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第197話:忘れたくないもの


細い肩が、

腕の中で震えている。


背中へ手を回す。


何度も。


ゆっくりと、

撫でる。


震える背中を。


優しく、

なぞる。


暖かかった。


「……悪い」


何に対して謝ったのか。


自分でも、

分からなかった。


笑ったことか。


それとも。


また、

泣かせたことか。


セレスは答えない。


ただ。


俺の服を、

強く掴んだ。


「…これが俺だ」


小さく言う。


「神でも英雄でもない」


背中を撫でながら、

続ける。


「守りたいものを、守る」


セレスの震えが、

少しだけ強くなる。


「馬鹿みたいに。

 …同じことを、繰り返している」


俺は苦く笑いそうになって。


今度は、

やめた。


「……でも、それが俺だ」


水の音。


夜風の冷たさ。


そんなものが、

どうでもよくなるほど。


撫でる手のひらを通して。


セレスを、

感じていた。


腕の中のセレスは。


まだ、

泣いている。


俺はそのまま、

言葉を続けた。


「それで、俺は……。

 一度、終わった」


声を落とす。


「その後。

 ルクナスに、もう一度起こされた」


セレスの指が、

僅かに動く。


「この世界を、守り続ける」


水路へ視線を落とす。


「それが。

 あいつとした、契約だ」


だから。


「今。

 俺は、ここにいる」


俺は、

水面を見る。


「ルクナスは。

 可能性の未来を見た」


俺の火が、

神話になっていた。


俺の槍が、

神器になっていた。


俺の名前が。


戦争の理由に、

なっていた。


腕の中で。


セレスの呼吸が、

僅かに止まる。


「だから。

 俺は、また戻された」


短く言う。


「神話を壊すために。

 戦争を止めるために」


そして。


少しだけ、

間を置いた。


「それが。

 今の俺の目的だ」


セレスは、

何も言わない。


だが。


聞いていることだけは、

分かった。


「俺は。

 絶対神なんかじゃない」


背中を撫でる手を、

止めない。


「主でもない。

 誰かを裁くために、ここにいるわけでもない」


小さく息を吐く。


「俺は、俺だ」


そう言った。


「今も、昔も」


腕へ、

少しだけ力を込める。


「守りたいものを守るために。ここにいる」


セレスの額が。


俺の胸元へ、

押し付けられる。


「……そして」


少しだけ、

声が詰まる。


「俺は…ルゥを探す」


セレスの身体が。


小さく、

震えた。


「ルクナスは。

 契約の対価として、ルゥの魂を守ると誓った」


少しだけ間を置く。


「また会えるようにすると」


だが。


「上手くは、いかなかったが……」


静かに言う。


「今も何処にいるのか、分からない」


秘密裏に逃された、

ルゥの魂。


この世界へ逃げてきた、

ルクナス。


「だから、俺は探す」


夜の水面に。


月が、

揺れている。


「戦争を止め神話を壊し」


そして。


「その先で……必ずルゥを見つける」


セレスは。


まだ、

泣いていた。


俺はただ。


その背中を、

撫で続ける。


「これが、俺の向かう場所だ」


静かに。


時が、

過ぎていく。


セレスの震えも。


少しずつ、

落ち着いていった。


「……」


互いに。


しばらく、

何も言わなかった。


ただ。


側にいた。


離れなかった。


やがて。


「……見つかったら」


掠れた声だった。


セレスは、

少しだけ俯く。


まるで。


聞いてはいけないことを、

聞くように。


「見つかったら……、どうする?」


そして。


「……もし」


小さく続ける。


「見つけたとして」


俺の服を掴む指へ。


少しだけ、

力が入る。


「相手が…。

 …お前を覚えていなかったら?」


分かっている。


その考えは。


最初から、

俺の中にもあった。


だが。


これは。


最初から、

決めている。


「……別に」


俺は、

そう言った。


「覚えていなくても、いい」


セレスが。


少しだけ、

顔を上げる。


俺は、

水面を見たまま続けた。


「見つける」


静かな声。


「そして…守る」


少しだけ、

間を置く。


「それだけで、十分だ」


セレスは。


俯いたまま、

続ける。


「……それで。

 …お前は、幸せなのか?」


俺は、

少しだけ考えた。


幸せ。


そんなことは。


考えたことも、

なかった。


俺は。


ルゥを、

守り切れなかった。


だから。


せめて、

次があるなら。


最後まで。


幸せでいてほしい。


それだけだった。


「……ぉ」


答えようとした、

その時だった。


「……私は」


セレスが、

小さく息を吐く。


服を掴む指先へ。


少しだけ、

力が入った。


「私は……。

 覚えていてほしい…」


「……」


俺は、

言葉を止める。


「そこまで…誰かを想ったのなら…」


少しだけ、

顔を上げる。


「そこまで…誰かに想われたのなら…」


そう言って。


セレスは、

俺を見た。


白い肌。


涙の跡。


揺れる瞳。


月明かりに照らされ。


全てが、

見えた。


そして。


「忘れたくない…」


その一瞬だった。


本当に。


一瞬だけ。


ルゥに見えた。


森の中で。


泥にまみれながら、

笑っていた顔。


焚き火に照らされ。


俺へ向けられた、

優しい笑顔。


消えていった。


あの日の顔。


「……」


息が止まる。


だが。


次の瞬間。


別の顔が、

重なった。


見たことがある。


確かに、

ある。


なのに。


思い出せない。


遠い。


あまりにも、

遠い。


手を伸ばせば、

届きそうなのに。


霧の向こうへ、

消えていく。


誰だ。


胸が痛む。


分からない。


ルゥではない。


セレスでもない。


それなのに。


懐かしかった。


どうしようもなく。


「エア……?」


セレスが。


小さく、

目を見開く。


俺はそこで、

初めて気付いた。


頬を。


何かが、

伝っている。


泣いていた。


「……?」


何故だ。


ルゥを、

思い出したからか。


違う。


それだけではない。


あの顔。


思い出せない。


見たことが、

あるはずなのに。


届かない。


霧の向こうへ、

消えていく。


だが。


忘れてはいけない気がした。


何故なのかは、

分からない。


それでも。


胸の奥だけが。


妙に、

騒いでいた。


「……」


沈黙。


やがて。


セレスが、

ゆっくりと手を伸ばした。


白い指先。


それが。


俺の頬へ、

触れる。


伝った涙を。


静かに、

拭った。


「……お前も」


掠れた声。


「泣くんだな」


俺は。


少しだけ、

目を閉じた。


「ああ……でも」


正直に言う。


「何でだろうな……?」


夜風が、

頬を撫でる。


「…分からないんだ」


そう言って。


自分の涙へ、

触れる。


冷たかった。


「寂しいからじゃない…」


悲しいわけでもない。


ルゥを、

思い出した。


確かに。


思い出した。


だが。


それだけではない。


あの顔。


思い出せない顔。


知らないはずなのに。


知っている気がする、

顔。


「……変だな」


小さく笑う。


今度は。


無理に、

止めなかった。


セレスの指先が。


少しだけ、

止まる。


「……思い出したいのか?」


小さな声だった。


俺は、

少しだけ考える。


そして。


首を振った。


「分からない……」


本当に、

分からない。


だが。


「でも……」


夜空を見る。


月は変わらず。


そこにあった。


「大事なものだった気がする…」


それだけは。


何故か、

分かった。


「……そうか」


セレスは、

小さく呟いた。


その声は。


どこか、

力が抜けていた。


「……同じだな」


風が吹く。


白い髪が揺れる。


「私も……。

 最近は、そんなことばかりだ」


俺は、

視線を向ける。


セレスは。


月を、

見上げていた。


「知らないはずなのに、懐かしい」


小さく言う。


「見たこともない景色を、

 知っている気がする…」


少し間を置く。


「会ったこともない誰かが、

 大切だった気がする……」


夜風が、

通り過ぎる。


「……」


俺は。


何も言わなかった。


言えなかった。


「私だけでは。

 なかったんだな……」


セレスが、

そう言って。


少しだけ、

笑う。


泣き疲れたような。


弱い笑みだった。


「私も、分からない…」


その言葉だけが。


静かに、

残った。


だが。


その時だった。


ペタ。


小さな足音がした。


ペタ。


石畳を。


裸足で歩く音。


俺は、

顔を上げる。


水路の向こう。


路地の暗がりから。


子供が、

出てきた。


小さい。


痩せている。


服は汚れ。


膝も、

肘も。


骨ばっていた。


物乞いかと思った。


だが。


足取りが、

おかしい。


ふらついているのに。


迷いがない。


目は、

落ち窪んでいる。


生きているように見えて。


どこか、

死んでいる。


セレスが。


俺の服から、

指を離す。


背負っていた槍へ、

手を伸ばす。


「……エア」


「ああ」


分かっている。


これは。


ただの子供ではない。


子供は。


水路の前で、

足を止めた。


そして。


顔を上げる。


「……やっと。捕捉した」


子供の口から。


女の声が、

出た。


幼い喉を。


無理に鳴らしているような、

歪な声。


だが。


そこに、

感情はなかった。


冷たい。


ただ。


確認を終えた者の、

声だった。


「……使えない。体ね」


俺は。


セレスを、

背へ庇う。


「誰だ」


子供が笑った。


笑ったのは。


口だけだった。


「……忘れたの?」


その声を聞いた瞬間。


胸の奥で、

火が揺れた。


「……あたしよ」


女の声が言った。


「ノアリスか……」


夜風が。


止まったように、

感じた。


子供の身体が。


ゆらりと、

傾く。


だが。


倒れない。


まるで。


糸で吊られているように。


その場に、

立っている。


「……随分。探したわ」


ノアリスは言う。


「ルクナス……。相変わらず」


言葉が、

途切れる。


「隠すことだけは……。上手いわね」


「……その子は」


俺は、

低く聞いた。


「生きているのか……?」


ノアリスは。


つまらなさそうに、

答えた。


「見て。分からない?」


不自然に、

首が傾く。


「……死んでる」


セレスの息が、

止まる。


俺の中で。


火が、

静かに沈んだ。


怒りとして燃え上がる前に。


もっと深い場所へ、

落ちていく。


「貴様……。

 死体を使ったのか?」


握った拳から。


火の粉が、

僅かに舞い上がる。


「通信媒体……。としてね」


ノアリスは、

淡々と言った。


「元から。死んでたし」


子供の唇が、

僅かに歪む。


「生き物は……。難しいから」


少しだけ、

首が揺れる。


「ちょうどよかった」


俺は。


一歩、

前へ出る。


「要件を言え」


ノアリスは。


子供の顔で、

こちらを見る。


「投降しなさい……。エア」


短い言葉だった。


「あなたは。回収対象へ、移行した」


そして。


「槍も……。回収する」


セレスの肩が動く。


白い目が。


鋭く、

細まる。


ノアリスは、

そちらを見る。


「放置すれば……。面倒になる」


感情のない声。


「大人しく来れば。余計な被害は、出ない」


水路の音だけが、

響く。


「ルクナスを……。渡しなさい」


子供の唇が。


不自然に、

笑う。


「そうすれば……。存在権限くらいは、残してあげる」


「断る、と言ったら?」


握った拳から。


火が、

溢れ出す。


ノアリスは。


それを気にも留めず、

続けた。


「拒否する……。なら……」


子供の身体が。


ぎし、と。


軋む。


「……あなた達だけでは。済まない」


その瞬間。


子供の膝が折れた。


まるで。


糸が切れたように。


小さな身体が。


石畳へ、

崩れる。


コトッ。


音は。


軽かった。


あまりにも、

軽すぎた。


倒れた遺体から。


微かに。


ノアリスの声だけが、

最後に残る。


「迎えを送る……」


そして。


子供は。


二度と、

動かなかった。

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