第210話:今もある約束
食事を終えると、
そのまま全員で中庭へ向かった。
屋敷の中央にある広い庭。
土は固く踏み締められ、
ところどころに木人や丸太が並んでいる。
地面には靴跡や、
何かを引きずったような跡も残っていた。
普段から鍛錬に使われている場所らしい。
ラグドがゆっくり前へ出る。
武器は持たない。
俺も同じように、
庭の中央へ出た。
「……素手か」
「手合わせだからな」
ラグドは短く答える。
その横で。
「だ、大丈夫なんですか?」
ユーリスが不安そうに声を上げた。
「ラグドさん、かなり強そうですし……」
ミリカが笑う。
「平気にゃ」
「でも……」
「兄ぃはバカ犬じゃないにゃ」
ミリカは笑ったまま言う。
「ちゃんと加減できるにゃ」
ルダルも頷いた。
「兄上は必要以上に熱くなることはない」
ミレイアが一歩前へ出る。
「危なくなれば、私が止める」
それだけで、
周囲から余計な声は消えた。
ラグドが腰を落とす。
肩の力は抜けている。
だが、
目だけは真っ直ぐこちらを捉えていた。
風が中庭を抜ける。
土の匂いが鼻を掠めた。
「では、行くぞ」
短く言う。
次の瞬間。
姿が消えた。
「っ」
速い。
一直線ではない。
左右へ細かく踏み替えながら、
一気に間合いを詰めてくる。
(猫族……)
狼族とは違う。
軽い。
そして速い。
気付けば、
もう懐へ潜り込まれていた。
腹を狙う一撃。
腕を落として受ける。
――ドッ。
骨まで響くような鈍い衝撃。
だが、
その瞬間にはもうラグドの姿はそこにない。
横。
背後。
蹴り。
肘。
掌底。
攻撃が途切れない。
土を踏む音すら、
一つに繋がって聞こえる。
「速いな……」
ラグドは止まらない。
死角へ回り。
踏み込む。
「はっ!」
鋭い正拳。
今度は顔。
受けずに、
半歩だけ前へ踏み込んだ。
距離が消える。
「……!」
ラグドの目が僅かに動く。
拳に力が乗り切る前に、
その腕を受け止めた。
「捕まえた」
そのまま。
ただ前へ押し出す。
「ッ……!」
ラグドの足が地面を削る。
一歩。
二歩。
踏ん張ろうとする脚へ、
さらに力が入った。
それでも止まらない。
単純な力押しなら、
俺の方が勝る。
「兄上が……」
ルダルの声が、
土の擦れる音に混じって聞こえた。
ラグドの筋肉が軋む。
俺はさらに半歩踏み込む。
――ドンッ。
鈍い音。
ラグドの身体が数メートル後ろへ滑った。
両足で土を大きく削り、
ようやく止まる。
風に細かな砂が舞った。
「……」
ラグドは姿勢を崩さない。
ゆっくりと呼吸を整えた。
「なるほど」
腕を下ろす。
「確かに……力は俺以上だな」
ミリカが胸を張る。
ラグドは拳を一度だけ握り直す。
だが。
もう構えなかった。
「……十分だ」
腕を下ろす。
俺も力を抜いた。
「いいのか?」
ラグドは真っ直ぐ俺を見る。
「技もある」
一歩。
こちらへ近付く。
「力もある」
さらに一歩。
「そして、力に溺れてもいない」
そこで初めて、
僅かに口元を緩めた。
「よく分かった」
そのまま右手を差し出す。
「歓迎する」
俺もその手を握る。
硬い。
鍛え続けてきた手だった。
互いに一度だけ強く握り、
離す。
それで手合わせは終わったらしい。
「エア勝ったー!」
真っ先にリエナが声を上げる。
「すごーい!」
ルドラまで飛び跳ね、
ラギルも目を輝かせている。
ミリカは変わらず得意げに鼻を鳴らす。
「だから言ったにゃ!」
ルダルも少し肩の力を抜く。
「兄上がここまで認める相手は珍しい」
リゼアも穏やかに微笑んでいた。
「これで安心ね」
最後に。
ミレイアがゆっくり口を開く。
「異論はない」
低い声が落ちただけで、
騒いでいた子供達まで静かになった。
「エア」
俺を見る。
「お前は今から、この屋敷では客人ではない」
少しだけ間を置く。
「ミリカの婿として迎えよう」
「「「「……は?」」」」
声が漏れた。
俺だけではない。
ユーリスも。
マリスも。
セレスも。
全員、
その場で固まっていた。
一方。
「ほんとにゃ!?」
ミリカの耳が、
ぴんと立つ。
「母ちゃん!
本当にいいのかにゃ!?」
顔が一気に明るくなる。
ミレイアは静かに頷いた。
「迎え花が落ちたのは、おそらくこれだ。
神木も拒まず通した。
ラグドも戦士として認めた」
ラグドも黙って頷く。
「異論はない」
「やったにゃ!」
ミリカが勢いよく俺の腕へ飛びついた。
「エア聞いた!?これで一緒にいられるにゃ!」
「待て」
俺はミリカを見下ろす。
頭が追いつかない。
「いろいろと、いきなりすぎるだろ……」
「何がにゃ?」
ミリカは本気できょとんとしていた。
完全に受け入れている。
そこへ。
ラグドが腕を組んだまま続ける。
「歓迎すると言ったはずだ。
お前もそれを受けただろう?」
「あれ、そういう意味なのか!?」
その横では。
「エア兄ちゃんだー!」
「やったー!」
子供達まで大騒ぎになっている。
ルダルだけが、
少し困ったように口元を緩めた。
「母上……さすがに順序というものが」
ミレイアは真顔だった。
「順序?、
すでに全て終えているではないか?」
全員が黙る。
「迎え花を受け、
食事を共にし、
家の者へ紹介する」
一つずつ確認するように言う。
「そして最後に、
一族の戦士が力を見る」
ラグドへ目を向ける。
「それを認めたならば、
一族はその者を受け入れる」
静かな声だった。
「これは伴侶であろうと、
戦友であろうと変わらぬ」
少し間を置く。
「資格も十分だ」
ミレイアは俺へ向き直る。
「お前は礼を知っている。
会議でも余計な虚勢を張らず、
知ることは知ると言い、知らぬことは知らぬと言った。
必要な場では機転も利かせた」
鋭い目がこちらを捉える。
「力がある。
だが、その力に溺れない。
そして、己の芯を曲げぬ」
一瞬だけ、
白い髪のセレスへ視線が向いた。
「中央の白を前にしても、
お前は己の考えを貫いた。
白を纏っていても、
白に染まらなかった」
そして。
「……それで十分だ」
言い切る。
「族長としても」
少しだけ。
さっきまでの厳しい表情が和らいだ。
「母としても、
お前を迎える理由は揃っている」
中庭を風が抜ける。
誰もすぐには口を開かなかった。
ミリカだけが。
期待に満ちた目で、
俺を見上げている。
「……」
胸の奥に、
鈍いものが沈んだ。
どうしようもない罪悪感だった。
「エア!」
そんなことも知らず。
ミリカは笑っていた。
尻尾も嬉しそうに揺れている。
「返事するにゃ!」
「……」
俺は少しだけ目を閉じた。
そして。
「無理だ」
短く答えた。
風が止まったように感じた。
「……にゃ?」
ミリカの耳が、
ぴくりと動く。
「俺には既に伴侶がいる」
静かに言った。
「今も変わらない」
誰も口を開かない。
ミリカの顔から、
少しずつ笑みが消えていく。
「……でも!」
一歩前へ出る。
「昔の話だって言ってたにゃ!」
声が震えていた。
「その人は今どこにいるにゃ!」
俺はすぐには答えなかった。
「大切なら、そばにいるはずにゃ!」
胸の奥が、
少しだけ軋む。
「……いない」
短く答える。
「なら探すにゃ!」
ミリカは必死だった。
「探して、連れてくるにゃ!
ちゃんと会って、
それでもエアがその人だけを選ぶなら……」
そこで言葉が詰まる。
伏せかけた耳を、
無理に立てるように顔を上げた。
「……それなら、分かるにゃ」
俺は首を振る。
「違う」
静かに言う。
「そういう話じゃない」
「……」
「あいつは……俺が探さないといけない」
少しだけ間を置く。
「誰にも譲れない、
俺の約束だからだ」
誰も動かなかった。
その中で。
「……そうか」
最初に声を出したのは、
ミレイアだった。
怒ってはいない。
ただ静かに、
俺を見ている。
「なら、一つだけ聞こう」
「何だ」
「その約束は」
僅かな間。
「今も生きているのか?」
「ああ」
迷う理由はなかった。
「今も変わらない」
「相手が傍にいなくともか?」
「関係ない」
短く返す。
「俺が忘れない限り、
終わらない約束だ」
ミレイアは、
しばらく俺を見ていた。
やがて。
「……なるほど」
小さく息を吐く。
それ以上、
押し通そうとはしなかった。
むしろ。
さっきよりも、
その目から尖ったものが消えているように見えた。
「ミリカ」
「……にゃ」
俯いたまま、
小さな返事が返る。
「今日はもうよせ」
「でも……!」
「二度は言わせるな」
静かな声だった。
怒鳴ってはいない。
だからこそ、
ミリカも続けられなかった。
「これは、
他の女から奪う話ではない」
ミレイアは少しだけ目を閉じる。
「この男は、
何年経とうと捨てなかった約束を抱えている」
俺を見る。
「だから断った」
ミリカは何も言えない。
猫耳は伏せられたまま。
さっきまで大きく揺れていた尻尾も、
力なく地面へ落ちている。
ミレイアがその姿を見て、
僅かに表情を曇らせた。
「……見誤ったな」
今の声は。
族長としてではなかった。
一人の母親の声だった。
「私は、お前の強さと器を見た。
だから迎えようと決めた」
少しだけ目を細める。
「だが、一番大事なものを見落としていた」
風が抜ける。
木々の葉が擦れ、
小さな音を立てた。
「お前は今も、
その者と歩き続けているのだな」
その言葉に…。
俺は何も答えなかった。




