第219話:影、再び
屋敷を後にする。
振り返る者はいない。
……いや。
一人だけいた。
「……」
ミリカだった。
少しだけ歩みを止め、
もう一度だけ家を見る。
俺もつられて振り返る。
屋敷の前。
まだ家族が立っていた。
母であるミレイア。
長男・ラグド。
次男・ルダル。
長女・リゼア。
三女・リエナ。
三男・ルドラ。
そして、
母に抱かれた四男であり末っ子・ラギル。
全員がこちらを見送っている。
「……行くにゃ」
ミリカが小さく呟く。
もう迷いはない。
前を向く。
その横顔は、
さっきまでより少しだけ大人に見えた。
俺達は歩き出す。
次の目的地へ向かうには、
中央広場を経由する必要があった。
その道中。
「あっ、ちょっと待った!」
露店を片付けていた獣人が、
こちらへ駆け寄ってきた。
「あんたら、神木を助けてくれたんだろ!」
木籠いっぱいの果物を差し出す。
「これ持ってってくれ!」
「いや、そんなに――」
「遠慮するな!」
すると。
「だったら、うちの干し肉」「保存の利く木の実があるぞ!」
「あっ、水筒新しくしてやる!」
次々と人が集まってくる。
「ありがとう!」「助かった!」
「また来てくれよ!」
気付けば、
旅立つ前より荷物が増えていた。
ユーリスが、
抱えた包みを見ながら笑う。
「皆さん……ありがとうございます」
ミリカが胸を張る。
「神木は大事にゃ!、
獣人は恩を忘れないにゃ!」
そのまま歩き、
やがて神木の前にある中央広場へ出た。
族長会議が開かれた建物。
その向こう。
神木。
空を覆うほど巨大な枝葉が、
静かに揺れていた。
俺は足を止める。
見上げる。
あれは幻じゃない。
確かに会った。
リヒト。
ラァ。
二人の子供達。
あれが本人だったのか。
それとも、
神木が残していた記憶だったのか。
…それでも。
「会えてよかった」
胸の奥に残っていたものが、
ほんの少しだけ軽くなっている。
「また来る」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
少しだけ、
前へ進めた気がした。
「行こう」
その時。
「もう出るのか」
後ろから声がした。
最長老だった。
その隣には、
狼族の族長も立っている。
「贈り物に埋もれないよう、気を付けろ」
狼族の族長が、
さっき貰った食料の山を見て笑った。
「ああ」
その時だった。
―――サァ……。
冷たい風が吹いた。
「……?」
空を見上げる。
湿った匂いが鼻を抜ける。
水の匂いだ。
「雨か?」
さっきまで青かった空へ、
黒い雲がゆっくりと流れ込んでいた。
一つ。
また一つ。
誰かが呟く。
「変な雲だな……?」
その通りだった。
雲は、
神木の周囲へ集まるように押し寄せてくる。
まるで何かが、
太陽を隠そうとしているみたいに。
神木の枝葉がざわめく。
広場から、
少しずつ光が失われていく。
「暗いな……」
―――ゴロ……ゴロゴロ……。
遠くで雷が鳴った。
その瞬間。
―――ゴォーン!ゴォーン!!ゴォーン!!
鐘の音が、
広場中へ響き渡った。
全員が止まる。
「警鐘?」「なんだなんだ?」
「どっちだ?」
狼族の族長の顔つきが変わる。
続いて。
「族長ォォォ!!」
見張りの獣人が、
息を切らして広場へ飛び込んできた。
「報告します!」
血相を変えて叫ぶ。
「結界外縁部に、正体不明の敵を確認!!
見張りが交戦中!
増援も加わりましたが……ですが……!」
そこで言葉が詰まる。
顔から血の気が引いていた。
「何だ?」
狼族の族長が低く問う。
見張りは息を飲み込む。
「……見たことのない魔物です!!」
広場がざわつく。
「どんな奴だ?特徴は?」
見張りは荒い息のまま答える。
「攻撃が……効きません!
まるで黒い霧です!」
黒い霧…。
走ってきた獣族はそう言った。
「剣も!槍も!まるで役に立ちません!」
俺はルクナスを見る。
向こうも、
同時にこちらを見ていた。
まさか。
「当たっているはずなのに……
すり抜けるんです!」
広場のざわめきが消える。
「それだけじゃありません!」
見張りは震える声で続けた。
「奴らに触れられた者が……
次々と倒れています!」
「倒れた?」
「傷はありません…」
激しく首を横へ振る。
「ですが急激に衰弱し、
その場から動けなくなって……」
唇が震えていた。
「まるで、
生気だけを奪われたように……」
狼族の族長の顔が険しくなる。
「周辺の民達は、
既に結界内へ避難を始めています!
少なくとも、結界内には入ってこられない模様です!」
最長老が、
杖を強く握る。
「……他の方面は」
低く問う。
「確認中です!」
見張りが答えた。
その時だった。
「族長!!」
今度は反対側から、
別の獣人が広場へ駆け込んでくる。
「熊族より伝令!!」
肩で息をしながら叫ぶ。
「熊族領外縁部でも同じ魔物を確認!!
現在交戦中!!」
広場がどよめいた。
「熊族の族長が指揮を取り、
避難を進めていますが、
触れられた者から次々と倒れています!!」
狼族の族長も表情を硬くする。
「獣人領を……囲んでいる?」
「魔物……?」「戦争か?」
誰かが呟いた。
広場から、
一瞬で音が消えた。
「……」
ルクナスの顔から、
いつもの余裕は消えていた。
「ルクナス」
小さく呼ぶ。
「ああ…」
短く答える。
「黒い霧…」
ぽつりと呟く。
「攻撃が効かず…」
さらに続ける。
「触れた者から生命を削る……」
その目が細くなる。
「……まさか」
胸の奥が冷えた。
「あれが……」
俺も小さく呟く。
「影」
狼族の族長が、
鋭い目でこちらを見る。
「エア」
低い声だった。
「知っているのか?」
広場中の視線が、
一斉に俺達へ集まる。
俺は頷く。
「おそらく……」
短く答える。
「まだ断言は出来ない」
ルクナスも続けた。
「でも、特徴は一致している」
広場が張り詰める。
狼族の族長が一歩前へ出る。
「弱点は」
迷いなく聞く。
「倒せるのか」
俺は即座に答えた。
「火だ」
全員が息を呑む。
「火?」
「火を絶やすな!」
声が自然と強くなる。
「焚き火でもいい!」
さらに言う。
「全員に松明を持たせろ!
火を使え!」
広場の空気が一気に変わる。
「あいつらは火を嫌う!」
狼族の族長が問い返す。
「確かなのか」
「ああ!」
迷いはない。
「あいつらは火の中へ入れない!」
脳裏へ、
あの夜が蘇る。
焚き火。
火の輪。
その外側を、
苛立つように巡っていた黒い影。
「あいつらは闇の中では襲ってくる」
拳を握る。
「だが、
火がある場所には近付けない」
ルクナスも頷いた。
最長老が、
杖を強く床へ打ち付ける。
「すぐに伝令を飛ばせ」
狼族の族長も叫ぶ。
「全戦士に通達!!
松明を持て!!
火を絶やすな!!
火を焚け!!」
「はっ!!」
見張り達が一斉に駆け出した。
「……」
俺は拳を握る。
指の隙間から、
赤い火が漏れた。
「エア……?」
ミリカの声が聞こえる。
だが、
返事が出来なかった。
黒い霧。
触れた者が倒れる。
生気を奪う。
脳裏に、
あの夜が蘇る。
火の輪。
崩れた集落。
腕の中で、
少しずつ冷えていったルゥ。
「……ふざけるな」
声が漏れた。
せっかく。
せっかく影のいない場所まで来た。
神木が守り、
リヒト達が繋いだ場所。
ここには、
もう影が届かないはずだった。
それを――。
「エア」
ユーリスが一歩近付く。
俺は歩き出した。
「来るな」
低く言う。
槍を強く握る。
「危険だ」
「行きます」
ユーリスは即答した。
「危険なら尚更です」
「来るなッ!!」
声が、
広場へ響いた。
自分でも分かるほど荒い声だった。
「お前達が触れられたら終わる……」
拳の火が強くなる。
「ただの魔物とは違う……」
喉の奥で、
言葉が詰まる。
ルゥの冷たい身体が、
腕の中に重なる。
「……失うのは、ごめんだ」
それ以上は言えなかった。
ユーリスは怯まない。
目元を濡らしながら、
それでも一歩前へ出た。
「だからです」
静かな声だった。
「エアがまた一人で抱えて、
誰かを失った時みたいな顔をするなら」
拳を握る。
「私は行きます」
セレスも前へ出た。
「今、火を使えるのは貴様だけではない」
聖杭槍杖を握る。
「お前一人に背負わせる理由はない」
ルクナスから切り替わったマリスも、
静かに頷く。
「……私も行く」
ミリカも隣へ並んだ。
「ついて来るなって言っても無駄にゃ」
真っ直ぐ俺を見る。
「それに、
あたしも母ちゃんと約束したから平気にゃ」
少しだけ胸を張る。
「ちゃんと帰るって」
風が吹く。
空は、
さらに暗くなっていた。
俺の手の火だけが、
赤く揺れている。
「……」
目を閉じる。
一瞬だけ。
ルゥの顔が浮かんだ。
守れなかった。
「……」
ゆっくり息を吐く。
拳を開く。
漏れていた火が、
静かに収まった。
目を開く。
皆を見る。
ユーリス。
セレス。
マリス。
ミリカ。
「……分かった」
小さく言う。
全員が黙って聞いている。
俺は周囲を見渡した。
「だが、狼族側には――」
狼族の族長を見る。
「俺が一人で行く」
続けて振り返る。
「熊族側は、
セレスとマリス」
二人が応じる。
「ミリカ」
「ん?」
「お前はユーリスと一緒に猫族側へ行け。
土地勘もあるだろ」
「でも、
結局エア一人にゃ……?」
「俺にはこいつがある」
燃える槍を前へ出す。
赤い炎が、
穂先から柄へ這う。
「避難誘導と、
火の確保を優先しろ」
広場にいる獣人達へ目を向ける。
「獣人の魔術師は、
ほとんど土属性なんだろ?」
最長老が答える。
「その通りじゃ」
「なら、
それぞれ火を切らさないようにしてやれ」
ミリカを見る。
「避難している獣人達をまとめろ」
「任せるにゃ!」
胸を叩く。
「ユーリス。
お前はミリカと回って、
足りない所へ火を配れ」
「はい!」
「焚き火でも松明でも何でもいい」
短く言う。
「火を絶やすな」
「分かりました!」
今度は、
マリスとセレスを見る。
「お前達なら、
特に言わなくても平気だな」
セレスは、
ほんの少しだけ口元を動かした。
「まさか、
私が獣人を守る日が来るとはな」
マリスも槍を握る。
「任せて」
俺は頷いた。
「お前達に、
信じて任せる」
短く言う。
「だから、死ぬな」
誰も軽く返事をしなかった。
それぞれが、
一度だけ俺を見た。
俺は槍を担ぐ。
赤い火が、
槍身を包む。
「行くぞ」
言葉は要らなかった。
次の瞬間。
俺達はそれぞれの方向へ、
一斉に駆け出した。




