表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
183/224

第182話:神話ではないもの


エンラの妻。


神話のリウゥ。


「……馬鹿な」


思わず漏れた。


「あり得ない」


「まあ、そう思うよね」


ルクナスは笑った。


「僕も今の時代のことを聞いたら、

ちょっと笑ったし」


「笑い事ではない」


声が低くなる。


「ゴブリンなど……そんなはずがない」


言いながら、

自分でも分からなかった。


何故、

否定している。


神話を守るためか。


教会の教えが崩れるからか。


それとも。


エアがあれほど求めた相手が、

自分の知る神話とはまるで違う存在だったからか。


「でも、本当だよ」


ルクナスは水面を見たまま言う。


「僕は見てたからね」


「……」


「エアが拾ったんだ」


「拾った?」


「うん。本当に……偶然だった」


気軽に言う。


「死にかけてたところをね」


「……」


「で、助けたら頭を割られかけた」


「……は?」


「石で」


ルクナスは小さく肩を竦める。


「そんな顔しても本当だよ?」


理解が追い付かない。


神話の聖女。


火を受け継いだ伴侶。


その始まりが。


石で頭を割ろうとした……ゴブリン。


「……貴様は」


声が低くなる。


「私を愚弄しているのか」


「してないよ」


即答だった。


軽いのに、

嘘には聞こえなかった。


「神話って、

 そういうものなんだよ」


ルクナスは川を見る。


「人は残したい形で残す。

 汚い部分を削って、分かりやすく整えて、都合よく名前を変える」


水紋が淡く光る。


「ルゥと、もう一人。

 リルという子もいた」


「リル?」


「もう一人の、エアの妻だね」


セレスは言葉を失う。


神話が違う。


それだけではない。


神話が、

人の都合で整えられている。


その可能性自体は知っていた。


だが。


始祖神エンラの隣にいた者が、

ゴブリンだったなど。


そんなことは、

教会のどこにも残っていない。


残るはずがない。


残すわけがない。


「……なら」


声が掠れた。


「エアは……」


唇が震える。


「エアは、そんな相手を……」


そこまで言って、

続きが出なかった。


愛したのか。


妻にしたのか。


求めていたのか。


今夜、

自分の奥に見ていたのか。


「そうだね」


ルクナスは静かに言った。


「エアにとって、

 ルゥは特別だった」


胸の奥が痛む。


何故だ。


私はルゥではない。


そう思ったはずなのに。


なのに、

その言葉が痛かった。


「……私は」


声が落ちる。


「私は、ルゥではない……」


「うん」


ルクナスはあっさり頷いた。


「君はセレスだ」


その言葉は簡単だった。


簡単すぎて、

逆に胸に刺さった。


「……なら」


何故。


そう続けようとして、

言葉が止まる。


なら何故、

エアは私にルゥを見る。


なら何故、

私はあれを拒めなかった。


なら何故、

私は泣いている。


どれも聞けなかった。


聞いたら、

何かが決定的に壊れる気がした。


ルクナスは、

こちらを急かさない。


ただ川に足を浸したまま、

月を見ている。


少しだけ、

声が柔らかくなる。


「少なくとも……綺麗な聖女なんかじゃない。

 腹が減れば奪おうとするし、怖ければ逃げるし、怒れば石も振るう」


「……」


「でも、生きようとしていた」


川の音が続く。


「エアもそうだった」


セレスは黙る。


エア。


火線祭で見た男。


槍を持ち、

神話を壊すと言った男。


全てを守ると、

当たり前のように言った男。


その男が。


昔はただ、

生きることに必死だった。


その隣に、

ゴブリンの女がいた。


「……信じられん」


正直に漏れた。


ルクナスは笑う。


「それ、

 たぶん今すぐ答えを出さない方がいいよ」


「……何故だ」


「今の君、顔が怖いから」


「殺すぞ」


「ほらね」


ルクナスは笑った。


この男は本当に、

緊張感がない。


だが、

その軽さに少しだけ息ができた。


川へ視線を落とす。


月が揺れている。


自分の顔も、

水面に薄く映っていた。


涙の跡。


白い髪。

白い瞳。


私は誰だ。


答えはまだない。


だが。


少なくとも。


エアが見ていたものが、

神話ではなかったことだけは分かった。


聖女でも。

教典でも。


中央の語る正統でもない。


もっと泥臭く。

もっと生々しく。

もっと近いもの。


「……ルゥ」


その名を、

小さく呟く。


胸の奥で、

何かが微かに震えた。


それが自分のものなのか。


それとも、

別の誰かのものなのか。


やはり、

分からなかった。


「……どんな奴だったか、おまえは…知っているのか?」


気付けば、

口が動いていた。


ルクナスは少しだけ目を丸くする。


「ルゥ?」


「ああ……」


少し迷う。


だが、

知りたかった。


エアが見ていたものを。


神話ではなく。


一人の生きた存在を。


ルクナスは少し考え、

それから笑った。


「そうだなぁ…あの子は…」


足先で水を揺らす。


ちゃぷり。


「最初は、とにかく警戒心が強かった」


「警戒心?」


「うん」


ルクナスは頷く。


「助けられた直後なのに、

 隙があればエアを石で殴ろうとしてたくらいだからね」


「……」


「骨で作った防具を見ただけで震えるし、

 槍を持てば怯える」


月明かりが、

川面の上で揺れる。


「でも、逃げなかった」


「……」


「怖いくせに、エアのそばからは離れなかったんだ」


その言葉だけが、

妙に胸へ残った。


「エアが狩りへ行こうとすると、

 服を掴んで放さない」


ルクナスは続ける。


「待ってろって言われても首を振る。

 だから結局、弓を持たされて一緒に森へ入った」


「それは……足手まといではないか」


「最初はね」


ルクナスが笑う。


「でも、あの頃の二人は言葉もほとんど通じてなかった」


「……」


「それでも、

 離れたくないってことだけは伝わってた」


川の音が流れる。


さらさらと。


途切れることなく。


「その後、

 エアはルゥを仲間のもとへ戻そうとした」


「何故だ」


「自分といるより、

 同族と暮らした方が幸せだと思ったんじゃないかな?」


ルクナスは肩を竦めた。


「エアらしいだろ?」


「……」


否定はできなかった。


自分のことを後回しにして、

相手のためだと思ったことを選ぶ。


今のエアと同じだ。


「そのまま分かれたのか?」


「一度はね」


即答だった。


「仲間を見つけたのに、

 エアの手を掴んで一緒に連れていこうとした」


「……」


「でもエアは行かなかった」


ルクナスの声が、

少しだけ静かになる。


「手を振りほどいて、

 戻れって言った」


「それで……戻ったのか?」


「その時は」


月が、

水面の上で細かく砕ける。


「エアは一人で帰った」


「……」


「ルゥのためだと思って」


ルクナスは苦笑した。


「でもね。

 ルゥはエアの考えなんて、

 全然受け入れてなかった」


「どういう意味だ」


「自分の居場所は、

 自分で決める子だったんだよ」


「自分の居場所…」


ルクナスは静かに言った。


「仲間がいるかどうかじゃない。

 同じ種族かどうかでもない」


少しだけ目を細める。


「誰と一緒にいたいのか」


その言葉に、

胸の奥が小さく軋む。


「ルゥは、エアを選んだ」


川の音だけが響く。


「……選んだ?」


「うん」


ルクナスは頷いた。


「言葉を覚える前から、すごいよね」


セレスは何も言えない。


エアがルゥを拾った。


助けた。

守った。


それだけではない。


ルゥもまた、

エアを選んだ。


「言葉なんて、ほとんど通じないのにね」


ルクナスは続ける。


「でも、誰と一緒にいたいかだけは最初からはっきりしてた」


月を見上げる。


「エアが離そうとしても戻ってくる。

 一人で狩りへ行こうとすれば付いていく。

 怖くても、エアのそばなら逃げない」


「……」


ルクナスは少し考えた。


「情が深かったんだろうね」


「情……」


「一度、自分の中へ入れた相手を、

 簡単には外へ出さない」


その言葉が。


何故か、

自分へ向けられたもののように聞こえた。


「それは……執着ではないのか」


セレスが聞く。


「そうとも言える」


ルクナスはあっさり答えた。


「でも、

 エアも似たようなものだったよ」


「エアも?」


「ルゥを仲間へ返したくせに、

 一人で戻る途中はずっと苦しそうだった」


静かな声。


「一人で生きることには平気な顔するくせに。

 少しの間そばにいただけのルゥがいなくなっただけで、

 足音まで重くなってた」


「……」


「離した方がいいと思った。

 でも、本当は離したくなかった」


風が川面を撫でる。


「ルゥの方は、

 そんな難しいことを考えなかった」


少し笑う。


「エアがいい。

 だから一緒にいる」


それだけだった。


「単純だな」


「うん」


ルクナスは頷く。


「でも、エアにはそれが必要だった」


「何故だ」


「エアは自分が何を欲しいのか、

 ずっと分からなかったから」


静寂。


「帰る場所もない。

 名前もない。

 待っている相手もいない」


ルクナスの声から、

いつもの軽さが少し消える。


「そんなエアに、

 ルゥは自分から近付いた」


「……」


「名前を呼んで。

 服を掴んで。

 体温を寄せて」


月明かりが、

マリスの身体に浮かぶ水紋を照らしている。


「ここにいるって、

 何度も伝えた」


セレスの指先が、

僅かに動いた。


触れられた唇。


隣へ座った夜。


月明かりの下で、

自分へ重ねられた温度。


胸が痛む。


「……それで、妻になったのか」


「すぐじゃないよ」


ルクナスは笑う。


「最初は、

 そんな言葉すら知らなかったからね」


「では、何をもって妻とした」


「さあ?」


「貴様」


「本当に分からないんだよ」


ルクナスは楽しそうに肩を竦める。


「いつから夫婦だったのか。

 どこから家族だったのか」


少しだけ遠くを見る。


「気付けば、離れられなくなってた」


「……」


「エアがルゥを選んだだけじゃない」


ルクナスはセレスを見る。


「ルゥも、

 何度もエアを選び直したんだ」


その一言だけが、

静かな川辺へ落ちた。


神話ではない。

運命でもない。


神が選んだ伴侶でもない。


一人では生きられない者同士が。


互いを見つけ。


離そうとして。


それでも戻り。


何度も選んだ。


その先に、

二人の関係があった。


「……人間みたいだな」


思わず漏れる。


ルクナスは首を横へ振った。


「それは…少し違うね」


優しく笑う。


「人間だからじゃない」


月を見る。


「ゴブリンだからでもない」


そして、

静かに続ける。


「ルゥだったから、エアは好きになった」


「……」


「エアだったから、ルゥも離れなかった」


セレスは何も言えなかった。


種族でもない。

肩書でもない。

神話でもない。


エアが見ていたものは、

そこだった。


「だから」


ルクナスが立ち上がる。


足から水が落ちる。


月明かりの中で、

小さな波紋が広がった。


「君はルゥにならなくていい」


「……」


「君はセレスだ」


その言葉は、

さっきよりもずっと重かった。


セレスは俯く。


私はセレス。


それだけなら、

簡単なはずだった。


だが。


では、

セレスとは何だ。


中央の人間。


聖杭槍杖か。


異端を焼く白服か。


それとも。


エアに口付けされ、

別の誰かを見られたことに傷付いた女か。


どれも自分だ。


だが、

どれか一つだけではない気がした。


「エアは……」


声が漏れる。


「エアは私を見ていない…」


ルクナスはすぐには答えなかった。


川の音が、

二人の間を流れる。


「今はね」


やがて、

静かに言った。


セレスが顔を上げる。


「……今は?」


「エアも分かってないんだよ」


ルクナスは苦笑する。


「ルゥを失って。

 長い時間を越えて。

 似た温度を君の中に見つけた」


「だから、間違えたと?」


「まぁ…ある意味で、間違えちゃってるよね」


あっさりだった。


胸が痛む。


だが、

否定されなかったことに、

少しだけ安堵している自分もいた。


「でも」


ルクナスは続ける。


「エアが間違えたからって、君がルゥになる必要はない」


「……」


「ルゥなら、たぶん怒るよ」


「何故だ」


「自分の場所を、別の誰かに譲るような子じゃないから」


思わず黙る。


確かに。


今聞いた話の中のルゥは、

そんなことを許す存在には思えなかった。


ルクナスは小さく笑う。


「エアの心にルゥがいるのと、

 君がセレスとして隣に立つことは別だよ」


「……そんなことが可能なのか」


「さあ?」


「貴様、…そればかりだな」


「未来のことは分からないからね」


肩を竦める。


「でも、誰かの代わりになろうとした時点で、たぶん君は負ける」


「誰にだ」


「ルゥにも」


少し間を置く。


「君自身にも」


川の音が続く。


水面を見る。


答えはまだない。


だが、少なくとも。


ルゥではない。


そして。


ルゥになる必要もない。


そのことだけは、

ほんの少しだけ分かった気がした。


「……ルゥ」


もう一度、

その名を呟く。


今度は。


胸の奥で震えたものが、

先ほどより少しだけ遠く感じた。


消えたわけではない。


だが。


自分ではない誰かの名として、

初めて呼べた気がした。


ルクナスは何も言わない。


ただ、

月明かりの中で笑っていた。


川の流れる音だけが、

二人の間を静かに通り抜けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ