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第212話:騒がしい夜


酒を飲み干した。


その時だった。


屋敷の二階から、

何かが倒れる音がした。


―――バタンッ!


「?」


「騒がしい…、誰だ?」


二人で天井を見上げた瞬間。


「離すにゃあああ!!」


「貴様こそ離せ!!」


聞き覚えのある声が二つ。


―――バキィッ!!


木の砕ける音が、

夜の庭へ響いた。


月明かりの中。


窓を突き破ったらしい木片と共に、

絡み合った二つの影が飛び出してくる。


「にゃあああああ!?」


「くっ……!」


二人はそのまま宙を舞い、

庭の生け垣へ突っ込んだ。


―――バサァッ!!


枝と葉が派手に散る。


俺は酒瓶を持ったまま固まった。


隣を見ると、

ミレイアもさすがに険しい顔をしている。


「……何をしている」


低い声だった。


生け垣の中から、

ミリカの尻尾がぴんと立つ。


「こ、こいつが先に言ったにゃ!」


「貴様が先に掴んだのだろう!」


セレスの声。


……少し呂律が怪しい。


「セレス?」


生け垣ががさがさと揺れる。


白い髪が出てきた。


「おのれぇ〜」


頬が赤い…、

目も据わっている。


すぐに分かった。


「酒か……」


セレスがこちらを睨む。


「違う!」


「いや、飲んでるだろ……」


「飲んでいない!」


「顔が赤い」


「赤くない!」


「赤い」


「赤くない!!」


その時。


二階の壊れた窓から、

ユーリスが顔を出した。


「だ、大丈夫ですか!?」


続いてマリスも覗き込む。


「……一杯しか飲んでない」


セレスが二階を睨み上げた。


「黙れぇ〜……ひっく!」


ミレイアが、

ゆっくり酒瓶を地面へ置いた。


「何をしている……お前達は……?」


俺も瓶を置き、

二階を見る。


「…誰が飲ませた?」


ユーリスの肩が、

びくっと跳ねた。


「え、えっと……その……」


マリスが淡々と言う。


「少しだけ付き合うって……」


「こいつ、こんな酒癖悪いなら先に言うにゃ!!」


生け垣から這い出したミリカが叫ぶ。


目元が少し赤い。


泣いた後なのだろう。


だが今は、

それ以上に怒っていた。


「一口飲んだら、いきなり喧嘩売ってきやがったにゃ!」


「喧嘩など売っていない!」


(一口でこれか……)


セレスも立ち上がる。


だが、

足元がふらついていた。


「貴様だけが辛そうな顔をするなと言っただけだ!」


「辛いに決まってるにゃ!」


「だから何だ!」


セレスが一歩踏み出す。


「私も辛い!」


庭の空気が止まった。


ミリカも、

言葉を失う。


セレスは赤い顔のまま、

俺を指差した。


「こいつは……!」


指先が揺れる。


「人を助ける!勝手に抱える!勝手に背負う!」


「おい」


「黙れ!」


怒鳴られた。


「そのくせ……」


そこで、

セレスの声が落ちた。


「見ているのは、私ではない……」


夜風の音まで遠のいた気がした。


「私の顔を見ている」


セレスは続ける。


「私の声を聞いている」


拳を握る。


「だが、見ているのは私ではない……」


ミリカの耳が揺れた。


セレスは、

苦しそうに言った。


「ルゥだ」


その名だけが、

庭へ落ちた。


「こいつが見ているのは、

 いつもその女だ」


誰も、

すぐには動けなかった。


ミリカはセレスを見ていた。


さっきまでの怒りとは、

少し違う顔で。


「お前はそれでも」


小さく言う。


「一緒にいるにゃ」


拳を握る。


「旅もしてるにゃ!

 エアの隣にいるにゃ!!」


声が震える。


「それなのに、

 何が不満にゃ……!」


セレスは笑った。


乾いた笑いだった。


「隣にいれば見てもらえると思うな!」


その声だけは、

酔っていてもはっきりしていた。


「私は、隣にいるから分かる」


ミリカが息を呑む。


セレスは、

ふらつきながらも立っている。


「貴様はまだいい」


「何がにゃ……」


「見てもらえない苦しさを、まだ知らない」


ミリカの耳が伏せる。


セレスの声は、

酒のせいで乱れていた。


だが。


その言葉だけは、

妙にはっきりしていた。


「私だって……」


一度、

言葉が詰まる。


「私として……見てほしかった」


風が庭を抜けた。


誰も何も言わない。


その時だった。


ミレイアが、

ゆっくり立ち上がる。


足元には、

二階から落ちてきた酒瓶。


それを拾い上げた。


瓶を一度見つめ。


小さく息を吐く。


「……やはりな」


次の瞬間。


――ゴツンッ!!


「にゃあっ!?」


鈍い音が響く。


ミリカが頭を押さえてしゃがみ込んだ。


「いったぁ……!」


「馬鹿者」


ミレイアの声が落ちる。


「この酒の隠し場所を知っているのは、

 お前だけだ」


ミリカの耳が、

ぴくりと震えた。


「う……」


「客人へ酒を勧めるならまだしも」


酒瓶を軽く持ち上げる。


「酒癖の分からん相手へ飲ませる奴があるか」


「だ、だって……」


「だって?何だ?」


「ご、ごめんなさい……」


耳がしゅんと垂れる。


ミレイアは、

それ以上責めなかった。


酒瓶を置き。


今度は、

ゆっくりセレスの前へ歩いていく。


「……」


セレスはまだ立っていた。


ふらつきながら。


何かを言おうとして。


「私は……」


だが、

続かなかった。


その時。


ふわりと。


ミレイアがセレスを抱き寄せた。


「……!」


セレスの目が見開く。


「十分だ」


静かな声だった。


ミレイアの手が、

白い髪をゆっくり撫でる。


「よく一人で抱えてきた」


セレスは固まっていた。


抵抗もしない。


ただ。


肩だけが、

僅かに震えた。


「辛かったのだろう」


撫でる手は止まらない。


「今日はもう何も考えるな」


セレスは答えなかった。


小さく息を呑む音だけが、

すぐ近くで聞こえた。


しばらくそうしてから。


ミレイアは、

ゆっくり顔を上げた。


視線が真っ直ぐ俺へ向く。


「……エア」


静かな声だった。


「さっきも言った」


僅かに目が細くなる。


「中途半端が一番残酷だ」


その一言だけで十分だった。


誰を選べとも言わない。


何をしろとも言わない。


だが。


逃げるな。


そう言われている気がした。


夜風が、

壊れた窓から吹き抜けていく。


その時。


「……エア」


小さな声だった。


ミリカが、

頭を押さえたままこちらを見ている。


泣いた後の顔。


それでも、

目だけは逸らさなかった。


「今日は……ごめんにゃ」


耳が少し伏せる。


「勝手に喜んで、

 勝手に怒って、

 勝手に泣いて」


鼻を少しすすった。


「でも」


次の瞬間。


ミリカは、

べっと舌を出した。


「あたしは諦めないにゃ!」


「……」


「エアのバーカ!」


そう言って、

くるりと背を向ける。


「ミリカ」


ミレイアが呼ぶ。


「寝るにゃ!」


そのまま、

屋敷の中へ逃げるように消えていった。


だが。


尻尾だけは、

最後まで強く立っていた。


「……」


その背中を見送る。


胸の奥にあった重さが、

少しだけ形を変えた気がした。


ミレイアは、

腕の中のセレスを支え直す。


「まったく、あの娘ときたら……」


壊れた窓を見上げる。


「騒がしい夜だ」


「本当にな」


俺には、

そう返すしかなかった。


夜風が。


散らばった木片と葉を、

静かに揺らしていた。


ーーーーー


それから俺は。


眠ってしまったセレスを、

ミレイアから受け取った。


部屋へ戻る。


寝台へ、

そっと身体を横たえる。


白い髪が、

枕の上へ広がった。


聞こえるのは、

規則正しい寝息だけ。


「……」


眠っている。


もう何も言わない。


俺はしばらく、

その寝顔を見つめていた。


さっきの言葉が、

頭から離れない。


『私として……見てほしかった』


「……」


胸の奥に、

鈍い痛みが残る。


最初にこいつを見た時。


可哀想だと思った。


火を通して見たセレスは。


教義に縛られ。


戦うことだけを教えられ。


自分が何者なのかも分からないまま、

一人で立っていた。


だが。


苦しめていたのは、

教義だけじゃなかった。


「……」


俺も、

その一つだった。


ルゥを探している。


その気持ちは変わらない。


むしろ今日。


俺はようやく、

それを自分で認めた。


会いたい。


迎えに行きたい。


だからこそ。


「……悪かった」


小さく呟く。


眠っているセレスには届かない。


それでも、

言わずにはいられなかった。


「お前は、お前なのにな」


返事はない。


寝息だけが続いている。


布を掛け直す。


そのまま部屋を出ようとして。


もう一度、

振り返った。


白い髪。


眠る横顔。


ルゥではない。


セレスだ。


当たり前のことだった。


なのに。


その当たり前を。


俺はようやく、

真正面から見た気がした。


ーーーーー


セレスを寝かせた後。


自分の部屋へ戻る途中だった。


「……エア」


小さな声。


足を止める。


廊下の先。


柱の陰に、

ユーリスが立っていた。


「起きてたのか」


「はい……」


どこか気まずそうに、

視線を落とす。


「すみませんでした」


深く頭を下げた。


「私が止めていれば……」


俺は首を振る。


「何があった?」


ユーリスは、

困ったように笑った。


「ミリカが落ち込んでいたので……」


少しだけ間を置く。


「元気を出してもらおうと思って、

 みんなで話をしていたんです」


「……」


「そしたらミリカさんが」


少し言いにくそうに、

声を落とす。


「『今日は飲むにゃ』って」


「……」


「お酒を持ってきて」


「それで飲んだのか」


「はい……」


申し訳なさそうに頷く。


「私とマリスさんは少しだけ付き合って。

 セレスさんも『一口だけなら』って」


肩を落とす。


「本当に一口だったんです」


「一口でか……」


「はい……」


さすがに、

少し笑ってしまった。


ユーリスも、

困ったように口元を緩める。


「最初は普通だったんです」


思い返すように言う。


「それが急に、

 ああなってしまって……」


少しの間。


「……すみません」


もう一度、

頭を下げる。


「いや」


俺は首を振った。


「止めなくてよかったのかもしれない」


ユーリスが顔を上げる。


「え?」


「酒がなければ…」


さっきのセレスの顔が浮かぶ。


「俺は…たぶん、

 一生あの言葉を聞けなかった」


「……」


ユーリスは、

しばらく何も言わなかった。


それから。


「エアは」


小さな声で言う。


「一人で、全部抱えすぎです」


「そうか?」


「そうです」


珍しく。


迷いのない返事だった。


「だから、セレスさんも。

 ミリカさんも」


そこで一度、

言葉が止まる。


「多分……私も」


ユーリスの指が、

服の裾を軽く握る。


「置いていかれそうで、

 怖くなるんです」


俺は何も言えなかった。


ユーリスは、

慌てたように首を振る。


「責めてるわけじゃありません」


少しだけ笑う。


「でも……せめて」


こちらを見る。


「置いていく時は言ってください」


「置いていく前提か」


「エアは、やりそうなので」


即答だった。


思わず、

少しだけ笑う。


「分かった」


「本当ですか?」


疑うような目だった。


俺は少し考える。


「少なくとも」


言葉を選ぶ。


「勝手に置いていく気はない」


ユーリスは、

まだ少しだけ俺を見ていた。


やがて。


小さく息を吐く。


「なら、今日はそれで許します」


「許されるのか?」


「はい」


今度は、

少しだけ楽しそうに笑った。


「おやすみなさい、エア」


「ああ」


ユーリスは頭を下げ。


そのまま、

廊下の奥へ戻っていった。


俺はその背中を見送る。


本当に。


騒がしい夜だった。


傷付けて。


怒って。

泣いて。


吐き出して。


それでも、

不思議と。


悪い夜ではなかった。

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