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第227話:海王鯨


部屋は静かだった。


窓の外には、

黒い海が広がっている。


時折、

星と月の光が水面に揺れていた。


「……」


眠れなかった。


昼間からずっと……。


ここに来てから、

どうしてか胸の奥が落ち着かない。


私は窓辺へ歩く。


波の音が聞こえる。


耳を澄ます。


「……変」


やっぱり。


昼と同じ。


波じゃない。


もっと深い場所。


海そのものの流れが、

どこか歪んでいる。


何が違うのか。

どう違うのか。


それは分からない。


でも。


胸がざわつく。


まるで海が、

何かを訴えているようだった。


「……」


私は自分の手を見る。


淡い水色の模様。


エアが言っていた。


『綺麗だな』


思い出した瞬間。


「……っ」


頬が熱くなる。


そんなことを言われたのは、

初めてだった……。


「綺麗……」


首を横に振る。


何を考えてるんだろう。


今はそんな場合じゃない。


海がおかしい。


その方が、

ずっと気になる。


私はもう一度、

窓の外の海を見つめた。


ーーーーー


翌朝。


私達は再び港へ向かった。


昨日と同じように、

人々は困った顔で海を見ている。


壊れた桟橋、止まった船。


重い空気。


エア達は住人へ話を聞いていた。


私はその少し後ろを歩く。


自然と目が動く。


模様のある人、

ネレイディアと人間のハーフ。


この町で暮らす人達。


皆、

私と同じものを持っている。


黒でも白でもない、

それぞれの明るい髪色。


同じ海の血。


だけど、

どこか違う。


「……」


その時だった。


一人の男が、

海の方から歩いてくる。


濃く鮮やかな紺色の模様。


水を浴びるために港にいたのか、

服にはまだ雫が残っていた。


私は何気なく視線を向ける。


その人も、

私を見る。


そして。


「――っ!?」


目を見開いた。


息を呑む。


まるで、

信じられないものを見たような顔。


「そん……な……」


小さく漏れた声。


私は首を傾げる。


「……?」


男は慌てて口元を押さえた。


何度もこちらを見る。


「どうした?」


エアが私を見る。


私は首を横に振る。


「……分からない」


その間に、

男は視線を逸らした。


そして何事もなかったように、

私達の横を通り過ぎていく。


「……」


私はその後ろ姿を見送った。


今の人。


私を見て、

どうしてあんな顔をしたんだろう。


ーーーーー


港を歩く。


昨日よりも人は多い。


それでも、

活気はなかった。


市場は開いている。


魚を並べる台だけが、

空いたまま。


店主達は客を呼ぶこともなく、

ただ沖を見つめている。


船乗り達も腕を組み、

何度も海と空を見比べていた。


本当なら、

笑い声が響いていたはずの港。


それなのに今は、

誰もが海の様子を窺っている。


船は出ない。


漁にも行けない。


港全体が、

重苦しい空気に包まれていた。


「何か分かったことはありませんか?」


ユーリスが港の男へ尋ねる。


男は首を横に振った。


「もうお手上げだ。

 昔ならなぁ……」


男は海を見た。


「ネレイディアの王様なら、

 何とかしてくれたんだが」


「ネレイディアの王族が?」


ユーリスが聞き返す。


「あぁ」


男は海を指差した。


「セルネレイアの王族だけが歌える歌がある。

 その歌を聞くと現れる海王鯨だ」


それを聞いた瞬間。


なぜか、

肌がぞわりと粟立った。


「こんな風に誰も行き来できなかった日には、

 王族はそいつの背に乗って海を渡る。

 必要なもんはそれで届けてくれた。


 どんな海だろうが関係ねぇ。

 嵐も潮流も突っ切っちまう」


エアが腕を組む。


「つまり、

 その鯨を呼べれば海底へ行けるのか」


「呼ぶって……兄ちゃん、

 理屈じゃそうだがよ」


男は苦笑した。


「無理だ」


それから、

男の顔が曇る。


「王族なんざ何年も見てねぇ。

 まぁ、仕方ねぇんだろうけどなぁ……」


男は寂しそうに笑った。


「昔はよ、

 たまに港にも来てたんだ」


少し懐かしむように、

目を細める。


「王女様なんか特に気さくでな。

 ……けど、何年か前だ」


男は海を見る。


「王女様が突然いなくなった」


「……」


「詳しいことぁ誰も知らねぇ。

 ただ、その日を境に……。

 女王様は今でも王女様を探してるって話だ」


深いため息を吐く。


「他の王族も滅多に姿を見せねぇ。

 だから今じゃ、

 海王鯨を見ることもなくなっちまった」


男は少し目を細めた。


「王女様は本当にいい子だったんだ。

 あんな身分なのに偉ぶることもねぇ。

 市場じゃ子供らと一緒になって笑ってよ。


 魚屋の親父にも、

 八百屋のばあさんにも気さくに話しかけて……。

 この港じゃ、あの子を嫌う奴なんて一人もいなかった。


 漁から帰ってきた船があれば、

 真っ先に桟橋まで走ってな」


『今日はいっぱい獲れた?』


「なんて目ぇ輝かせながら聞くんだ。


 魚を一匹見せりゃ、

 子供みてぇにはしゃいで笑って。

 偉い人間だなんて、

 誰も思っちゃいなかった。


 だからこそ、

 皆あの子が好きだったんだ」


男は懐かしそうに笑いながら、

ふと私達へ目を向ける。


「ちょうど、

 あんたくらいの歳で――」


そこまで言って。


男の言葉が止まった。


視線が、

私に釘付けになる。


「……」


「……」


男の目が大きく見開かれた。


「……おい、おい」


震えた声が漏れる。


「こりゃ……たまげた」


周囲にいた人達も、

男の視線を追って私を見る。


「ど、どうした?」


男はゆっくりと私へ近付く。


信じられないものを見るような顔だった。


「嬢ちゃん……。

 その髪……。

 その顔……」


言葉を詰まらせる。


「王女様に……」


俺を見る目が、

さらに大きく開く。


「うり二つじゃねぇか……」


私は思わず自分を指差した。


「……私?」


「いや……」


男は首を振る。


「髪は違うけどな。

 王女様はもっと長くて、

 海をそのまま溶かしたみてぇな透き通る青だった」


男はもう一度、

私の顔を見つめる。


「けど……顔立ちも、目も……。

 雰囲気まで……そっくりだ」


ーーーーー


場が静まり返る。


俺は海を見る。


このまま港で話していても、

何も変わらない。


「マリス」


「……え?」


「試してみろ」


マリスが目を丸くする。


「え……でも」


「私、歌なんて……」


「歌えなくても構わない」


俺は海へ目を向ける。


「何も起きなければ、

 それで終わりだ」


もう一度、

マリスを見る。


「やれることは全部やる」


マリスは困ったようにユーリスを見る。


「エア、

 さすがにいくら何でも……」


「試しだ」


ユーリスも少し困ったように笑った。


「まぁ、

 試すだけなら損はありませんね」


「……」


マリスは小さく頷いた。


ゆっくりと浜辺へ歩いていく。


港中の視線が集まる。


誰も声を出さない。


波だけが、

荒々しく岸へ打ち寄せていた。


マリスは海を見つめる。


「…………」


歌う様子はない。


やっぱり無理か。


そう思った、

その時だった。


「――……」


小さな音が聞こえた。


「……?」


俺は思わず顔を上げる。


知らない言葉だった。


歌。


マリスが歌っていた。


海に向かって。


透き通るような声が、

荒れた波音の間を抜け、

静かな港へ響いていく。


誰も動かない。


港中が息を呑み、

ただマリスを見ていた。


歌声が、

海へ溶けていく。


「……」


荒れた波は、

相変わらず岸へ打ち付けている。


「…………」


やがて。


歌が終わった。


何も起きない。


「……終わりか」


港の男が肩を落とした。


「やっぱり、

 そんな都合よくいかねぇわな」


セレスが静かに呟く。


「何もなし、か」


俺も海を見る。


変化はない。


駄目元だ。


「マリス」


「……駄目だった」


マリスは振り返る。


少しだけ、

自分でも戸惑ったような顔をしていた。


「……でも、

 聞いたことがある気がした」


「……そうか」


その時だった。


ぴくり、と。


隣にいたミリカの耳が立った。


「……なんか来てるにゃ」


ミリカは海の方を見たまま動かない。


「ミリカ?」


獣耳が、

小さく震える。


「……来るにゃ」


―――ゴォォォォォォォ……。


腹の底を震わせるような、

低い音が響いた。


雷じゃない。


風でもない。


もっと深い。


海そのものが、

鳴いたような音だった。


港にいた全員の足が止まる。


子供が母親へしがみつく。


沖を飛んでいた海鳥が、

一斉に空へ舞い上がった。


次の瞬間。


海が唸る。


白く泡立った海面が、

円を描くように渦を巻き始めた。


押し寄せていた波が、

まるで何かを避けるように左右へ流れていく。


空気が変わる。


潮の匂いが一気に濃くなった。


肌を叩く風まで重い。


「な……なんだ……」


港の誰かが後ずさる。


誰も近付こうとしない。


渦の中心だけが、

異様なほど静かだった。


そして。


―――ザバァァァァァァァァァン!!


海が爆ぜた。


白い飛沫が、

空まで舞い上がる。


その奥から。


ゆっくりと、

巨大な影がせり上がってきた。


船など比べものにならない巨体。


蒼い身体。


全身へ刻まれた、

古代文字のような紋様。


海水を滝のように身体から落としながら、

荒れ狂う海面を押し退ける。


まるで。


島そのものが、

泳いできたような――


巨大な鯨だった。

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