第175話:器
――誰かが。
必死に名を呼んでいた。
声は近い。
「……ルクスッ!」
すぐそこにいるはずなのに、
姿が見えない。
空が崩れていた。
大地が割れていた。
光が砕けていた。
「……ルクスッ!!」
ルクナスの声。
俺を呼んでいる。
腕を伸ばす。
向こうも手を伸ばしていた。
……必死だった。
何かを掴もうとしている。
……届かない。
あと少しなのに。
……間に合わない。
その瞬間。
腕の中に重みがあった。
温かい。
確かに誰かを抱いている。
柔らかい感触。
胸へ押し当てた身体の熱。
鼓動が聞こえる。
「……誰だ……」
声が掠れる。
「―――ッ」
聞こえない。
泣いている。
それだけは分かる。
黒い髪が揺れていた。
……離したくない。
名前も知らない。
顔すら見えない。
それなのに……。
この腕を緩めた瞬間、
二度と届かなくなる気がした。
世界が崩れ、
光が砕ける。
時間が引き裂かれる。
腕の中の温もりが失われる。
鼓動が遠ざかる。
指先から零れ落ちるように。
何も残らない。
残ったのは。
抱き締めていた感覚だけだった。
ーーーーー
「――ッ!!」
息が詰まる。
視界が戻る。
青空。
草原。
風。
「エア!?」
ユーリスの声。
「ハァ……ハァ……ッ……」
肩で息をしていた。
知らないうちに、
呼吸が荒くなっていた。
胸が痛い。
何故か分からない。
ただ……。
腕の中に残っている。
誰かを抱いていた感覚だけが。
ユーリスは心配そうにこちらを見ている。
ルクナスは黙っていた。
そして。
「……あり得ない」
低い声。
セレスだった。
鋭い視線が、
ルクナスを真っ直ぐ見据えている。
「世界を作っただと……」
風が頬を撫でる。
「そして生命を生み出した……」
一歩。
セレスが前へ出る。
「死者を蘇らせた?」
槍を握る手に力が入る。
「そんなものは神の権能だ」
声は静かだった。
だが、
その静けさの奥にあるものは重い。
怒りとも違う。
困惑とも違う。
信じたくない何かを前にした顔だった。
「人に出来る事ではない!」
ルクナスは否定しない。
ただ、
静かに聞いている。
「……戯言だ」
セレスは言う。
「神を騙る異端の言葉にしか聞こえん」
ユーリスが小さく息を呑む。
俺はまだ息が整わない。
「セレス……やめろ……」
白い瞳が細くなる。
「人が世界を、命を、死者を……」
一つずつ。
噛み締めるように。
「そんなもの――」
そこで言葉が止まった。
視線が動く。
俺を見る。
そして、
止まる。
「……」
数秒。
セレスは黙る。
完全な異端なら簡単だった。
切り捨てればいい。
だが。
セレスは既に見ている。
世界ではなく、
過去との繋がりを。
「……なら」
ようやく口を開く。
「証明してみせろ」
ルクナスを見る。
長い髪が揺れた。
「お前の話が真実だと」
「できないよ」
ルクナスは即答した。
ユーリスが目を瞬かせる。
セレスの眉が動く。
だが、
ルクナスは平然としていた。
「少なくとも、
君たちが納得する形ではね」
肩を竦める。
「今すぐに、って言うならこの子かな?」
そう言って、
ルクナスは自分の身体を指差した。
「君達から見れば、
生き返ったように見えなくもないと思うけど?」
セレスに刺され、
死にかけていたマリス。
ルクナスは続ける。
「でも、これも証明としては弱い」
苦笑する。
「信じない人は、
最初から信じないからね」
軽く両手を広げた。
「だから言っただろう?
君達が納得する形では証明できないって」
少し考えるように、
顎へ手を当てる。
「ただ証拠なら、
世界中に残っている」
セレスの眉が動いた。
「証拠だと?」
「ああ」
ルクナスは頷く。
「例えば魔術」
その瞬間。
ユーリスとセレスの視線が変わった。
「魔術は君達が思っているほど自然なものじゃない」
穏やかな声。
「元々この世界には存在していなかった」
「……何だと」
「火も。
水も。
風も。
土も」
ルクナスは続ける。
「君達は当たり前のように扱っているけどね」
そして、俺を見る。
「全部、エアから始まった」
思わず顔を上げた。
風が頬を抜ける。
ルクナスの目は、
遥か遠くを見ていた。
「君達が言う、最初の火だ。
詠唱もない、術式もない、理論もない」
少しだけ笑う。
「ただ存在した火」
草が揺れる。
静かな風だった。
「人はそれを見た。
理解しようとした。
真似しようとした。
再現しようとした。
…それが今の魔術だよ」
ルクナスは肩を竦めた。
「だから面白い」
空を見上げる。
「君達は僕を信じなくてもいい」
穏やかな声だった。
「でも君達自身が、既に痕跡の上で生きている」
そして。
ほんの少しだけ、
真面目な顔になる。
「それにエアも……」
視線が動く。
俺とセレスを見る。
「君をもう見つけてるみたいだしね」
「……何の話だ」
セレスが眉を寄せる。
ルクナスは少しだけ笑う。
「さあ?」
「僕が言うことじゃないと思うけど?」
まだ少し声が出しにくいが、
俺は口を開いた。
「待て……話を逸らすな」
ルクナスの笑みが少し止まる。
「さっきの話だ……」
息を整える。
「俺が何故、お前達と敵対した」
ルクナスは少し間を置いた。
それから。
どこか悲しそうに微笑む。
「……君が守ろうとしたからだよ」
「何を」
「この世界を」
沈黙が落ちる。
「僕達は確かにこの世界を作った。
理由はさっき話した通り」
少しだけ目を伏せる。
「でも今ここで生きている人達にとっては違う」
視線が巡る。
ユーリス。
セレス。
そして俺。
「誰かの人形じゃない。
誰かの道具でもない」
静かな声だった。
「生まれて。
笑って。
愛して。
死んでいく。
……全部、本物だ」
風が草原を流れていく。
誰も口を開かない。
「でも」
ルクナスの表情が曇る。
「前提が違うんだよ……」
セレスの眉が動いた。
「どういう意味だ?」
「いや、お前は実験場と言ったな……まさか……」
「そう」
ルクナスは頷く。
「エアは分かったみたいだね」
本当に言いたくなさそうだった。
「この世界は将来、
自分達が戻るための器でもあるから」
ユーリスの顔色が変わる。
「……器?」
ルクナスは頷いた。
「今、僕がしているようなことさ」
そう言って、
マリスの身体を示す。
「肉体。
魂。
文明。
世界そのもの」
淡々と並べる。
「元から全部、
自分達の物として作っている」
セレスの瞳が細くなる。
「貴様ッ――」
「だから僕は嫌いなんだよ」
ルクナスが遮った。
珍しく感情が滲む。
「僕は」
少し俯く。
「君達を見てきた」
静かな声だった。
「ゴブリンも。
狼も。
この世界で生きてきた者達を」
セレスは少し首を傾げる。
「ゴブリン?」
ルクナスはそれを見て、
小さく笑った。
「……今更、器だなんて言われても困るだろ?」
俺はルクナスを見る。
「俺が……それを知ったからか」
ルクナスは頷く。
「ノアリスが見た未来の君は」
少しだけ目を閉じる。
「全部知った」
短い沈黙。
「そして選んだ」
その言葉だけで十分だった。
「この世界の歪みを正し、守る側を」
胸の奥が重くなる。
否定できなかった。
その言葉を聞いた瞬間、
どこかで納得している自分がいた。
初めて聞く話のはずだった。
……なのに、
不思議と遠く感じない。
まるで、
ずっと前から知っていた答えを、
改めて突き付けられたようだった……。
「だから敵対した」
ルクナスは俺を見る。
「少なくとも」
苦く笑う。
「ノアリスが見た未来ではね」
沈黙が落ちる。
ユーリスは顔色を失ったまま、
俺とルクナスを見ている。
セレスは聖杭槍杖を握ったまま、
何かを飲み込むように黙っていた。
「……まぁでも」
ルクナスが肩を竦める。
「その未来は、まだ決まったわけじゃない」
「それに」
自分の胸を軽く叩いた。
マリスの身体。
そこにいるはずのない存在。
「僕も今は、ここにいる」
草原を風が抜ける。
青い匂いがした。
「だから、まだ間に合う」
「……」
「ルクナス」
俺は口を開く。
「お前は何をするつもりだ?」
ルクナスは笑った。
少しだけ。
昔に近い顔だった。
「……いつだったか言ったろ?」
「……」
「僕は君の味方だって」
その言葉だけは軽くなかった。
「正しいかどうかは分からない」
苦笑する。
「この世界の人達の味方かどうかもね」
そして。
真っ直ぐ俺を見る。
「でも……僕は君の味方だよ」
その言葉は、
強い言い方ではなかった。
なのに……。
不思議と優しさを感じる。
「君がこの世界を守ると言うなら、
僕はその道を探す。
君が僕達と敵対するなら、
僕はその理由を一緒に背負う。
君が槍を捨てると言うなら、
捨てられる場所を探す」
嘘じゃない。
そして。
今ならその理由も分かる。
「だから、まずは生き残ろう」
静かな声だった。
「まずは君と、その槍を、
誰の手にも渡さない方法を探そう」
ルクナスは少しだけ笑う。
昔を思い出すように。
懐かしむように。
「……今度こそ、間に合わせるから」
そして。
静かに続けた。
「僕としてはさ」
少し困ったような顔だった。
「二回も弟を失うつもりはないんだ」




