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第225話:海へ続く道


結局、出発は見送ることになった。


マリスの消耗が、

思っていた以上に激しかったからだ。


命に別状はない。


だが、

ルクナスが身体を使った反動で、

まだ一人では歩けなかった。


あと一日。


マリスが動けるようになるまで、

俺達は獣人領へ留まることになった。


そして。


日が傾き始めた頃。


俺は一人で、

神木の杭へ触れた。


ーーーーー


柔らかな緑の光。


風が吹く。


目の前には、

リヒトが立っていた。


少し大人びた顔で、

穏やかに笑っている。


ラァ。


子供達。


リヒトが生きた時間。


俺が見ることのできなかった、

その先の景色。


胸へ残った温かさも。


僅かな違和感も。


全部、

今なら分かる。


「父さん?」


リヒトが首を傾げる。


その仕草まで、

俺の知るリヒトだった。


だが。


目の前にいるのは、

リヒトがここへ残した魂でもない。


この神木が見てきた記憶。


長い年月の中で、

枝葉に刻み続けてきた姿。


俺へ見せるために作られた、

優しい残像だった。


「……もう、十分見せてもらった」


リヒトの表情が止まる。


俺はその顔を見つめた。


「俺の代わりに」


声が少しだけ詰まる。


「リヒト達を見ていてくれて、

 ……ありがとう」


神木のリヒトは何も言わなかった。


ただ。


俺が気付いたことを理解したように、

少しだけ寂しそうに笑った。


その後ろで。


ラァも。


子供達も。


緑の光へ溶け始める。


「父さん……」


「あいつは……俺を、父とだけ呼ぶこともあったんだ。

 ここじゃない場所で……」


「……そうなんだ」


リヒトは少しだけ笑った。


「でも、父さんと呼べて――」


その声が、

緑の光へ溶けていく。


リヒトの声が、

遠くなっていく。


俺は黙って見送った。


引き止めない。


もう一度、

抱き締めようとはしなかった。


俺が触れたあの温かさも。


交わした言葉も。


偽物ではない。


神木が覚えていた、

確かに存在した時間だった。


リヒトは最後まで微笑んでいた。


その輪郭が薄れ。


緑の光の中へ、

静かに消えていった。


ーーーーー


風が頬を撫でる。


目を開く。


目の前には、

巨大な神木が立っていた。


杭へ触れていた手を、

ゆっくりと離す。


頭上で枝葉が揺れる。


何千年もの間。


俺の知らないリヒトを見て。


その家族を見て。


今まで守り続けてくれた木。


俺は神木を見上げた。


「……ありがとう」


葉が、

優しく鳴った。


それだけでよかった。


俺は踵を返す。


明日には、

再び旅が始まる。


次のアンカーへ。


この世界を守るために。


今も生きている、

俺の子孫達を守るために。


もう振り返らなかった。


それでも。


神木の葉が揺れる音は、

森を抜けるまでずっと聞こえていた。


ーーーーー


翌朝。


俺達は、

再び街道を歩いていた。


神木は、

もう遠く後ろにある。


風が吹く。


森の匂いも、

少しずつ薄れていく。


「……これくらいでいいでしょうか?」


隣から、

ユーリスが声を掛けた。


振り向く。


手には、

昨日砕いた黒い石の欠片。


俺が捨てるよう頼んだ物だった。


「ああ」


頷く。


「もう十分離れた」


ユーリスは街道脇へ歩き、

欠片を放った。


黒い石が草むらへ転がる。


その瞬間。


俺は手を伸ばした。


「……エア?」


赤い火が集まる。


一瞬だけ光り。


―――ボッ。


細い火線が走った。


石へ命中する。


黒い欠片は炎に包まれ、

焼け焦げながらさらに砕け散った。


しばらく燃え続け、

やがて灰だけが残る。


俺は火が完全に消えるまで見届けた。


「そこまでやる?」


後ろから声がした。


マリス……。


今はルクナスだ。


まだ顔色は悪い。


それでも、

少し笑っていた。


「徹底してるね」


俺は焼け跡から視線を逸らさない。


「ああ」


短く答える。


「もう二度と、

 あんな物を近付けたくない」


ルクナスは頷く。


「そうだね」


少しだけ真顔になる。


「やっぱり彼らも、

 そこまで馬鹿ではないね」


俺は焼け跡を見る。


直接来られない。


だから奴らは、

この世界の仕組みを利用した。


魔術。


石に術式を施し、

制御の効くアンカーの近くで影へ埋め込む。


それを導き、

こちらへ差し向けてきた。


「……小賢しい」


自然と呟いていた。


真正面から来ない。


世界の隙間を突き。


命を使い。


少しずつ壊していく。


「……俺が敵になるのも当然だ」


槍を担ぎ直した。


「行くぞ」


前を見る。


槍のことだけじゃない。


まだ見つけなければならないアンカーもある。


止めなければ、

影はまた入り込んでくる。


そして。


守らなければならない者達がいる。


俺達は再び歩き出した。


その時だった。


「もういいにゃ?」


「……?」


振り向くより早かった。


「にゃーーっ!!」


ドンッ!!


背中へ衝撃。


「うおっ!?」


反射で踏ん張る。


だが、

手には槍。


そのまま、

ミリカが俺の肩へ乗った。


「……」


ユーリスと俺は、

一瞬だけ黙って見上げる。


「にゃ?」


「にゃ、じゃない」


即答した。


「危ないだろ」


肩へ乗ったまま、

ミリカの耳がぺたんと伏せる。


「槍持ってるんだぞ」


右手の槍を少し持ち上げる。


「刺さったらどうする」


「平気にゃ!」


反省はしていないらしい。


「でも……」


ぼそっと呟く。


「景色いいにゃ」


「降りろ!」


「嫌にゃ!」


ルクナスが吹き出した。


「ふふっ」


肩を震わせながら笑う。


「君達は本当に飽きないね」


ユーリスも苦笑する。


「さっきまでエアが真面目な雰囲気だったのに……」


セレスは腕を組んだまま、

小さく息を吐く。


「騒がしい猫だ」


ミリカは胸を張る。


「誰が猫にゃ!、ん?合ってる?」


俺はため息を吐く。


「……頼むから次は、

 せめて声を掛けてから乗れ」


「努力するにゃ!」


「努力じゃなくてやれ」


「善処するにゃ!」


「同じだ」


思わず返すと。


皆が少しだけ笑った。


風が吹く。


笑い声を乗せながら。


俺達は再び、

次の目的地へ向かって歩き始めた。


ーーーーー


数日後。


景色が変わり始めた。


森は少しずつ姿を消し、

代わりに潮風が吹く。


鼻をくすぐる塩の匂い。


遠くから、

波の音も聞こえてくる。


「海だ」


ユーリスが前を見る。


丘を越える。


その先に、

大きな町が広がっていた。


石造りの街並み。


海へ伸びる長い桟橋。


その向こうには、

白い灯台が立っている。


「……あれが港町か」


俺が呟くと、

ユーリスが頷いた。


「はい。

 ネレイディアとの交易を認められている港の一つです」


「認められている?」


「ネレイディアは、

 海底に幾つもの国を持っています」


ユーリスは町を見下ろしながら続ける。


「地上側が勝手に海へ入り、

 どこでも交易できるわけではありません」


少しだけ風が強くなる。


潮の匂いが、

さらに濃くなった。


「この港は、

 周辺の海底国家から正式に交易を認められています」


ユーリスは指先で町を示す。


「人間だけでなく、

 ネレイディアや、

 その間に生まれた者達も多く暮らしているはずです」


「その間……ハーフ?」


隣から声がした。


マリスだった。


町を見たまま、

僅かに目を見開いている。


「そうです!」


ユーリスが答える。


「珍しくないと聞いています!」


「……そう」


短い返事だった。


だが。


マリスはそのまま動かなかった。


風が吹く。


青い髪が揺れる。


遠くにある町を、

何かを探すように見つめている。


「どうした?」


声を掛ける。


マリスは少し遅れて、

こちらを見た。


「何でもない……」


そう言って歩き出す。


だが視線は、

何度も町へ戻っていた。


学院以外で、

ネレイディアを見たことがないと言っていた。


自分と同じように、

二つの種族の血を持つ者も。


だから気になるのだろう。


そう思った。


だから今は、

何も聞かなかった。


俺達は丘を下り、

港町へ向かった。


ーーーーー


近付くにつれ、

建物の形がはっきりしてくる。


白い石壁。


青い屋根。


窓辺には、

貝殻や色ガラスを使った飾りが揺れていた。


潮風が路地を抜けるたび、

小さな飾りが涼しげな音を立てる。


道を行き交う者もいる。


人間。


獣人。


そして。


人間とは僅かに違う者達。


身体に、

薄く光る文様を持つ人々。


「……」


マリスの足が、

少しだけ遅くなる。


前を歩く親子。


母親は人間。


その隣を歩く子供には、

マリスと似たような明るい青い髪があった。


子供が笑う。


母親も笑い返す。


マリスは何も言わない。


ただ、

その姿を目で追っていた。


だが。


町へ入ったところで、

俺は違和感に気付いた。


……人はいる。


店も開いている。


荷車も並んでいる。


それなのに。


妙に静かだった。


怒鳴り声も。


笑い声も。


港から聞こえるはずの、

船乗り達の声もない。


皆。


同じ方向を見ていた。


海だ。


風が吹く。


潮の匂いが、

さっきより強くなる。


その直後。


遠くで。


何か巨大なものが崩れるような音が、

海の方角から響いた。

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