第181話:ルゥの名
夜風が吹く。
冷たい。
だが、
それを気にする余裕もなかった。
「……」
どれだけ歩いただろう。
村の灯は、
もう見えない。
森の入口。
木々の影。
月明かりだけが、
白く地面を照らしている。
セレスは立ち止まった。
「……」
呼吸を整える。
だが。
整わない。
胸の奥が、
妙に騒がしかった。
目を閉じ…浮かぶ。
…エアの顔。
あの瞬間。
月明かりの下、
真っ直ぐこちらを見ていた目。
そして。
『やっぱり……』
唇を噛む。
違う。
問題はそこではない。
あの後の言葉だ。
『お前が見るのは……私ではないのだな……』
自分で言った言葉。
「……何故、あんな言葉が」
分からない。
怒っていたのか。
違う。
憎かったのか。
それも違う。
「……分からん……」
小さく漏れる。
エアは何かを見ていた。
何かを探していた。
そして、
見つけた。
そういう顔だった。
だが……。
それは、
私ではなかった。
「……」
空洞で言われた言葉を思い出す。
『お前は……やっぱりルゥじゃない』
あの時は、
否定された。
今夜は逆だ。
『やっぱり……』
まるで。
今度は何かを肯定されたみたいだった。
「……」
だが。
それはセレスではない。
ルゥだ。
エアが見ていたのは。
求めていたのは。
私ではない。
「私は……」
言葉が止まる。
私はルゥではない。
それは知っている。
最初から知っている。
だが。
なら、
私は何だ。
中央の信徒。
聖杭槍杖。
違う。
今はもう……。
どちらにもなれない。
そんな気がする。
異端を焼く者。
それが今、
私自身を否定した。
「何故、こうなった……」
以前の私は、
何故揺らがなかった。
それすら、
分からなくなった。
……。
私は何なのだ。
「……っ」
胸の奥が痛む。
理由が分からない。
理解できない。
ただ。
あの瞬間。
エアが見ていたのは、
私ではなかった。
それだけは分かった。
「……」
指先が唇へ触れる。
何も残っていない。
感触など、
とっくに消えている。
なのに。
消えない。
「……何故だ」
嫌だったか。
分からない。
怒っているか。
それも分からない。
なら何故……。
…私は逃げた。
何故。
あそこにいられなかった……。
「……」
避けようとは思わなかった。
嫌悪もなかった。
拒絶もなかった。
それが、
余計に分からない。
あれは私だったのか。
それとも。
エアの言う、
ルゥだったのか……。
「……っ」
胸が苦しい。
呼吸が浅くなる。
理由が分からない。
分からないのに。
苦しい。
そして。
―――ぽたり。
頬に何かが落ちた。
「……」
触れる。
濡れている。
雨ではない。
空を見上げる。
雲はない。
指先を見る。
月明かりに濡れていた。
涙だった。
「……何故だ」
もう一度、
呟く。
答えなどない。
森も。
月も。
風も。
祈りを唱えたところで、
何も答えない。
教会の教える、
主の火はない。
ただ、
頬を伝う涙だけが止まらなかった。
「私は……」
掠れた声が漏れる。
私は誰だ。
この感情は何だ。
私のものなのか。
それとも。
ルゥのものなのか。
分からない。
何一つ。
分からなかった。
「……」
今はとにかく、
一人でいたかった。
誰もいない場所で。
何も聞こえない場所で。
だが、
歩いても。
……歩いても。
頭の中には、
エアの顔が浮かぶ。
「……っ」
苛立つ。
振り払う。
それでも消えない。
やがて。
木々の隙間が開けた。
月光が落ちている。
小さな川だった。
さらさらと、
水が流れている。
「……」
そして。
川辺に誰かいた。
背中が見える。
座っている。
足だけを川へ浸し。
月明かりを受けて、
蒼い髪が薄く光っていた。
マリスの体。
だが、
中身は違う。
「……お前か」
気の抜けた声。
「あれ?奇遇だね?」
ルクナスだった。
白い肌の上を、
淡い水紋が流れていた。
胸元。
腕。
首筋。
青白い光が、
呼吸に合わせるように揺れている。
ネレイディア特有の発光だ。
「貴様はこんなところで……何をしている……」
ルクナスは水面へ視線を落とした。
少し考える。
「休憩、かな?」
相変わらず、
緊張感がない。
「あと、少し確認を」
「確認?」
「色々だよ。少し、この子と話してたのさ」
ルクナスはそう言って、
マリスの体へ手を置いた。
「そうか……」
それ以上、
聞く気にもなれない。
沈黙が訪れた。
川の音だけが流れる。
「……」
ルクナスは足先で水を揺らす。
ちゃぷり、と音が鳴った。
しばらくして。
「浮かない顔だね?」
気の抜けた声だった。
「……」
答えない。
答える気にもなれなかった。
今は誰とも話したくない。
一人になりたかった。
なのに。
何故だろう。
立ち去る気にもなれなかった。
「あ、違うか」
ルクナスが少し考える。
「泣いた後かな?」
「……貴様」
思わず睨む。
だが、
怒る気力もない。
ルクナスは肩を竦めた。
「ごめんごめん」
全然悪びれていない。
「でも、本当にそう見えたから」
「……」
指先が頬へ触れる。
もう乾いている。
だが。
さっきまで涙が流れていたことだけは、
覚えている。
何故泣いたのか。
それすら分からないまま。
川の音が流れる。
沈黙が落ちる。
ルクナスは何も聞いてこない。
それが、
少しだけ楽だった。
「……」
視線を落とす。
揺れる水面。
その向こうに。
また、
エアの顔が浮かぶ。
『やっぱり……』
胸の奥が痛む。
違う。
私はそれを聞きたいのではない。
神々の話。
戦争。
神器。
聞くべきことは、
別にあるはずだ。
そう思うのに……。
結局。
口から出たのは、
別の言葉だった。
「ルクナス……」
「ん?」
「一つ、聞きたい……」
ルクナスが振り向く。
少しだけ迷う。
だが。
もう止まらなかった。
「ルゥとは……何だ……?」
川の音だけが響く。
ルクナスの瞬きが、
一度止まった。
「……へぇ」
少し意外そうだった。
「その名前が出るんだ」
「答えろ」
思ったより、
強い声が出た。
自分でも驚く。
何故、
こんなに知りたいのだ。
何故、
こんなに気になるのだ。
分からない。
だが。
知りたかった。
エアが見ていたものを。
エアが探していたものを。
「貴様は知っているのだろう」
ルクナスは、
しばらくこちらを見ていた。
その視線が、
少しだけ鬱陶しい。
見透かされている気がした。
「あー……」
頭を掻く。
「うん、知ってるよ」
あっさりだった。
「まあ、
僕よりエアの方が詳しいけど」
「……」
胸の奥が、
少しだけ沈む。
結局、
またエアだ。
何を聞いても。
何を考えても。
あいつに繋がる。
「でも」
ルクナスが首を傾げる。
「どうして急にルゥ?」
「……別に、何も」
即答した。
本当は、
別にではない。
だが。
説明できるはずがない。
私自身も、
分かっていないのだから。
「嘘だね」
「……」
否定できなかった。
ルクナスが少し笑う。
その笑い方が、
妙に腹立たしい。
「まあ、いいや」
水面へ視線を戻す。
ルクナスは、
少しだけ笑った。
「エアの妻だよ」
「……」
言葉が落ちた。
妻。
その一語だけで、
胸の奥が変に軋んだ。
意味は分かる。
夫婦。
伴侶。
共に生きる相手。
それだけの言葉のはずだ。
なのに。
何故。
こんなに息が詰まる。
「……妻」
掠れた声で繰り返す。
「うん」
ルクナスは軽く頷く。
「ただ、今の神話に残っている話とは結構違うけどね」
「違う?」
「違う違う」
足先で水を揺らす。
ちゃぷり。
月が崩れる。
「今の人類が語っているリウゥとか、
聖女とか、
月の女神とか。
そういう綺麗な話じゃない」
リウゥ。
知っている。
教典にも残る名。
人類の始祖。
絶対神エンラの傍らにいたとされる女神。
火を受け継ぎ、
人へ温もりをもたらした者。
ある宗派では聖母。
ある地方では、
月の伴侶。
細部は違う。
だが、
どれも人ならざる清い存在として語られていた。
「ならば、何だ」
ルクナスは、
あっさり答えた。
「ゴブリン」
「……」
一瞬。
意味が分からなかった。
「……何?」
「ゴブリン」
もう一度。
軽すぎる声で。
「ルゥはゴブリンだよ」
川の音が遠くなった。
ゴブリン。
あの小鬼。
森や洞穴に棲み、
人里を襲う下等種。
討伐対象。
異種ですらない。
魔物として扱われる存在。
それが。
エンラの妻。
神話のリウゥ。
「……は?」
声が漏れた。
理解が追い付かない。
何を言われたのか。
一瞬、
本気で分からなかった。
ルクナスは平然としている。
冗談を言った顔でもない。
からかっている顔でもない。
だから余計に、
理解できない。
「……何を言っている」
掠れた声が漏れる。
だが。
胸の奥では、
別の感情が渦巻いていた。
神話が。
教典が。
私の知る全てが。
今。
音を立てて揺れた気がした。
川面が揺れる。
砕けた月が、
水の上で歪んでいた。
そして。
私は初めて。
ルクナスの語る“昔話”が、
想像していたものとは全く違うのだと知った。




