第183話:朝の終わりの知らせ
動けなかった。
暗がりの中。
「……」
ユーリスは、
二人を見ていた。
月明かり。
村外れの柵。
エアとセレス。
そして…、
…唇が触れた。
「……っ」
息が止まる。
何が起きたのか、
一瞬理解できなかった。
いや。
理解したくなかったのかもしれない。
声も出ない。
足も動かない。
ただ見ていた。
セレスが揺れる。
エアが、
何かを探すように見つめる。
そして。
『やっぱり……』
その言葉が聞こえた。
小さい声だった。
だが、
夜は静かだった。
だから、
聞こえた。
「……」
胸の奥が重くなる。
苦しい。
だが、それは怒りではなかった。
嫉妬とも違う。
もっと別の…。
セレスが立ち上がる。
何かを言う。
聞き取れない。
だが……。
傷付いた顔だけは見えた。
そして。
白い背中が、
夜の中へ消えていく。
エアは追わなかった。
ただ、
その場に残っていた。
「……」
そのまま動けない。
風だけが吹く。
虫の声。
遠くの森。
全てが、
妙に遠かった。
「……何なんですか」
小さく漏れた。
誰に向けた言葉か。
自分でも分からない。
エアか。
セレスか。
それとも……。
「……」
ルゥ。
その名前を知っている。
エアから聞いた。
神話に残る女神。
だが、
本当は違う。
ゴブリンで、
エアの妻だった。
ずっと昔の人。
会ったこともない。
顔も知らない。
声も知らない。
それなのに。
「……」
その人は今もいる。
エアの中に。
ずっと。
今も消えずに。
だから、
分かってしまった。
さっきのエアの目。
あの顔。
あれは。
セレスを見ていた顔じゃない。
「……」
胸が痛む。
理由は分かる。
分かりたくなかっただけだ。
私はずっと、
エアの隣にいた。
火を教えてもらった。
そして今度は、
私が文字を教えた。
一緒に歩いた。
彼から、
いろんなことを教わった。
大事な時間を過ごした。
それでも。
届かない場所がある。
エアの中に。
誰も触れられない場所がある。
そこにいるのは。
ルゥだ。
「……ずるいです」
ぽつりと漏れた。
会ったこともない。
競ったこともない。
話したこともない。
なのに。
どうしても勝てない。
そんな気がした。
「……」
違う。
勝ち負けじゃない。
そういう話じゃない。
エアは今も、
ルゥを探している。
だから苦しんでいる。
セレスも苦しんでいた。
きっと、
エアも苦しい。
誰も悪くない。
分かっている。
分かっているのに。
胸の奥だけが、
少し痛かった。
「……」
夜空を見上げる。
満月だった。
丸い月。
前に、
エアが言っていた事がある。
満月の夜は、
少し好きだったと。
あの頃は、
理由が分からなかった。
今なら、
少しだけ分かる気がした。
同じ月を見ていたのだろう。
エアと……ルゥも。
「……ルゥさん」
小さく呟く。
返事はない。
あるはずもない。
ずっと昔に死んだ人だ。
それでも。
その人は今も生きている。
少なくとも。
エアの中では。
「……」
風が吹き、
髪が揺れる。
しばらく月を見ていた。
会ったこともない、知らない人。
それなのに。
私は以前にもまして…。
一度…会ってみたいと思った。
エアがそこまで探す理由を。
少しだけ、知りたかった。
月は静かで何も答えない。
ただ。
昔と同じ光だけが、
夜の世界を照らしていた。
ーーーーー
朝だった。
鳥の声が聞こえる。
窓から差し込む光が、
床を白く照らしていた。
「……」
目を開く。
身体が、
少しだけ重い。
昨日は、
結局あまり眠れなかった。
「……」
天井を見る。
昨夜のことを思い出しそうになって、
すぐにやめた。
考えたくなかった。
考えても分からない。
「ユーリス~!」
外から声がした。
フィアだ。
「朝ご飯できてるわよー!」
「は、はい!」
慌てて起き上がる。
村にはもう、
朝の匂いが広がっていた。
煙。
焼けたパン。
子供達の声。
平和な朝だった。
本来なら。
「……」
庭へ向かう。
そこにはもう、
何人か集まっていた。
ガルド。
フィア。
マリス。
そして……エア。
「おはようございます」
声を掛ける。
「ああ」
短い返事。
いつも通り。
いつも通りのはずだった。
…だが。
「……」
少しだけ、
顔つきが違う。
眠れなかったのだろうか。
元々、
エアは眠りが浅い。
だから、
顔には出にくい。
けれど。
やはり違う。
いや。
たぶん、
聞かない方がいい。
ユーリスは視線を逸らした。
「セレスは?」
フィアが首を傾げる。
「まだみたいね」
その時だった。
足音。
全員が振り向く。
白い髪。
セレスだった。
「……」
静かに歩いてくる。
顔色は悪くない。
だが。
何かが少し違った。
エアも気付いた。
たぶん、
セレス自身も気付いている。
何が変わったのかは分からない。
でも何かが、確かに変わっていた。
「遅いぞ」
ガルドが言う。
「……すまない」
セレスは短く返した。
それだけだった。
エアを見ることもない。
エアも何も言わない。
妙な沈黙が流れる。
フィアだけが、
首を傾げていた。
「何かあった?」
セレスは顔色一つ変えない。
けれど。
「別に」
絶対に何かあった。
いつもと変わらない返事の仕方。
でも、
どこか違う。
確信した。
「……」
その時だった。
村の入口側から、
騒がしい声が聞こえる。
ガルドが眉を寄せた。
「ん?」
子供が走ってくる。
息を切らしながら。
「ガルドさーーーん!」
「どうした?」
「帰ってきた!」
一瞬。
全員が立ち上がった。
ガルドが真っ先に動く。
フィアも続く。
ユーリスも慌てて後を追う。
村の入口。
そこには、
馬に乗った男がいた。
「おー!」
真っ先に声を上げたのは、
その男だった。
軽い笑み。
茶色の髪。
肩には弓。
「皆で出迎えご苦労さん!。
お前らの英雄が戻ったぞ~!」
ロアンだった。
「誰が英雄だ、馬鹿が」
ガルドが笑う。
拳がぶつかる。
重い音。
だが。
ロアンの顔は、
どこか疲れていた。
旅の疲れではない。
別の何かだ。
ガルドも気付いた。
「……何があった?」
笑みが消える。
ロアンは周囲を見た。
そして。
少しだけ、
真面目な顔になった。
「どうにも妙だ」
軽口が消える。
その一言だけで、
空気が変わった。
「アルケシアが揉めてる」
「……」
誰も喋らない。
「揉めてる?」
フィアが首を傾げる。
ロアンは頷いた。
「中央と教会が騒いでる」
ガルドの眉が寄る。
「何でだ?」
「火線祭だよ」
ロアンは短く答えた。
「最後の迷宮」
少し間を置く。
「上位組が帰ってこねぇ、ってな」
空気が止まった。
「……」
ユーリスの指先が、
僅かに強張る。
村の空気が、
少しだけ冷えた気がした。
「中央は調査させろって騒いでるらしい。
教会もだ」
セレスは何も言わない。
表情も変わらない。
だが。
握った指先だけが、
ほんの僅かに強くなった。
「アルケシアは?」
ガルドが聞く。
ロアンは肩を竦めた。
「詳しくは分からねぇ」
「だが、
好きに調査させてねぇらしい」
そして。
いつになく真面目な口調で続ける。
「完全拒否かどうかまでは知らねぇがな。
外から見りゃ、怪しく見えるさ」
ロアンは苦笑した。
「学院の生徒だけじゃなく、
中央の信徒まで消えた。
しかも学院側からも、
まともな発表が出てねぇらしい。
噂ばっか飛び交ってる」
「そいつは、騒ぎにもなるか…」
ガルドは黙った。
フィアも笑わない。
マリスも静かだった。
「白塔同盟側も、
かなりピリついてる」
ロアンは続ける。
「中央に好き勝手させたくねぇ連中もいるし。
逆に調査を受け入れろって連中もいる」
誰も言葉を返さない。
ユーリスだけが、
少し俯いていた。
ノクシア。
学院。
仲間達。
今、
どうなっているのだろう。
ロアンはそんな空気を振り払うように、
大きく息を吐いた。
「ま、俺は詳しい事情なんざ知らねぇ。
だが、一つだけ確かなのは」
視線が、エアへ向く。
セレスへ向く。
そして。
ユーリスへ向く。
「お前らが思ってるより」
ロアンは静かに言った。
「ずっと面倒なことになってる」
風が吹く。
朝の匂いが、
流れていく。
平和な村の朝は、
そこで終わった。
何かがまた。
ゆっくりと、
動き始めようとしていた。




