第189話:助けられなかった顔
アンカーは、
まるで壊れた蛇口のように。
黒い何かを、
吐き出し続けていた。
「……あり得ない」
ルクナスが呟く。
「絶対に……あり得ない」
感情が滲んでいた。
怒り。
失望。
嫌悪。
それらが全て、
混ざったような顔だった。
「これを作るのに、
どれだけ掛かったと……」
誰に言うでもなく。
ただ、
黒を見つめる。
「この世界を観測し、守るためだ」
夜風が吹く。
「虚飾を入れるためじゃない」
どろり。
また、
黒が零れる。
ルクナスは笑った。
乾いた笑いだった。
「そこまでして、
居場所を知りたいと?」
肩を竦める。
「だから世界を壊す?」
誰も答えない。
答えられない。
ルクナスは続けた。
「……何を考えている」
空を見る。
暗い空。
星は見えない。
ぽつりと言う。
「自分達が生き残るためなら、
世界の一つや二つ」
黒を見る。
「平気で捨てる気か……」
そして。
吐き捨てるように落とす。
「そんなのだから……滅びたんだ」
風が止まった。
ユーリスも。
セレスも。
何も言えない。
俺も黙っていた。
こんなルクナスは、
初めて見た。
怒鳴らない。
暴れない。
だが。
それが余計に、
怒っているように見えた。
「……エア」
やがて。
ルクナスが振り返る。
少しだけ、
疲れた顔だった。
「手を貸してくれ」
「……何をする気だ?」
「君の火で」
アンカーを見る。
「閉じる」
俺は頷いた。
石柱へ近付く。
近くで見ると、
ひび割れの奥から黒が漏れていた。
嫌な感覚だった。
まるで……傷口だ。
俺は石柱へ手を置く。
冷たい。
だが…奥で、
何かが脈打っていた。
「……」
ルクナスも隣へ来る。
マリスの手を、
俺の手へ重ねる。
「これは、まだ壊さない」
小さく言う。
「必要になる時が来る」
目を閉じた。
「だから、入口だけ閉じる」
次の瞬間。
俺の火が反応した。
ルクナスに、
導かれるように。
火が石柱の表面を走る。
光る文字が浮かぶ。
見たことのない文字だった。
金色。
そこへ。
俺の火が、
複雑に絡み合っていく。
後ろから、
ユーリスが息を呑む音が聞こえた。
「これは……」
セレスも見ていた。
目を離せないようだった。
黒が暴れる。
石柱の根元で影が蠢く。
まるで、逃げようとするように。
だが、赤い火がそれを押し返す。
金の文字が広がる。
石柱を包む。
そして。
最後の一文字が刻まれた瞬間。
黒が止まった。
どろりと垂れていた影が、
ゆっくりと引いていく。
地面へ染み込むのではない。
逆だ。
石柱の奥へ。
押し戻されていく。
まるで。
扉が閉じるように。
「……閉じた」
ルクナスが呟く。
その場へ、
座り込みそうになる。
思ったより、
消耗していたらしい。
「大丈夫か?」
「うん、平気だ」
全く、
平気そうには見えない。
しばらくして。
ルクナスが顔を上げる。
封じられたアンカーを見る。
表情は、暗いままだった。
「……きっと、来る」
小さく呟く。
「何がだ」
「分からない」
ルクナスは、
アンカーから目を離さない。
「でも、居場所はバレた」
まるで。
向こう側から、
誰かが覗いているように。
「思ったより早い……」
その声だけが。
妙に重かった。
夜風が吹く。
封じられた石柱は、
何も答えなかった。
しばらく。
誰も喋らない。
森も静かだった。
さっきまで響いていた悲鳴も。
助けを求める声も。
もう聞こえない。
「……これで終わりか?」
最初に口を開いたのは、
セレスだった。
視線は、
アンカーへ向いている。
ルクナスは首を振った。
「終わってない」
疲れた声。
だが。
断言する。
「また、起きるかもしれない……」
ユーリスが顔を曇らせた。
「それって……」
「向こう側は、
手段を選ぶような優しさはないってことさ」
ルクナスが言う。
沈黙…誰も喋らない。
やがて、ユーリスが小さく口を開いた。
「……あの」
何かを迷っている声だった。
「さっきの人は……」
視線が、
俺へ向く。
俺は少しだけ、
森を見る。
もう、
声は聞こえない。
だが。
あの感覚だけは、
残っていた。
「……分からん」
正直に言う。
「だが……」
言葉を探す。
上手く説明できない。
「既に……生きてはいなかった」
ユーリスが息を呑む。
「でも、声は……」
「あぁ」
頷く。
「本人だったと思う」
森を見る。
「身体は死んでいた」
静かに言う。
「でも、終われていなかった」
ユーリスが黙る。
セレスも、
何も言わない。
「喰われていた」
それが一番近い。
「ずっと」
風が吹く。
「苦しかったはずだ」
感覚で分かる。
あれは、
知っている感覚だった。
昔から。
何度も見てきた。
狩りの時。
獲物の最期。
だから。
「早く終わらせたかった」
それだけだった。
救うとか。
正しいとか。
そういうことでもない。
ただ……。
苦しそうだった。
だから、
終わらせた。
それだけだ。
「……そうですか」
ユーリスが小さく言った。
それ以上は、
聞かなかった。
ーーーーー
森を出た頃には、
夜も更けていた。
村の灯りが見える。
だが。
その手前。
小さな火が、
闇の中で揺れていた。
「……あ」
ユーリスが、
小さく声を漏らした。
神父だった。
手提げ灯を持ち、
村の入口に立っている。
こちらに気付くと、
少しだけ目を細めた。
「帰ってきたか」
穏やかな声だった。
最初から、
待っていたように。
「……待っていたのか?」
俺が聞くと、
神父は笑った。
「気になっていたからね」
当たり前のように言う。
それから。
一人ずつ。
俺。
ユーリス。
セレス。
ルクナス。
全員を確認する。
そして。
小さく息を吐いた。
「どうやら、無事に生きて帰ってきたようだ」
「危なかったですけどね……」
ユーリスが苦笑する。
神父は頷いた。
「それで?」
灯りが揺れる。
「何があったんだい?」
俺は話した。
石柱。
黒い靄。
魔物。
人の声。
助けを求める叫び。
そして…。
消えた若者のことも。
神父は、
途中で口を挟まない。
最後まで、
黙って聞いていた。
夜風だけが吹く。
話し終わる。
神父は目を閉じる。
「……そうか」
小さく呟く。
「なら」
灯りが揺れる。
「やはり、あの子は」
「死んでいた」
俺は言った。
神父は頷く。
取り乱さない。
怒りもしない。
ただ……。
静かに、
受け止めていた。
「……そうか」
もう一度だけ言う。
それから、懐へ手を入れた。
小さな革袋を取り出す。
「約束の報酬だ」
ユーリスが目を瞬かせた。
「え?」
「受け取っておくれ」
革袋が差し出される。
だが。
ユーリスは受け取らない。
困った顔になる。
「その……」
神父を見る。
「証拠はありません」
神父が首を傾げる。
「証拠?」
「遺体もありませんし、
石柱の件も、まだ確認出来ません」
ユーリスは少し迷った。
「私達の話だけですよ……?」
神父は、
数秒考えた。
それから。
「そうだね」
普通に頷く。
「なら」
ユーリスが言いかける。
だが。
神父は、
続きを待たなかった。
「信じる」
あっさり言った。
ユーリスが固まる。
セレスも神父を見る。
俺も見た。
「……何故だ」
思わず聞いていた。
神父は、
不思議そうな顔をした。
そして。
俺を見る。
しばらく。
何も言わずに。
ただ、
見ていた。
「そんな顔をしているのにかい?」
「……顔?」
意味が分からない。
神父は笑った。
「ああ」
灯りの光が揺れる。
「誰かを助けられなかった顔だ……」
言葉が止まる。
神父は続ける。
「嘘をつく人間はね」
少しだけ肩を竦める。
「そんな顔はしないよ」
風が吹いた。
教会の窓から、
暖炉の光が漏れている。
暖かい色だった。
「君は」
神父は俺を見る。
「助けようとした」
静かな声だった。
「そして、
助けられなかった」
否定できなかった。
俺は視線を落とす。
あの声を思い出す。
助けを求めていた声。
もう遅かった。
分かっていた。
それでも……。
少しだけ。
遅かったような気がしてしまう。
「……」
神父は、
それ以上聞かなかった。
責めもしない。
慰めもしない。
ただ。
革袋を、
もう一度差し出す。
「受け取っておくれ」
ユーリスが、
恐る恐る受け取った。
革袋を載せた手が、
深く沈む。
重い。
予想より、
入っているらしい。
「ありがとうございます……」
神父は笑った。
「礼を言うのはこちらだよ」
そして。
俺達を見る。
「村を守ってくれて、ありがとう」
夜風が吹く。
暖炉の光が揺れる。
その時だった。
「……神父」
ルクナスが口を開く。
珍しく。
自分からだった。
神父が振り向く。
「うん?」
ルクナスは、
少しだけ迷う。
だが。
結局、
聞いた。
「もし」
静かな声。
「もし誰かが、君の村を守るために作ったものを」
目を細める。
「壊して使ったら、どう思う?」
神父は瞬きをした。
意味が分からなかったらしい。
だが。
少し考える。
そして。
笑った。
「怒るだろうね」
ルクナスが目を伏せる。
神父は続ける。
「でも」
灯りを持ち直す。
「それが、助けを求めるためだったなら」
少しだけ考え。
「まず、話を聞くかな」
ルクナスが黙る。
神父は首を傾げた。
「何かあったのかい?」
「……いや」
ルクナスは、
小さく笑った。
乾いた笑いだった。
「何でもない。
気になっただけさ」
そう言った。
だが。
俺には分かった。
全然、
何でもなくなかった。




