第211話:迎えに行く者
夜。
屋敷は静まり返っていた。
昼間、あれほど騒がしかった子供達の声も、
今はもう聞こえない。
代わりに。
葉の擦れる音だけが、
夜の庭から細く届いていた。
「……」
眠れなかった。
用意された部屋を出て、
木造の廊下を歩く。
足の裏へ、
昼間とは違う冷たさが伝わってくる。
月明かりが、
庭を青白く照らしていた。
その先。
生け垣の傍に、
一人腰を下ろしている者がいる。
「……起きていたか」
ミレイアだった。
酒瓶を片手に、
静かに夜空を見上げている。
俺に気付くと、
何も言わず隣を軽く叩いた。
「座れ」
俺は黙って腰を下ろす。
しばらく。
どちらも口を開かなかった。
冷えた風が、
庭を抜けていく。
やがて。
「…酒は飲むか」
「いや、今日は悪い酒になる」
「…そうか」
それだけだった。
瓶の中で、
酒が小さく揺れる音がした。
「……悪かったな」
先に口を開いたのは、
ミレイアだった。
「昼のことだ?」
俺は首を振る。
「あんたが謝ることじゃないだろ」
「…いや」
ミレイアは一口だけ酒を含んだ。
「族長としても、
母としても先走った…」
月明かりの中。
その横顔は、
昼間よりずっと柔らかく見えた。
「あの娘が初めて連れてきた男だった」
少しだけ笑う。
「少し期待してしまった」
「……」
「それに」
瓶を膝の上へ置く。
「お前は悪くない」
風が吹く。
「断る理由があった」
僅かな間。
「なら、それで終わりだ」
俺は黙って聞いていた。
「ミリカも」
ミレイアの口元が、
少しだけ緩む。
「泣くだろう。
きっと、しばらく落ち込む」
だが。
「立ち直るのも早い。
あの子も単純だからな」
「そうか…」
「ああ」
もう一度、
瓶が傾く。
「だから気に病むな」
夜は変わらず静かだった。
少しして。
ミレイアが、
ふとこちらを見る。
「一つだけ聞きたい」
「何だ?」
「お前の約束だ」
視線が真っ直ぐ俺へ向く。
「お前はそれを、
後悔したことはないのか?」
夜風が頬を撫でた。
俺は空を見上げる。
「ない」
短く答える。
「一度もな」
「そうか」
ミレイアは、
それ以上追及しなかった。
「それなら」
小さく笑う。
「娘が勝てる相手ではなかった…」
俺は何も言わない。
「生きていようが、死んでいようが…」
酒瓶を揺らしながら、
夜空へ視線を戻す。
「やはり…悪くない男だな」
少し間。
「だが、…難儀な男だ」
「最近よく言われる」
「だろうな」
二人とも、
少しだけ笑った。
声を上げるようなものではない。
夜を壊さない程度の、
小さな笑いだった。
やがて。
ミレイアが瓶を膝へ置く。
「……そういえば」
こちらを見る。
「まだ聞いていないことがあった」
「またか?」
「お前は槍を求めて学院へ向かった」
静かな声だった。
「それはもう知っている」
一拍。
「だが」
月明かりが、
ミレイアの横顔を照らす。
「何故そこまで槍を求めた?」
風が抜ける。
「言ったところで…、
たぶん信じないぞ?」
ミレイアは瓶を見つめ、一口飲んだ。
「…さっさと話せ」
それから俺は。
族長達の前では話さなかった部分を、
ミレイアへ打ち明けた。
槍を求めた理由。
ルクナスに託された使命。
神話と槍が争いの象徴となり、
やがて戦争へ繋がる未来。
そして。
その先で。
どうしても見つけなければならない者がいることも。
今度は隠さず。
全て話した。
―――――
「……はぁ」
話し終えた頃。
瓶の中身は、
半分ほどまで減っていた。
木々が風に鳴る。
ミレイアは何も言わない。
杯へ酒を注ぎ、
指先でゆっくり揺らす。
そして。
また、一口だけ飲んだ。
長い間が落ちる。
「……普通なら」
ぽつりと呟いた。
「笑い飛ばす話だな」
手元の酒を見つめる。
「神話。
未来。
世界の終わり」
乾いた笑みが浮かぶ。
「どれも私の手には余る」
少しだけ間。
「だが」
今度は、
真っ直ぐこちらを見た。
「その話……信じよう」
「……」
「驚いてはいる」
ミレイアは素直に言う。
「正直、
頭の整理もついておらん」
杯を傾ける。
「だが、お前は嘘をつく男ではない」
低く、
落ち着いた声だった。
「会議の時から……いや」
少し考える。
「初めて見た時から、
注意深く見させてもらった」
俺を見る。
「自分を大きく見せようともせず、
都合のいい嘘も並べなかった」
口元が僅かに緩む。
「娘を傷付けると分かっていても、
誤魔化さなかった男だ」
風が通る。
「そんな男が」
一度、
杯を膝へ置く。
「今さら与太話で私を騙す理由もあるまい」
俺は何も言わない。
ミレイアは、
自分の中で納得したように頷いた。
「……そうか」
しばらく夜空を眺める。
「だから、
ミリカを選べないわけか」
少しだけ首を振る。
「お前の道は、
お前にしか歩めない」
一拍。
「その道に立てる者も、決まっている」
俺は黙って頷いた。
ミレイアは苦く笑う。
「娘には勝ち目がないわけだ」
そう言うと。
酒瓶をこちらへ突き出した。
「飲め」
「さっき断っただろ」
「今は悪い酒ではない」
少しだけ笑う。
「一杯くらい付き合え」
月明かりの下。
俺は少し迷ってから、
瓶を受け取った。
一口。
喉を通る。
思ったより苦くない。
「……悪くない」
ミレイアが笑った。
俺は瓶を返す。
受け取ったミレイアは、
中の酒を少し揺らした。
「この酒は、
あいつが好きだった物でな……」
「あいつ?」
ミレイアはすぐには答えない。
夜空を仰ぐ。
「私にもな」
静かな声だった。
「守れなかった男がいる」
風が吹く。
「……」
「正確には」
少し苦く笑う。
「救えなかった、か」
一口だけ酒を飲む。
「私も昔は、
戦いの場ばかり走っていた」
目を閉じる。
「瘴気病を患ってな」
俺は黙って聞いていた。
「助けられた」
少しだけ声が柔らかくなる。
「夫にな」
夜の空気が、
静かに流れていく。
「命懸けで薬を取ってきた。
私は助かった」
だが。
その声が、
少し沈んだ。
「あいつは助からなかった」
短い間。
「いや」
ミレイアは首を振る。
「正しくは、
ゆっくり死んでいった」
風が、
木々を揺らす。
「何年もかけて、な」
酒瓶の口へ、
月の光が薄く反射した。
「悔いはある」
静かな声だった。
「どれだけ強くても……」
指先が瓶を少し強く握る。
「あいつだけは救えなかった」
けれど。
「だが、後悔はしていない」
その言葉だけは、
はっきりしていた。
「あいつは最後まで笑っていた」
ほんの僅か。
ミレイアも笑う。
「そして、最期にも。
私が助かったなら、それでいい、と」
一度、
屋敷の方を見る。
眠っている子供達がいる方へ。
「七人も子を授かった」
今度の声には、
隠しきれない誇らしさがあった。
「騒がしくて仕方のない家族だ」
瓶を軽く揺らす。
「だから私は前を向けた」
それから。
俺を見る。
「お前は違う」
静かな声だった。
「私は、
託されたものを守る側だ」
僅かな間。
「だが、お前は」
夜風が抜ける。
「今も迎えに行く側だ」
「……」
返事が出来なかった。
――迎えに行く。
その言葉が。
胸の奥へ、
まっすぐ落ちてきた。
戦争を止めるため。
神話を壊すため。
子孫を守るため。
そう思っていた。
いや。
それも全部本当だ。
嘘じゃない。
だが。
一番奥にあるものは。
もっと単純だった。
迎えに行く。
ルゥを。
もう一度。
だから歩いている。
だから、
まだ終われない。
「……そうか」
声が漏れた。
ミレイアがこちらを見る。
「何かあったか?」
俺はゆっくり首を振る。
「いや」
少しだけ口元が緩む。
「…自分でも今、分かった」
空を見上げる。
雲ひとつない。
月だけが、
高い場所に浮かんでいる。
「……会いたいんだな」
ぽつりと漏れる。
「俺は……また……」
最後までは、
言葉にならなかった。
それでも。
十分だった。
ミレイアは何も言わない。
ただ、
酒瓶をこちらへ差し出した。
俺も何も言わず受け取る。
一口。
今度は。
さっきより少しだけ、
喉の奥が温かかった。
瓶を返す。
ミレイアは受け取ると、
月を見上げたまま笑う。
「そういうものだ」
静かな声だった。
「強さでも、
理屈でもない」
一口飲む。
「愛とは、
そういうものだ」
風が、
二人の間を抜けた。
しばらく。
何も言わなかった。
やがて。
「……だがな」
ミレイアが酒瓶を揺らす。
「族長としては納得した」
少しだけ笑う。
「お前の道も。
娘が勝てぬ理由もな」
一口。
「だが」
今度は俺を見る。
「母としては別だ」
俺は思わず苦笑した。
「やっぱりそうなるか?」
「当然だ」
ミレイアが鼻を鳴らす。
「娘の恋が終わるかどうか決めるのは、
娘自身だ」
酒瓶を軽く掲げる。
「お前が迎えに行くと言うなら、
行けばいい」
そして。
少しだけ口元を緩めた。
「その間くらい、
うちの馬鹿娘にも足掻かせてやれ」
「……」
「どうせ諦める時も」
ミレイアは笑う。
「全力で諦める娘だ」
思わず笑った。
「それは……想像できる」
「だろう」
ミレイアも笑う。
「だから」
残っていた酒を飲み干す。
「遠慮だけはするな」
声が少しだけ低くなる。
「中途半端が一番残酷だ」
「……ああ」
短く答えた。
夜風が。
俺達の間を、
静かに通り過ぎる。
悪い酒ではなかった。




