第193話:全部分からなくなっているのは…
静かな旋律だった。
激しい戦いの歌ではない。
英雄譚でもない。
もっと古い。
もっと素朴な歌だった。
「――――」
歌が始まる。
獣。
雪。
飢え。
群れ。
知らない言葉も混じっていた。
だが。
不思議と、
情景は見えた。
吹雪の中。
傷だらけになりながら、
群れの前に立つ誰か。
牙を剥く獣達。
怯える子供達。
そして。
何度倒れても、
立ち上がる背中。
「……」
しばらくして。
歌が終わる。
酒場には、
拍手が起きていた。
俺は少しだけ考える。
ラルドは、
おそらく一人の人物ではない。
俺と、
狼の長との戦い。
そして。
ラルの面影も見える。
だが。
歌全体を通して、
最も強く見えたのは。
「……リヒトだ」
何度も傷付いた。
何度も倒れた。
それでも。
最後まで、
群れの前から退かなかった。
だから獣人達は。
力ではなく、
その背中を語った。
そんな話だった。
「いい話ですね……」
ユーリスが呟く。
ユスティが笑う。
「だろう?」
周囲の客も頷いていた。
「懐かしいな」「昔、親父に聞かされた」
「獣人領じゃ有名だからな」
そんな声が飛ぶ。
その時だった。
「……くだらん」
静かな声。
全員が、
そちらを見る。
セレスだった。
「……」
俺は少しだけ目を細める。
何か、
違和感があった。
セレスは、
机へ肘をついている。
頬が少し赤い。
「ラルド?」
僅かに眉を寄せる。
「主の火より先に、
語るものではない」
ユスティが目を瞬かせた。
「おや?」
セレスは続ける。
「絶対神エンラの歌はないのか」
少し、
食い気味だった。
ユーリスが固まる。
「セレス……さん?」
「ぁあ?何だ?」
「いえ……」
何かがおかしい。
そう思った時だった。
俺は机を見る。
セレスの前。
木のコップ。
空だった。
「……」
思い出す。
歌の途中。
確か、
店員を呼んでいた。
「セレス……それは酒か?」
ユーリスも気付く。
コップを見る。
セレスを見る。
もう一度、
コップを見る。
「酒ですね……」
確信した声だった。
セレスが睨む。
「私を誰だと……酒など飲まん!!」
ルクナスが肩を震わせる。
「君、弱いんだね」
「弱い?愚弄する気かー!!」
「いや。
顔、真っ赤だよ?」
「赤くない」
「赤いです」
ユーリスが言った。
「赤くない」
「赤いです」
「赤くない」
「赤いです」
少しの沈黙。
ルクナスが、
また吹き出した。
「あはははっ!」
セレスの眉が、
ぴくぴくと動く。
「……笑うなぁあ!!」
「ごめんごめん」
立ち上がったセレスを、
俺は慌てて押さえた。
「やめろ!落ち着けセレス!」
「えぇい!離せ〜!!
私自ら、断罪してくれるぅ!!!」
ユスティまで笑っている。
「ははは、これは失礼」
酔ったセレスは。
何というか。
幼かった。
「は〜な〜せ〜!」
「待てって!
おい、ユスティ!」
俺は、
笑っているユスティを見る。
「絶対神エンラの歌はないのか!?」
ユスティは、
顎へ手を当てた。
「エンラか」
少し考える。
そして。
面白そうに笑った。
「あるよ」
セレスの動きが止まる。
「何?ならば聞かせろ……」
今度は、
一気に静かになった。
ユーリスも反応する。
「あるんですか?」
「もちろん」
ユスティは肩を竦めた。
「そうだな……。
せっかくだし」
楽器へ手を添える。
「今じゃ、なかなか聞けそうにない方の曲にしよう」
酒場の空気が、
少し変わった。
ぽろん。
再び、
弦が鳴る。
今度は。
さっきとは違う音だった。
ユスティが歌う歌は。
今まで聞いた中で。
…一番、俺に近かった。
ーーーーー
夜があった。
闇があった。
人は、
まだ弱かった。
獣は牙を持ち。
魔は人を喰らい。
人々は、
火を囲んで震えていた。
その時。
一人の男が立った。
火を持ち。
夜へ向かった。
ーーーーー
俺がしてきたことを。
なぞるような歌詞だった。
どこにも。
神だったとか。
英雄だったとか。
そんな言葉はない。
ただ。
守るために、
火を持った者の話。
ユスティは続ける。
ーーーーー
ただ歩き。
火を掲げ。
道を照らし。
獣を退け。
闇を払い。
人々が眠れる夜を作った。
遠い昔。
人々は言った。
火が来た、と。
闇が退いた、と。
朝が来た、と。
だが。
男は言った。
違う。
火が来たのではない。
皆で生き延びただけだ、と。
男は戦った。
何度も。
守るために。
誰かのために。
火は、
多くを焼いた。
だが。
男が守ろうとしたものは。
いつだって、
人だった。
ーーーーー
最後の音が落ちる。
静寂。
酒場が静かになる。
誰も、
すぐには喋らなかった。
「……」
セレスが眉を寄せる。
明らかに、
納得していない顔だった。
「待て」
低い声。
ユスティが顔を上げる。
「何だい?」
「それのどこが絶対神エンラだ?」
酒場の空気が、
少し張る。
セレスは続けた。
「裁きはどうした?
主の火は?
世界を支える神杭は?
異端を正す導きは?」
ユスティは、
少しだけ笑った。
「それは、中央の歌だろう?」
「何?」
「今のは、もっと古い」
弦を軽く弾く。
ぽろん。
「灰火派や、辺境に残っている歌さ」
ユスティは肩を竦める。
「そっちじゃ、エンラは神様じゃない」
「じゃあ何だ」
セレスが睨む。
ユスティは迷わなかった。
「最初の守護者だよ」
静かな声だった。
「火を持ち、夜に立つ人」
ぽろん。
小さく、
弦が鳴る。
「だから神になった」
少しだけ間を置く。
「神だから守ったんじゃない」
酒場が静かになる。
セレスは、
言葉を失った。
ユスティは笑う。
「同じエンラでも。
語る場所が違えば、随分違うだろう?」
「……」
自然と、
口元が緩んだ。
嫌いではなかった。
むしろ、
ちゃんと覚えていてくれたようで。
少し、
嬉しかった。
そう思った時だった。
「……危険だな」
セレスが口を開く。
酔いのせいか。
いつもより、
感情が見えていた。
「中央でそれを歌えば、
…異端だ」
静かな声。
「神を人へ落とす歌だ」
ユスティは肩を竦める。
「そうかもしれないね」
「そうかもしれない、ではない」
セレスは続ける。
「中央の教義では、
そう判断される」
言葉が落ちる。
酒場の空気が、
少しだけ重くなる。
その時だった。
「異端?」
ユーリスが笑った。
だが。
声は、
笑っていなかった。
「……」
俺は、
そちらを見る。
雰囲気が、
何かおかしい。
「ユーリス?」
「異端ですか?」
ゆっくり、
立ち上がる。
酒場が静かになる。
「じゃあ、聞きます」
真っ直ぐ。
セレスを見る。
逃がさないように。
「誰が異端なんですか」
セレスが眉を寄せる。
「何?貴様―――」
「エアですか?」
遮った。
強く。
珍しかった。
ユーリスが、
人の言葉を遮るのは。
「学院で、村で、森で」
一つずつ。
言葉を重ねる。
「ずっと、
見てきたじゃないですか!!」
酒場が静まる。
「助けてましたよね!?
知らない人も!
敵だった人も!!
自分を殺そうとした人だって!!!」
止まらない。
「セレスさんのことだって、そうです!!」
セレスの肩が、
僅かに揺れる。
だが。
目は、
推し量るようにユーリスを捉えている。
「それなのに!!」
ユーリスの拳が、
震えていた。
「それなのに、
まだあなたは異端なんて言うんですか!?」
初めて見る顔だった。
怒っている。
本気で。
「ユーリス……」
思わず呼ぶ。
だが。
止まらなかった。
「だって、そうじゃないですか!!」
今度は、
俺を見る。
色々なものが、
混ざった顔だった。
「エアは守ってるんです!!
ずっと!!
誰よりも!!」
声が震える。
泣きそうだった。
「セレスさんも、分かってるでしょう!?」
振り返る。
「分かってるから!
今、そんな顔してるんでしょう!?」
セレスが、
一瞬固まる。
何も言わない。
言えない。
ユーリスは、
勢いのまま続けた。
「神だからじゃない!!
力があるからでもない!!」
机を叩く。
「あなたがルゥだからでもない!!!」
セレスは、
僅かに指を動かした。
だが。
そこで、
完全に固まった。
酒場中が、
こちらを見ている。
「エアは、
そういう人なんです!!」
静寂。
誰も喋らない。
ユーリスの呼吸だけが、
荒い。
そして。
少しだけ、
声が掠れる。
「……何で」
唇を噛む。
「何で、
そんなこと言うんですか……」
怒り。
悲しみ。
悔しさ。
全てが混ざり込んでいた。
「……」
セレスは動かない。
ただ、
黙っている。
俺は二人を見る。
正直。
何故、
ユーリスがここまで怒っているのか。
よく分からなかった。
だが。
セレスも驚いていた。
俺と同じくらい。
いや。
それ以上かもしれない。
「黙れ……」
低い声だった。
ユーリスが止まる。
セレスは、
ゆっくり立ち上がる。
酔っている。
だが。
目だけは、
妙に鋭かった。
「貴様が……?何を知っている?」
酒場が静まる。
「何を見た……」
ユーリスが息を呑む。
「何を、分かった気になっている……」
セレスの声が震えていた。
怒りだった。
だが。
それだけではない。
「……違う!」
机が鳴った。
酒が跳ねる。
酒場全体が、
静まり返る。
ユーリスが目を見開く。
セレスは立っていた。
肩が震えている。
酔っている。
だが。
今出た声だけは。
今まで聞いた、
どんな声よりも本気だった。
「そんなことは、分かっている!!」
荒い息。
「見ていた!!」
指が震える。
「学院でも!!
村でも!!
森でもだ!!」
酒場に響く。
「助けたことなど、知っている!!」
ユーリスが固まる。
セレスは止まらなかった。
「知らない者を助けた!!
敵だった者も助けた!!
自分を殺そうとした私すら助けた!!」
拳が握られる。
「そんなことは!!
最初から知っている!!」
叫ぶ。
だが。
その声は。
怒りだけではなかった。
苦しそうだった。
「だから、分からないのだ!!」
酒場が静まる。
「何故、そんな者が存在する!!」
掠れた声。
「何故、教義と違う!!
何故、火が拒まない!!
何故、槍が認める!!」
呼吸が乱れる。
「何故……」
言葉が止まる。
拳が震える。
「私は、聖杭槍杖だぞ……」
小さかった。
今までで、
一番小さかった。
「神を疑わぬために。
火を疑わぬために。
それだけを信じて、生きてきた……」
目が伏せられる。
「異端を焼き。
迷いを捨て。
正しき火を示すため」
声が掠れる。
「そう、生きてきた……。
なのに……」
沈黙。
誰も喋らない。
セレスだけが、
震えていた。
「何故。
あいつを見る度に……」
言葉が詰まる。
続きが出ない。
出せない。
「教義より先に……」
唇を噛む。
「私自身が、見てしまう……」
静寂。
酒場の誰も、
動かなかった。
セレスは、
荒い息を吐く。
「あってはならないはずだ……」
そして。
「全部分からなくなっているのは!!」
まるで、
悲鳴のように叫んだ。
「私だ!!!!!」
酒場に響く。
誰も動けない。
ユーリスも固まっていた。
怒っていた顔が消えている。
代わりに。
呆然としていた。
「……」
セレスは、
肩で息をしている。
拳は、
震えたままだ。
今にも崩れそうだった。
それでも。
立っている。
「……」
俺は、
言葉が出なかった。
正直。
驚いていた。
迷っていることは、
知っていた。
だが。
それを、
こんなふうに口にする奴ではないと思っていた。
誰にも見せず。
一人で抱えて。
最後まで、
飲み込む奴だと思っていた。
だから。
ここまで深く、
迷っているとは思わなかった。
「……」
ユーリスも、
何も言わない。
言い返せないのだろう。
さっきまでの勢いは、
消えていた。
その時。
セレスが、
小さく笑った。
乾いた笑いだった。
「……何も分からん」
掠れた声。
「神も。
火も。
教義も……」
少しだけ俯く。
「お前も……」
胸の奥が、
少しだけ引っ掛かった。
「……私は、何だ?」
酒場は、
静まり返っている。
誰も茶化さない。
誰も笑わない。
ただ。
その場にいる全員が。
初めて見るセレスを、
見ていた。




