↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
228/236

第228話:ネレイディア


潮の水しぶきが、

まだ降り続けている。


巨大な尾がゆっくりと揺れる。


その一振りだけで、

荒れ狂っていた波が大きくうねった。


「…………」


息を呑む。


あまりにも大きい。


船など比べものにならない。


港そのものを見下ろしているような巨体だった。


「う、嘘だろ……」


港の男が震えた声を漏らす。


膝から崩れ落ちそうになりながら、

海へ向かって一歩踏み出した。


「海王鯨だ……」


その一言で、

港中がざわめいた。


「あれが……」

「本当に……」

「何年ぶりだ……」


誰もが目を見開いたまま、

巨大な鯨を見上げている。


マリスも言葉を失っていた。


「私が……」


自分の喉へ、

そっと手を当てる。


「呼んだの……?」


答える者はいない。


その時だった。


巨大な鯨が、

ゆっくりと身体をこちらへ向ける。


海のように深い青い瞳。


その視線が、

真っ直ぐマリスへ注がれた。


「……」


見つめ合っている。


ほんの数秒。


永遠にも思えるほどの静けさが流れた。


―――コォォォォォォォォォン。


低く。


どこまでも優しい鳴き声が響く。


先ほど港を震わせた音とは違う。


胸の奥へ、

静かに染み込んでくるような声だった。


巨大な海王鯨は、

ゆっくりと目を細める。


そして。


大きな尾びれを高く持ち上げた。


―――ザァァァァァァン!!


海面を優しく叩く。


だが、

それでも海水が空高く舞い上がった。


青く輝く飛沫は、

陽の光を受けてきらめきながら港へ降り注ぐ。


まるで雨だった。


冷たい潮が頬を濡らす。


肩を濡らす。


港中の人々へ、

等しく降り注いでいく。


海王鯨はもう一度、

穏やかに鳴いた。


まるで。


長い間探し続けていた誰かを、

ようやく見つけたと喜ぶように。


「「「……」」」


誰も動けない。


港を包んでいたのは、

歓声ではなかった。


……静寂。


巨大な海王鯨は、

ゆっくりと港へ身体を寄せてくる。


荒れていた海が、

その巨体の周囲だけ静かになっていく。


そして、

海王鯨はゆっくりと頭を下げた。


まるで、

迎えるように。


「……まさか」


港の男が震える。


「あの姿勢……」


誰も息を呑んだまま動かない。


男は目を見開き、

海王鯨を見つめていた。


「王族を迎える時だ……」


小さく呟く。


「いつも……、

 ああやって待ってたんだ……」


港中がどよめく。


「衛兵を呼べ!」

「城へ知らせろ!」

「王族だ!」


あちこちから声が飛び交う。


人が集まり始める。


港の入口へ目を向けると、

武装した衛兵達がこちらへ駆けてくるのが見えた。


セレスが隣へ来る。


「エア……ここで捕まるのはまずいぞ」


ユーリスも振り向く。


「どうします?」


俺は衛兵へ目を向ける。


このまま捕まれば、

事情を説明するだけでどれだけ掛かるか分からない。


それに、

アルケシアのこともある。


「行くぞ」


目的は海底へ行くことだ。


ここで足止めを食らうわけにはいかない。


マリスが俺の顔を見て、

目を丸くする。


「えっ?」


俺はマリスの手を取り、

そのまま走り出した。


「全員で乗るぞ!」


「え……ちょっと……!」


迷っている時間はない。


岸を蹴り、

海王鯨の頭へ飛び移る。


巨大な身体は、

微動だにしなかった。


まるで最初から、

俺達を待っていたかのようだった。


「エア!?」


「早く来い!」


ユーリスが戸惑いながら飛ぶ。


伸ばされた腕を掴み、

そのまま引き寄せる。


セレスも迷わず続いた。


ミリカも飛び乗る。


全員が乗ったのを待つように、

海王鯨はゆっくりと身を翻した。


巨大な尾が海を打つ。


―――ゴォォォォォ……。


港中へ風が吹き抜ける。


海王鯨は、

その巨体からは想像できないほど滑らかに、

沖へ向かって泳ぎ始めた。


残された人々は、

ただ呆然と見送っていた。


ーーーーー


港は、

もう遠かった。


人影も小さくなっていく。


海王鯨は何も鳴かない。


ただ静かに、

沖へ向かって進み続ける。


荒れていた海も、

少しずつ深い青へ変わっていった。


「……」


マリスが辺りを見回す。


「どこへ……」


その時だった。


「ん?」


海王鯨の身体が、

ゆっくりと傾く。


頭が下がる。


海面が近付いてくる。


「お、おい……」


ユーリスとミリカが声を上げた。


「ちょっ!?

 待ってください!?

 海ですよ、海!?」


「いにゃぁあ!?

 溺れるにゃあああ!?」


次の瞬間。


海王鯨は、

そのまま海へ潜った。


「うおっ!?」


思わず身体へ力が入る。


海に飲まれる。


そう思った。


だが。


「……?」


濡れない。


息も苦しくない。


目の前を、

大量の海水が流れている。


それなのに、

身体の周囲だけ水がない。


海王鯨の全身へ刻まれた青い紋様が、

淡く輝いていた。


その光に呼応するように、

俺達の周囲を透明な膜が包んでいる。


空気だ。


巨大な泡の中へ入ったように、

海水だけが膜の外を流れていく。


耳へ届く音も変わっていた。


波が砕ける音はもうない。


聞こえるのは、

海そのものが鳴っているような、

低く重い響きだけだった。


顔を上げる。


さっきまで頭上にあった水面は、

もう遠い。


砕けた陽の光が、

幾筋もの青い柱となって海中へ差し込んでいる。


その光の間を、

銀色の小魚の群れが横切った。


思わず手を伸ばす。


だが魚達は、

透明な膜へ近付くと身を翻し、

何事もなかったように泳ぎ去っていく。


足元では、

海王鯨の青い紋様が脈打つように明滅していた。


光が走るたび、

俺達を包む膜も静かに揺れる。


海の中にいる。


目の前には水がある。


それなのに、

頬を撫でるのは乾いた空気だった。


現実とは思えない光景に、

思わず息を呑む。


「すごい……」


隣でしがみついているユーリスが、

小さく呟く。


頭上では、

揺れる水面が陽光を砕きながら輝いていた。


「すげぇ……」


「み、みみみみ、水にゃ!?。

 海にゃ!?中にゃ!?」


反対側では、

ミリカがぶるぶると震えている。


「あ……」


振り返ると。


セレスは、

いつの間にか聖杭槍杖を構えていた。


切っ先は、

海王鯨へ向いている。


突き出してはいない。


ただ、

いつでも動けるよう構えているだけだった。


「セレス……」


「反射だ……」


短く答える。


「……いきなり潜ったからだ」


そう言って、

ゆっくりと槍を下ろした。


その時だった。


「……っ」


マリスが突然、

胸を押さえた。


膝をつく。


「マリス!」


思わず駆け寄る。


マリスは膝をついたまま、

苦しそうに胸を押さえていた。


口が開く。


「……っ!」


身体を覆っていた膜から、

空気が一気に吐き出され、

白い泡となって消えていく。


止まらない。


息を吐くたび、

肩が震える。


「マリス!」


返事はない。


服の下から、

淡い水色の光が滲み始めた。


「……!」


胸元。


腕。


首筋。


布越しでも分かるほど、

全身の模様が輝いている。


光は、

ゆっくりと下へ流れていく。


腰を越え。


脚へ。


「な……」


脚が光へ溶ける。


輪郭が揺らぐ。


足首が消える。


二本だった脚は、

一つへ重なり合うように形を変えていく。


やがて。


透き通る青い鱗が現れた。


海王鯨の光を受け、

宝石のように淡く輝く。


その先で、

大きな尾びれがゆっくりと揺れた。


「……え」


マリスは呆然と、

自分の身体を見下ろしていた。


震える手が、

尾びれへ伸びる。


恐る恐る触れる。


その時だった。


さっきまで荒かった呼吸が、

少しずつ静まっていく。


肩の上下が止まる。


胸を押さえていた手が、

ゆっくりと離れた。


「……」


マリスは何度か口を開き、

静かに息を吸う。


そして。


驚いたように顔を上げた。


「……息が」


小さく漏れた声には、

もう苦しさがなかった。


ユーリスが、

その場へしゃがみ込む。


視線は、

マリスの尾びれへ釘付けになっていた。


淡い青の鱗。


海王鯨の光を受けるたび、

水面のような輝きが流れている。


「……綺麗」


思わず零れたような声だった。


マリスが顔を上げる。


ユーリスは、

そこで我に返ったように瞬きをした。


「よ、よかったぁ……」


「え、あ……ありがとう……」


だが、

その隣で。


「マリスが魚になったにゃ!?」


ミリカが叫んだ。


さっきまで震えていたはずなのに、

いつの間にか身を乗り出している。


丸く開いた目が、

尾びれの先から腰元まで忙しなく動いていた。


「魚って……」


マリスが自分の尾を抱えるようにして、

少し後ろへ下がる。


すると。


ミリカの耳が、

ぴくりと動いた。


「……」


口元から、

僅かに牙が覗いている。


「おい、ミリカ」


「にゃ、にゃんでもないにゃ!」


慌てて顔を背ける。


だが。


揺れる尾びれが目に入るたび、

視線だけが何度もそちらへ戻っていた。


セレスはその様子にも動じず、

下ろした聖杭槍杖を肩へ戻した。


「何を驚いている?

 ネレイディアなのだろう?」


静かな声だった。


「なら、

 当然ではないのか」


マリスが、

自分の尾びれを見下ろす。


「でも……私、半分は……」


鱗へ触れていた指が、

ゆっくりと止まる。


「この姿になったのは……

 初めて……」


海王鯨は変わらず、

深い海の中を進み続けている。


マリスは何度も、

自分の尾びれへ視線を落としていた。


まだ信じられない。


そんな表情のまま。


俺達を乗せた海王鯨は、

迷うことなく、

さらに深い蒼へ向かって泳ぎ続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。