第188話:漏れ出す闇
夜になった。
村の灯りが、揺れている。
家の窓。
宿屋の入口。
教会の暖炉。
小さな火が、
それぞれの場所で夜を押し返していた。
「……」
俺は宿の外に立っていた。
空は暗い。
月は薄い。
森の方は、
黒く沈んでいる。
その奥に石柱がある。
神父は、
そう言っていた。
「行くんですね」
ユーリスが隣に来る。
「あぁ」
「ですよね……」
分かっていたような声だった。
少し遅れて、
セレスも出てくる。
白ではない外套を羽織っている。
だが。
立ち方は変わらない。
槍を持つ者の立ち方だった。
「私も行こう……」
「よせ。
危険かもしれない」
「なら、尚更だ……」
短く返された。
いつも通りの声。
だが、まだ少しだけ硬い。
「……」
何か言おうとして、
やめた。
何を言えばいいのか分からない。
その時。
宿の壁にもたれていたルクナスが、
大きくため息を吐いた。
「本当に、行くんだね」
「あぁ……」
「止めても無駄だよね……。
まったく、馬鹿というか何というか……」
「そうか」
「そうだよ」
ルクナスは笑っていない。
そのまま、
セレスとユーリスを見る。
「君達は虚飾……いや、影を知らない」
静かな声だった。
ユーリスが眉を寄せる。
「影……ですか?」
「そう」
ルクナスは森を見る。
「魔物じゃない。
災害でもない」
「……」
「もっとタチが悪い」
風が吹いた。
冷たい。
「影は、触れたものを削る」
「削る?」
「存在そのものを」
ユーリスが黙る。
セレスも表情を変えない。
だが。
聞いている。
「魂……ってことですか?」
ルクナスは言った。
「それだけじゃない。
記憶や形」
その途中。
俺の中に、
光景が浮かぶ。
砂のように消えていく景色。
「世界から、
そこにいたという事実。
そういうものを喰う」
空気が少し重くなった。
「この世界の人間は知らない」
ルクナスは続ける。
「アンカーがあるから。
あれが世界を固定し、
外からの影の干渉を抑えている」
「だから……人は影を忘れた」
「そうだね。
そして残ったのは、君のことだけ。
魔物は知っていても、
影そのものは知らない」
「では」
セレスが聞く。
「今の魔物とは何だ」
ルクナスは、
少しだけ目を細めた。
「最初の影の残り滓だよ」
「残り滓?」
「この世界に残った影が、
長い時間をかけて変質したもの」
夜が深くなる。
遠くで家畜が鳴いた。
一度。
それきり。
「死体に入り、
植物に入り、
獣に入り…核になった」
死体を動かすようになった影。
あの山で見た植物。
それが時を経て。
俺の火と同じように、
形を変えたということか。
「それが、
今の魔物の始まりだ」
ユーリスの顔が強張る。
「じゃあ……もし、
そこに今の影が混ざれば?」
ルクナスが言う。
「魔物は、ただの魔物じゃなくなる」
森の奥を見る。
「魔物は強くて、
自分達以外を襲うだろう?」
少しだけ間を置く。
「言うなれば、
それは影の本能だ」
ルクナスは静かに続けた。
「影は、より多くの獲物を得るために器を強くするだろうね」
そして。
「人を喰う」
沈黙。
「肉を、ではないよ」
ルクナスは言った。
「存在そのもの、
…魂さ」
誰も喋らない。
俺は森を見る。
覚えている。
黒いもの。
形のないもの。
火で焼いても、
まだ残るもの。
死体の中で動いていたもの。
村へ向かって、
ただ進んできたもの。
「……知っている」
小さく言う。
ルクナスがこちらを見た。
「ああ」
「君は知っている。
君が一番、
知っているはずだ」
その言葉に。
少しだけ、
胸の奥が重くなった。
村の灯りを見る。
小さい。
だが。
そこに人がいる。
「だから……俺が戦うんだ」
俺は言った。
ルクナスは目を閉じた。
「だろうね」
そして、歩き出す。
「なら、急ごう」
「止めないのか?」
「止めて止まるなら、
とっくに止まっているだろ?」
呆れた声だった。
「それに」
ルクナスは森を見る。
「本当に影なら、
放っておいた方が面倒だろうし」
「……」
「ただし」
ルクナスは振り返り、
ユーリスとセレスを見る。
「触れたら駄目だ」
声が低い。
「絶対に。
君たちはとにかく魔法で距離を取るんだ」
少しだけ間を置く。
「触れたら終わる……」
ユーリスが唾を飲む。
セレスが槍を握り直し、
尋ねる。
「火以外は効くのか?」
ルクナスは、
少しだけ笑った。
「あぁ…それはどうだろう?。
でも火なら」
それから。
すぐに表情を消す。
「そもそも……その火も、
エアが影を屠るために得た力だ」
ルクナスはセレスを見る。
「君達は、
それを受け継いでいる」
そして。
「ただし……。
エアほど影を焼き消せるとは、
思わない方がいいかもね」
セレスの目が細くなる。
「……分かった」
夜道を進む。
村を抜ける。
家の前に、
灯りを持った老人が立っていた。
こちらを見る。
何か言いたそうだったが、
何も言わない。
その代わり。
小さく頭を下げた。
俺は少しだけ頷いた。
道は森へ続いていた。
土が湿っている。
草が足に触れる。
虫の声が聞こえない。
「……」
おかしい。
夜の森なら、
もっと音がある。
鳥。
虫。
小さな獣。
木の葉の擦れる音。
だが…
今は静かすぎる。
「気付いた?」
ルクナスが言う。
「あぁ。もう近い」
ユーリスが杖を握る。
セレスが前へ出ようとした。
俺は手で止める。
「俺より前に出るな」
セレスがこちらを見る。
「……」
何か言いかけて、やめた。
「…分かった」
短く言う。
森の奥、
何かが光った。
黒い光。
光というより…、
闇が濃くなったようなもの。
その中心に。
石柱が立っていた。
古い柱。
ひび割れ。
苔。
根に覆われている。
アンカーだ。
ルクナスのものよりも小さい。
だが、同じものを感じる。
「……」
石柱の根元が濡れている。
いや、違う。
濡れているのではない。
滲んでいる。
黒いものが。
地面へ。
草へ。
影のように広がっている。
「……馬鹿な」
ルクナスが呟いた。
怒りを押し殺した声だった。
「本当にやったのか……」
その瞬間。
森の奥で、
何かが鳴いた。
獣の声…、それも違う。
鳴き声の形をしているだけだ。
「来るぞ」
俺は槍を握った。
暗闇の中から、
何かが歩いてくる。
鹿に似ていた。
だが。
首が曲がっている。
脚の数が合わない。
腹の下から、
黒いものが垂れている。
目はない。
代わりに。
空洞だけが、
こちらを向いていた。
ユーリスが息を呑む。
「魔物……?」
「違う」
ルクナスが言った。
「もう、ただの魔物じゃない……」
鹿だったものが、
口を開いた。
口の奥から、
黒いもやが溢れる。
それが地面に落ちる。
蠢く。
増える。
セレスが槍を構えた。
白い火が灯る。
俺も火を宿す。
だが、その前に。
森の奥から、
もう一つ音がした。
人の声だった。
「……助け……」
ユーリスが顔を上げる。
「今の……!」
「動くな」
ルクナスが鋭く言った。
だが声はまた聞こえた。
「助けて……」
若い男の声。
神父が言っていた、
消えた若者かもしれない。
森の奥。
石柱の向こう。
何かが蠢く。
人影に見えなくもない。
でも、どこか違和感を覚える。
「エア……」
ルクナスが低く言う。
「罠だ……」
分かっている。
それでも。
その声は。
助けを求めていた。
俺は一歩踏み出した。
黒い鹿が、
ゆっくりこちらへ首を向ける。
影が地面を這って伸びてくる。
夜が濃くなる。
火が、
指先で静かに燃えた。
「エア!」
ユーリスの声。
次の瞬間。
鹿だったものが消えた。
「――ッ!」
速い。
地面を蹴った音すらない。
黒い塊が。
一直線に、
こちらへ飛び込んでくる。
俺は槍を振った。
火が走る。
赤い軌跡。
鹿の首を斬り裂く。
確かに斬れた。
だが。
感触がおかしい。
肉ではない。
骨でもない。
まるで。
煙を裂いたようだった。
鹿が横を抜ける。
着地。
首が半分、
落ちかけている。
それでも立っていた。
「な……!?」
ユーリスが息を呑む。
「あれで……止まらないんですか……!?」
黒いもやが、
裂けた首へ集まる。
繋がる。
戻る。
肉ではない。
影が形を保っている。
「火だ!!」
ルクナスが叫んだ。
「核ごと焼き尽くすんだ!」
セレスが前へ出る。
白い火が灯る。
「――受けるがいい」
白火が放たれた。
一直線。
鹿へ突き刺さる。
轟音。
白い炎が。
夜を昼のように照らした。
鹿が吹き飛ぶ。
木へ叩き付けられる。
爆ぜる。
確かに効いていた。
黒いもやが、
大きく削れている。
「やったか……?」
セレスが呟く。
だがルクナスは首を振った。
「まだだ」
次の瞬間。
木の根元。
焼け残った黒が動く。
集まる。
伸びる。
そしてまた…鹿の形になる。
「……ッ」
セレスの表情が変わる。
「だから言っただろう」
ルクナスが低く言う。
「もう、ただの魔物じゃない」
鹿が鳴く。
ギィィィィ――
耳障りな音。
獣の声ではない。
何かが無理矢理。
獣の真似をしている音だった。
その瞬間。
森の奥から、
声が響く。
「助けて!!」
若い男の声。
今度は、はっきり聞こえた。
ユーリスが顔を上げる。
「奥から声が!?
まだ、
生きてるんじゃ……!」
「違う」
ルクナスが即答する。
「聞くな」
「でも!」
「聞くな!!」
珍しく怒鳴った。
空気が震える。
その時だった。
声が増えた。
「助けて!」「誰か!」「痛い!」「嫌だ!」
男。
女。
老人。
子供。
あらゆる声。
森の中から聞こえる。
四方八方から。
セレスが眉を寄せる。
「何だ、これは……」
「…真似だ」
ルクナスが吐き捨てた。
「喰った人間の残り」
ユーリスの顔が青くなる。
声は続く。
泣き声。
悲鳴。
助けを求める声。
だが。
俺には分かった。
違う。
何かが違う。
真似。
それだけではない。
「……」
鹿を見る。
声は森から聞こえている。
だが、鹿の口元。
黒いもやが震えていた。
あれだ。
「いる……」
俺は呟く。
「まだ、喰われ続けている……」
火を強く握る。
鹿の胸を見る。
黒い。
だが中心だけ、少し濃い。
「中にいる」
ルクナスが目を見開いた。
「まさか……」
「あぁ」
鹿が走る。
今度は真っ直ぐ、
セレスへ。
セレスが迎え撃つ。
槍が閃き、白火が走る。
鹿の前脚が吹き飛ぶ。
それでも倒れない。
残った脚だけで、
前へ出る。
「……ッ!」
セレスが距離を取る。
その瞬間。
地面から、
黒いものが伸びた。
影だ。
細い腕のような形。
足首を掴もうとする。
「触るな!」
ルクナスが叫ぶ。
セレスが跳ぶ。
間一髪だった。
黒い腕が空を掴む。
地面へ戻る。
俺は走った。
一直線。
鹿へ向かう。
鹿がこちらを見る。
空洞の目。
その奥。
胸の中心。
黒い塊。
「…そこだ」
火が宿る。
今度は、
外側ではない。
中を狙う。
鹿が跳ぶ。
俺も踏み込む。
距離が消える。
槍が走る。
赤い火が、
夜を裂いた。
穂先が、
鹿の胸へ沈む。
肉を貫く。
骨を砕く。
そして…その奥。
黒い核へ届いた。
「燃えろ」
火が爆ぜた。
鹿が止まる。
槍を伝って、中から悲鳴が響く。
獣ではない。
人でもない。
影そのものの叫び。
―――ギィイイイッ
黒が燃える。
崩れる。
形を失う。
次第に声が消える。
助けを求める声も。
泣き声も。
全て。
夜へ溶けていく。
鹿だったものが、
その場で崩れ落ちた。
動かない。
今度こそ、
本当に終わった。
「……」
静寂。
風が吹く。
焦げた匂い。
黒い灰。
だが、俺とルクナスは喜ばなかった。
むしろ、さらに表情を曇らせていた。
「ルクナス……。
これは……」
ルクナスは石柱を見る。
アンカーを見る。
その根元。
滲み出る黒。
まだ消えていない。
「本当に……馬鹿げてる……」
静かに言った。
「この世界も、
終わらせる気なのか?」
その瞬間。
アンカーの根元から。
どろり。
黒が零れ落ちた。
一滴。
また一滴。
まるで。
石柱の中から、
何かが溢れているように。
夜風が止まり、
森が静まり返る。
そして。
アンカーの奥。
闇の中で…、
…何かが笑った気がした。




