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第215話:その先にあったもの


風だけが、

神木の葉を優しく揺らしている。


最長老が、

ゆっくりと杭へ近付いた。


手を、

そっと木肌へ添える。


「……我らにも分からぬ」


静かな声だった。


「何故この杭が、

 今も朽ちぬのか」


誰も口を挟まない。


「何故、

 神木がこれを守り続けるのか」


最長老は、

杭に触れたまま続ける。


「ただ一つ。

 代々語り継がれてきた言葉だけはある」


空気が変わった。


「一人前の戦士になった者へ問う言葉でもあり、

 その意味を指す所は継がれてはいない…」


周囲の族長達が、

自然と姿勢を正す。


「だが…確かに」


最長老は目を閉じた。


「我らは忘れない」


風が吹く。


葉が、

静かに鳴る。


「……それだけが、

 今も伝えられておる」


「……」


俺はもう一度、

杭を見る。


何も分からない。


ただそこに、

一本の木の杭が立っているだけだった。


だから、

隣に立つルクナスを見る。


「ルクナス。

 これは、どう見る…」


ルクナスは、

もう一度杭へ目を向けた。


「……真似は出来ない」


ぽつりと呟く。


「これは僕が作ったプログラム……

 アンカーの仕組みとは根本から違う」


首を横へ振る。


「でも、一つだけ分かる」


全員の意識が、

ルクナスへ集まった。


「この杭は、

 何かを守っているんじゃない」


声が少し低くなる。


「何かと戦い続けている」


辺りの空気が張る。


「だから変わり続けている」


ルクナスは杭から目を離さない。


「世界に合わせて

 変化しているんじゃない」


少しだけ間を置く。


「外側から加わる干渉へ、

 対応し続けている」


そして、

神木を見上げた。


「結界そのものは、

 今も機能している」


誰も動かない。


「不安定になっている原因は、

 結界そのものじゃない」


ルクナスは、

木々の奥を見るように目を細めた。


「外側から、

 直接この内側へ干渉している何かがある」


「つまり……」


最長老の声。


ルクナスは頷いた。


「どこかに入口がある」


少し考える。


「入口……」


それから、

もう一度杭を見る。


「それを止めれば、

 この結界はもっと安定するはずだ」


最長老は、

ゆっくりと杭へ目を落とした。


「アンカー、というやつか……」


低く呟く。


熊族の族長が腕を組む。


「そんなもんが本当にあるなら、

 とっくに見つかってるだろ?」


狼族の長も続けた。


「我らは何千年と、

 この地を守ってきた。


 神木の周囲も、

 獣人領の果てまでも調べ尽くしている」


ミレイアも僅かに首を傾ける。


「そのようなものなら、

 すぐに分かりそうだがな?」


ルクナスは首を横へ振った。


「いや、それはどうかな?」


全員が見る。


「もしアンカーがあっても、

 君達にはただの石にしか見えない可能性もある」


静かな声だった。


「アンカーは、

 アルケシアにあるものみたいに、

 全部が全部大きいわけじゃない」


少しだけ間。


「しかも、一つとは限らない」


神木を見上げる。


「世界中へ打たれたアンカーのどれかが、

 この領域内にいくつもあるかもしれない」


俺は眉を寄せた。


「つまり」


ルクナスは頷く。


「原因の場所は分からない」


少しだけ肩を竦める。


「僕達以外にはね」


その一言で、

周囲の空気が変わった。


最長老は静かに目を閉じる。


「……ならば」


ゆっくりと目を開いた。


「我らだけでは、

 届かぬ話になるな」


その目が、

真っ直ぐ俺へ向けられる。


「エア」


落ち着いた声だった。


「どうか、

 我らへ力を貸してはくれぬか」


誰も口を挟まない。


「この神木は、

 我ら獣人の命そのもの」


杖を握る手へ、

僅かに力が入る。


「もし本当に、

 外から蝕まれているのなら」


一度、

神木を見上げる。


「守らねばならぬ」


熊族の族長も、

腕を組んだまま頷いた。


「俺らで出来ねぇなら……、頼むしかねぇ」


狼族の長も続ける。


「神木を守るため、

 力を貸してほしい」


風が、

木々の間を抜けていく。


「分かった」


俺は答えた。


迷う理由はなかった。


最長老は、

深く頭を下げる。


「感謝する…」


その時。


ルクナスが口を開いた。


「なら一つ、

 お願いがある」


全員が見る。


ルクナスは、

杭へ目を向けた。


「エアに、この杭へ触れてもらいたい」


最長老が眉を寄せる。


「触れる……?」


ルクナスは頷いた。


「僕は直接触れられない」


静かな声だった。


「外側の存在だから、

 この杭に拒絶される」


神木を見上げる。


「でもエアは違う。

 神木はエアを迎え入れた」


再び、

杭へ目を戻す。


「この杭を通して、

 干渉の流れを辿れるかもしれない」


少しだけ間を置く。


「それで、

 アンカーの場所が分かるはずだ」


最長老は、

しばらく黙っていた。


やがて、

ゆっくりと頷く。


「……よい」


杖が、

苔の上を軽く叩く。


「試してみよ」


反対する者はいなかった。


族長達も。

ミレイアも。

ルクナスも。


ただ、

こちらを見ている。


俺はもう一度、

杭へ目を落とした。


近くで見ても変わらない。


擦り減った木肌。


苔に覆われた表面。


神木の細い根が、

静かに絡み付いている。


どこにでもありそうな、

一本の杭。


「無理はしなくていい」


後ろから、

ルクナスの声が聞こえた。


「何か違和感を覚えたら、

 すぐに手を離して」


「ああ」


短く返す。


ゆっくりと、

右手を伸ばした。


木肌まで、

あと僅か。


その瞬間だった。


ざぁ……。


神木全体を揺らすような風が吹いた。


葉が鳴る。


枝が軋む。


頭上から、

緑の光が細かく降り注ぐ。


森そのものが、

大きく息を吸い込んだように。


「……?」


族長達も、

思わず上を見ている。


肌でわかる。


さっきまでとは違う。


神木が、

何かを待っている。


そんな感覚があった。


それでも、

手は止めなかった。


指先が木肌へ触れる。


冷たい。


そう思った次の瞬間。


―――どくん。


「……っ」


杭の感触が消えた。


代わりに。


何かが、

一気に身体の中へ流れ込んでくる。


緑。


風。


土。


水。


言葉では分け切れない、

無数の流れ。


根を走り。


幹を昇り。


枝へ広がり。


葉の一枚一枚へ届いていく。


まるで。


俺自身が、

神木の中へ放り込まれたみたいだった。


「エア!」


誰かが呼んでいる。


聞こえる。


だが、

もう遠い。


声が水の底から届くみたいに、

ぼやけていく。


意識が、

さらに奥へ沈んだ。


その時だった。


風が吹く。


葉擦れの音。


その中に。


今度は、

はっきりと声が混じった。


『……父さん』


「……!」


息が止まった。


聞き間違いじゃない、

確かに聞こえた。


…知っている。


忘れるはずがない。


その声と同時に。


世界が、

白く染まった。


「……」


気付けば、

立っていた。


どこまでも続く、

柔らかな緑の光の中。


足元には草。


頬を撫でる風。


湿った土の匂い。


木々の匂い。


懐かしかった。


森。


土。


木漏れ日。


あの頃と同じ匂いがした。


「……ここは」


声が、

妙に遠くまで響く。


辺りを見回す。


誰もいない。


だが。


足音だけが聞こえた。


っざ。


っざ。


ゆっくりと。


こちらへ近付いてくる。


緑の光の向こう。


人影が浮かぶ。


「……」


一人の青年だった。


短い黒髪。


見覚えのある顔。


あの日より、

背が伸びている。


肩も広くなった。


子供の面影を残しながら。


もう、

俺の知らない時間を生きた…男の顔になっていた。


青年は俺を見る。


そして…、

柔らかく笑った。


「……久しぶり」


少し照れたように、

額を掻く。


昔と変わらない仕草だった。


「……父さん」


その一言だけで。


胸の奥に押し込めていた何かが、

大きく揺れた。


「……リヒト」


自然と、

名前が零れた。


声が僅かに震えた。


リヒトは、

少しだけ目を細める。


「ああ……」


短く頷く。


そして。


笑った。


「会いたかった……」


「っ……」


何か返そうとした。


だが、

喉が動かなかった。


その時。


リヒトの隣。


緑の光の中で、

大きな影が動いた。


ゆっくりと姿を現す。


二本の足で立つ狼。


灰色の毛並み。


鋭い爪。


大きな身体。


だが。


その目だけは、

昔と変わらず柔らかかった。


「……ラァ」


名を呼ぶ。


ラァは静かに耳を一度パタつかせ、

…微笑んだ。


敵意はない。


警戒もない。


ただ。


懐かしそうに、

俺を見ていた。


リヒトが、

その横で少し笑った。


「父さんに、

 見せたかったんだ」


その言葉に、

胸の奥が小さく鳴る。


そして。


ラァの後ろから、

小さな足音が聞こえた。


一人。


いや。


二人。


緑の光の中から、

子供達が姿を見せる。


人に近い姿。


だが、

頭には小さな獣耳があった。


背後で揺れる尻尾。


狼にも似ている。


けれど、

完全な獣ではない。


俺の知る人とも違う。


その中間。


今の獣人に近い姿だった。


「……」


言葉が出なかった。


リヒトは、

少し照れたように子供達を見る。


「俺とラァの子だ」


子供達は、

ラァの足元へ隠れるようにしながら、

こちらを見上げていた。


不思議そうに。


少し怖がるように。


それでも、

目を逸らさない。


「……そうか」


ようやく出たのは、

それだけだった。


胸が詰まる。


リヒトが生きた証。


体が消え去り。


夢の中でしか見られなかった、

おぼろげな姿が。


今は、

はっきりと目の前にある。


家族を作り。


子を残し。


俺の知らない時間を生きた。


俺が直接見ることの出来なかった未来が、

目の前に立っていた。


「父さん」


リヒトが、

静かに俺を呼ぶ。


「俺達は……ここで生きた」


風が吹く。


緑の光が揺れる。


「父さんが守ってくれたみたいに」


少しだけ間。


「俺も……ここで大事な者達を守ったよ」


子供達の耳が、

小さく揺れた。


ラァがその背後に立ち、

包むように見守っている。


俺は、

何も言えなかった。


ただ。


目の前の光景を見ていた。


守れなかったものがある。


間に合わなかったこともある。


後悔も、

今でも残っている。


それでも。


俺が守った時間の先で。


リヒトは生きた。


ラァと共に。


家族を作り。


次の命へ繋いだ。


その証が、

今ここにいる。


俺が知らなかっただけで。


ちゃんと、

続いていた。


「……」


胸の奥が熱かった。


悲しいわけじゃない。


苦しいわけでもない。


それでも。


何かが、

込み上げてきた。


俺が守ろうとしたものは。


確かに。


ここまで届いていた。

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