぶ。


同じように街を見つめたまま、

小さく口を開いた。


「……お前も、そんな顔をするのだな」


「ん?」


振り向く。


セレスは前を見たままだった。


「何でも知っているような顔をしているお前でも、

 初めて見るものには驚くらしいな」


ほんの僅かに、

口元が緩んでいた。


「当たり前だ」


俺はもう一度、

海底の街へ視線を向ける。


「いくら俺でも、

 こんなの……見たことねぇ」


海王鯨は、

何事もないようにその街へ向かって泳ぎ続けていた。


青い光を灯す街は、

少しずつその輪郭を大きくしていく。


その時だった。


「……ん?」


遠くから、

何かが近付いてくる。


魚じゃない。


人だ。


海の中を、

信じられない速さで泳いでいる。


「あれ……」


マリスも気付いた。


三人。


五人。


いや、

もっといる。


蒼い装束を纏ったネレイディア達が、

一直線にこちらへ向かってくる。


腰には短剣。


背には槍。


どこか兵士のような装いだった。


「ネレイディアの警備兵か?」


セレスが小さく呟く。


先頭の一人が、

海王鯨の目前で速度を落とした。


武器は構えない。


ただ静かに海王鯨へ頭を下げながら、

速度を合わせる。


そして、

視線を上げた。


俺達を見る。


ユーリス。

セレス。

ミリカ。


そして。


最後に、

マリスで止まった。


「!?…………」


兵士の目が大きく開く。


信じられないものを見るような顔だった。


マリスも戸惑っている。


「え……?」


兵士は慌てたように速度を上げ、

少し近付いた。


波紋。


青い尾。


そして、

海王鯨の背。


確認するように、

何度も見つめる。


「そんな……」


小さく漏れた声が聞こえた。


次の瞬間。


兵士は勢いよく振り返り、

後ろに続く者達へ合図を送った。


「急げ!!」


二人の兵士が、

街へ向かって一気に泳ぎ出す。


水を裂く音だけを残し、

あっという間に姿が小さくなっていった。


残った兵士達は、

互いに顔を見合わせる。


隊長らしき男が、

静かに拳の中で指を弾いた。


その音は、

不自然なほど大きく響いた。


それを合図にするように、

全員が武器を収める。


そして。


海王鯨の左右へ散開した。


「……?」


ユーリスが首を傾げる。


「囲まれた……わけじゃありませんね」


「違うな」


セレスが静かに答える。


「護衛だ」


その言葉通りだった。


兵士達は一定の距離を保ったまま、

海王鯨へ並走している。


誰一人、

こちらへ武器を向けない。


ただ、

静かに付き従っていた。


海王鯨はそんな彼らを気にする様子もなく、

街へ向かって泳ぎ続ける。


遠くでは。


街の方から、

次々と新たな人影が集まり始めていた。


海王鯨は街の上を通り、

真っ直ぐ城へ向かう。


その下では、

街のネレイディア達の声が聞こえてきた。


店の者。


子供。


商人。


兵士。


皆が海王鯨を見上げている。


「海王鯨だ……」


「王家が帰ってきた?」


「誰か地上に行ってたか?」


「陛下か?

 いや違う……誰だ?」


ざわめきが、

どんどん広がっていく。


そのまま城門へ。


既に何百人という近衛兵が、

整列していた。


槍を持っている。


だが、

穂先は下。


敵意を感じない。


儀礼の隊列だった。


中央だけが、

大きく開いている。


海王鯨はその中央まで進み、

ゆっくりと停止した。


「止まった……?」


ユーリスが辺りを見回す。


前方には、

青白く輝く巨大な城。


左右には、

整列した近衛兵達。


そのさらに後ろには、

城の者や街の住人達が集まっていた。


誰一人として声を上げない。


ただ。


固唾を呑んで、

海王鯨の背を見つめている。


「……降りろってこと、だよな?」


俺が呟くと。


海王鯨は小さく鳴いた。


―――コォォォォン。


低く。


腹の底へ響くような、

優しい声だった。


「……行くしかなさそうですね」


ユーリスが頷く。


俺は海王鯨の背から飛び降りた。


水の抵抗で、

勢いはほとんどない。


ゆっくりと海底へ降り立つ。


足が、

白い砂へ触れた。


続いてユーリス。


セレス。


ミリカも恐る恐る飛び降りる。


「にゃぁぁぁ!?

 死ぬぅううう!?」


半泣きになりながら、

ゆっくり降りてくる。


ユーリスはミリカを受け止め、

背中へ手を置いて落ち着かせた。


そして。


「わっ!?わっ!?……」


マリスが尾びれを振った。


だが、

まだ動きに慣れていない。


身体が横へ流れ、

くるりと一回転する。


「きゃっ!?」


そのまま頭から落ちそうになる。


「おっと……!」


咄嗟に手を伸ばした。


身体を抱き止める。


ふわり。


水の中で勢いは消え、

そのまま腕の中へ収まった。


「平気か?」


「……あ」


マリスが目を丸くする。


気付けば。


お姫様抱っこの格好だった。


「ご、ごめん……!」


真っ赤になって慌てる。


「まだ慣れてないんだろ?」


「う、うん……」


尾びれが、

恥ずかしそうに小さく揺れた。


その時だった。


「…………」


周囲が静まり返っていることに気付く。


視線を向ける。


近衛兵達。


城の者達。


集まっていたネレイディア達。


全員が、

息を呑んだままこちらを見つめていた。


その沈黙の中。


城門の奥が、

大きく揺れた。


整列していた近衛兵達が、

一斉に道を開く。


「女王陛下……」


誰かが呟いた。


青白い城の中から、

一人の女性が現れる。


長い髪が、

水の流れに合わせて静かに揺れていた。


身に纏っているのは、

淡い青と白を重ねた衣。


頭には、

珊瑚と真珠で作られた冠。


遠くからでも分かる。


この国の女王なのだと。


その後ろには、

何人もの側近。


武装した男。


若い女。


そして、

俺達と同じくらいの年頃の男も続いている。


だが。


女王だけが、

途中で足を止めた。


「……」


視線が向けられている。


俺ではない。


腕の中にいる、

マリスへ。


女王の目が、

大きく見開かれた。


「……マリ……エル?」


震える声だった。


マリスが、

俺の腕の中で小さく身を動かす。


「……?」


女王は動かなかった。


ただ。


マリスを見つめている。


顔。


髪。


身体に浮かぶ、

淡い水色の模様。


青い尾。


何かを確かめるように、

一つ一つへ視線を走らせていた。


その顔が、

少しずつ歪んでいく。


「……そんな」


掠れた声が漏れる。


後ろにいた男が、

女王へ手を伸ばした。


「陛下、お待ちをッ」


だが。


女王は聞いていなかった。


冠も。


周囲の兵士も。


集まった民も。


何一つ目に入っていないようだった。


次の瞬間。


女王が、

凄い勢いでこちらへ向かってきた。


「マリエル!!」


水を裂き、

一直線に。


「えっ?」


マリスが声を上げる。


俺が何かを言うより早く。


女王の両腕が、

マリスの身体へ伸びた。


「ん!?」


あまりの勢いに、

咄嗟に数歩下がる。


だが水の中では動きは鈍い。


マリスが、

俺の腕から奪い取られるように抱き締められた。


「……っマリエル!」


強く。


確かめるように。


二度と離さないとでもいうように。


女王は、

マリスを胸へ抱き寄せた。


「マリエル……あぁ、よかった……」


肩が震えている。


声も。


腕も。


「生きて……」


言葉が途中で途切れた。


それでも女王は、

マリスを離さない。


「生きていた……」


マリスは何が起きているのか分からないまま、

その腕の中で固まっていた。


周囲にいる誰も、

止めようとはしなかった。


近衛兵も。


城の者も。


後ろに立つ、

家族らしき者達も。


ただ。


マリスを抱き締めて泣く女王を、

静かに見つめていた。

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