第220話:影の濁流
俺は走った。
雨が落ち始めていた。
細い雨だった。
頬に当たり、
首筋を伝う。
冷たい。
空はさっきより暗い。
神木の枝葉の向こうで、
黒い雲がさらに厚くなっている。
昼のはずなのに、
森の奥は夜に近かった。
「こっちだ!」
狼族の族長が前を走る。
土を蹴る音。
濡れた葉を踏み潰す音。
その全部が、
妙に遠く聞こえた。
俺は槍を握る。
穂先に火が灯っていた。
雨に濡れても消えない。
赤い……俺の火。
指先が熱い。
だが、
胸の奥はもっと熱かった。
黒い霧。
触れた者が倒れ、
生気を奪う。
……嫌でも思い出す。
守れなかった、
あの夜を。
「……ッ」
歯を食いしばる。
違う。
今は違う。
火がある。
俺だけじゃない。
神木がある。
リヒトが、
あいつらが繋いできた場所だ。
そこに…。
また…影が来た。
「クソどもが……」
声が漏れた。
狼族の族長が、
一瞬だけこちらを見る。
何も言わない。
ただ速度を上げた。
森が切れる。
外縁部へ出た瞬間、
冷気が肌を刺した。
「――ッ」
人がいた。
獣人だけじゃない。
人間。
耳も尻尾もない商人。
荷車を引く者。
結界の内側へ逃げ込もうとしている。
だが、
全員が入れるわけじゃなかった。
見えない壁の前で、
何人かが弾かれている。
「なんで入れないんだよ!」
「押すな!子供がいる!」
「火を持て!松明を回せ!」
怒号。
泣き声。
濡れた土の匂い。
そこに、
焦げた煙が混じっていた。
獣人の戦士達が前に出ている。
身体に土の強化を纏い、
武器を構えていた。
その向こう。
森の暗がりから、
黒いものが流れてくる。
ただの霧ではない…。
煙ならどれほどよかったか…。
…違う。
見た瞬間、
喉の奥が冷えた。
「……クソが」
黒い霧が、
地面を這うように進む。
輪郭がない。
形もない。
それなのに、
獲物を探すように揺れている。
戦士が槍を突き出した。
穂先が黒を裂く。
だが、
手応えはない。
黒は槍をすり抜け、
そのまま腕へまとわりついた。
「ぐぁっ……!」
男の膝が落ちる。
土の強化を纏っているせいか、
すぐには倒れない。
だが、
身体を覆っていた土が軋むように剥がれていく。
「離れろ!」
別の戦士が松明を突き出した。
火が近付いた瞬間、
黒い霧が弾けるように後退する。
耳障りな音がした。
――キィィィィィィッ!!
硝子を引っ掻くような音。
間違いない。
「影ッ!!」
俺は踏み込んだ。
「火を前へ出せ!!」
声を張る。
獣人達が振り向く。
「火だ!結界に入れない奴は、火の内側へ逃がせ!!」
槍を振る。
赤い火が雨を裂いた。
黒い霧が、
俺へ反応する。
一斉に向きが変わった。
「来い!」
槍を握り直す。
「燃やし尽くしてやるッ!!」
怒りが火へ流れる。
だが、
飲まれない。
燃やす場所を選ぶ。
焼くものを選ぶ。
戻れなくなる火じゃない。
守るための火を出す。
「ここから先へは行かせない!!」
地面を蹴った。
影が伸びる。
黒い腕のように、
何本もこちらへ走る。
槍を振り抜く。
―――ゴォッ!!
赤火が横へ走った。
雨が一瞬で蒸発する。
白い蒸気が広がり、
黒い霧が悲鳴を上げた。
焼ける。
燃える。
消えていく。
影が火に触れた場所から、
形を失っていく。
「すげぇ!効いてるぞ!」
誰かが叫んだ。
「松明を前へ!」「火を切らすな!」
戦士達が動く。
さっきまで後退していた足が、
少しずつ前へ戻る。
だが、
数が多い。
森の奥から、
さらに黒が滲み出てくる。
雨が強くなる。
松明の火が揺れる。
「くそっ……!」
狼族の族長が吠えた。
「火を出せ!民を守れ!」
その声に、
戦士達が応える。
だが、
結界の外に取り残された者がまだいた。
荷車のそば。
足を痛めた人間の男。
その隣で、
小さな子供が泣いている。
黒い霧が、
そこへ向かった。
「ッ!」
間に合わない。
戦士が走る。
だが、
影の方が早い。
俺は槍を地面へ突き立てた。
「行け!!」
火が震える。
槍の奥で、
何かが応えた。
赤い火が噴き上がる。
地面を割り、
雨を裂き、
長い身体を形作る。
竜。
火の竜。
赤い顎が開く。
咆哮は音じゃなかった。
熱そのものだった。
空気が震える。
黒い霧が止まる。
「焼けッ!!」
火竜が地を走った。
一直線。
子供へ伸びていた影を、
横から喰らう。
―――ゴォォォォッ!!
黒が消し飛ぶ。
雨が白く弾ける。
熱風で荷車が軋んだ。
人間の男が、
子供を抱えて伏せる。
火竜はその周囲を回り込むように走り、
赤い輪を作った。
「中で大人しくしてろ!」
俺は叫んだ。
「戦えない奴は火の内側へ逃げろ!」
戦士達が反応する。
「運べ!」「負傷者を火の内側へ!」
「松明を繋げ!」
狼族の戦士達が、
倒れた者を引きずる。
土の強化が剥がれかけた腕。
青ざめた顔。
浅い呼吸。
まだ生きている。
まだ間に合う。
「影に触れさせるな!」
槍を抜く。
火竜が、
俺の動きに合わせてうねる。
黒い霧が集まってくる。
俺を狙っている。
それでいい、
こっちへ来い。
民へ行くな。
戦士へ行くな。
「全部、俺が燃やす!!」
槍を振り上げた。
赤火が周囲を照らしていく。
黒雲の下。
雨の中。
火竜がもう一度咆哮した。
今度は前へ。
森の暗がりへ。
黒い霧の群れへ。
突っ込んだ。
―――ゴォォォォォッ!!
赤い奔流が、
真正面の影を飲み込んだ。
黒い霧が焼ける。
悲鳴が森へ響く。
火竜はそのまま突き進む。
次々と影を焼き払い、
黒を押し返していく。
「押してるぞ!」
「助かった!」
狼族の戦士達が叫ぶ。
その時だった。
「……ッ!」
焼け残った影が動く。
真正面から押し返されるのをやめた。
左右へ散る。
俺を。
火を避けるように。
黒い霧が、
森の両側へ大きく広がっていく。
「逃げた……?」
違う。
すぐに気付いた。
「あいつら……!」
狙いを変えた。
左右から回り込み、
一直線に結界へ向かう。
黒い濁流だった。
「構えろ!」
狼族の戦士達が松明を前へ出す。
だが、
影は止まらない。
――ドンッ!!
鈍い音。
黒い霧が結界へぶつかった。
淡い緑の光が広がる。
弾かれる。
それでも、
止まらない。
――ドンッ!!
――ドンッ!!
――ドドドドドッ!!
次々と。
何十。
何百。
黒い霧が、
結界へ体当たりを始めた。
緑の膜が波打つ。
まるで湖へ石を投げ込んだように、
幾重もの波紋が広がった。
「結界が……!」
誰かが息を呑む。
だが、
破れない。
影は内側へ入れない。
神木の結界は、
確かに奴らを拒んでいる。
その外側では。
松明を握った獣人達が、
結界へ入れない人間達を囲むように立っていた。
火を掲げる。
一歩も退かない。
影はその陣へ入れない。
だが、
どうにも数が多すぎる。
結界の外縁は、
黒い波に飲み込まれ始めていた。
戦士達の先頭で、
狼族の族長が松明を掲げる。
「こいつら……
結界の強度でも測ってやがるのか……?」
「火を絶やすな!!」
叫びながら、
俺は結界へ駆けた。
槍を振る。
―――ゴォォォッ!!
結界へ向かっていた黒い霧が、
まとめて消え去る。
不快な悲鳴。
だが、
止まらない。
俺は影を追い、
槍を返す。
―――ドォォンッ!!
火竜が地面を這う。
赤い顎が黒い霧を噛み砕き、
雨ごと焼き払う。
「まだいるぞ!」
狼族の戦士の声。
俺は振り向き、
さらに火を放つ。
焼く。
焼き続ける。
その時だった。
「……?」
影が変わった。
散っていた黒い霧が、
急に引き始める。
また逃げるように避け始めた。
だが今度は、
一つの場所へ集まっている。
二つの塊が重なる。
三つ目も吸い込まれる。
黒が膨れ上がる。
巨大な濁流になる。
「何を……」
次の瞬間。
――ドゴンッ!!
結界へ激突した。
緑の光が大きく波打つ。
弾かれる。
だが、
止まらない。
塊のまま横へ滑る。
外周を走る。
また激突。
――ドォンッ!!
再び弾かれる。
その勢いのまま俺と距離を取りながら、
さらに外周を走る。
そして、
またぶつかる。
まるで。
結界全体をなぞるように。
「……逃がすかッ!!」
俺は地面を蹴った。
追う。
あの数を逃がしたら。
結界もどこまで耐えられるのか分からない。
だから、
ここで全て焼かなければ。
火竜も咆哮を上げる。
その時だった。
背後で悲鳴が聞こえた。
振り返る。
結界の外。
まだ人間達がいる。
半端に焼け残った影が突撃し、
松明を掲げた獣人達が、
その前へ立ちはだかっていた。
その間にも、
集まった影は結界へ弾かれるたびに跳ね返り、
向きを変え、
また別の場所へ体当たりする。
まるで、
入口でも探すように。
「……ッ」
足が止まった。
残った影が少しでも松明の陣を抜けてしまえば…。
しかし、その一瞬。
その迷いを断つように。
「行け!」
低い声だった。
狼族の族長。
松明を肩へ担ぎ直し、
俺を見て笑った。
「ここは俺達の領域だ!」
周囲の戦士達も、
次々と松明を掲げる。
誰一人、
下を向いていない。
「守るのが俺達の役目だ!」
炎が揺れる。
「お前は、
お前にしか出来んことをやれ」
「……」
俺は周囲を見る。
火。
松明。
まだ足りない。
もっとだ。
もっと大きな火が要る。
「大きな……火……」
槍を握る。
だが。
ふと、
神木から受け取った感覚が胸の奥で脈打った。
火だけじゃない。
地面。
木。
土。
「……試すか」
槍を地面へ突き立てる。
土が震えた。
今までとは違う。
火だけじゃない。
地面の奥へ、
意識を沈める。
重い。
硬い。
大地そのものを掴む感覚。
「立て!!」
地鳴りが響く。
―――ゴゴゴゴゴッ!!
地面が盛り上がる。
巨大な木の幹が、
地中から押し上げられるように姿を現した。
一本。
二本。
三本。
見張り台ほどもある巨木が、
結界の外周へ並ぶ。
獣人達が息を呑んだ。
俺はその一本へ、
槍を向ける。
「灯せ!!」
赤火が走る。
一瞬で巨木へ燃え移る。
―――ゴォォォォォッ!!
巨大な炎柱。
雨をものともせず、
天へ届くほどの火柱が立ち上がる。
熱風が吹き抜けた。
暗かった森が、
昼のように照らされる。
残った影が、
結界から一斉に距離を取った。
火を嫌う。
分かりやすいほどに。
「すげぇ……」
誰かが呟く。
狼族の族長は、
松明を握ったまま笑った。
「十分だ」
炎柱を見上げる。
「これなら、
しばらく守れる」
俺は槍を引き抜く。
火竜が身体をうねらせる。
逃げる影は、
結界へぶつかり、
弾かれ、
またぶつかる。
そのたびに、
周囲の影まで吸い寄せられていく。
黒が黒を飲み込み。
塊は、
さらに膨れ上がる。
最初とは比べものにならない。
まるで、
一つの巨大な生き物が、
結界の外周を這い回っているようだった。
「行くぞ」
火竜が咆哮した。
俺は黒い塊を追って、
森の奥へ駆け出した。




