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第172話:雨の匂い


カサッ……。


小さな音。


「……?」


ユーリスが顔を上げる。


葉だった。


大木の葉が、

一枚だけ揺れている。


風はない。


なのに揺れる。


カサ……。


また一枚。


今度は二枚。


三枚。


やがて。


空洞全体の葉が、

ざわざわと鳴り始めた。


「エア……?」


ユーリスが息を呑む。


俺は見上げる。


大木が光っていた。


緑だった。


淡い光、

優しい光。


まるで、

朝日が木漏れ日になって降り注いでいるみたいだった。


根元から。


枝から。


葉から。


脈打つように広がっていく。


さっきまで漂っていた血の匂い。


焼け焦げた臭い。


それらが薄れていく。


代わりに……。


雨上がりの森みたいな匂いがした。


「これは……」


セレスが呟く。


戸惑っている。


理解できないものを見る目だった。


緑の光は、

枝を伝い。

墓標を伝い。


やがて。


俺の腕の中へ落ちた。


「……ッ」


熱くない。


だが、不思議と温かかった。


冬の日に、

日向へ出た時みたいな温度だった。


光は、

そのままマリスの身体へ溶け込んでいく。


傷口へ集まる。


胸。


背中。


焼け跡。


白火で傷んだ身体。


全部へ。


光が染み込んでいく。


「エア!?マリスさんが……!?」


ユーリスが震える。


「傷が……!?」


胸元。


穴が塞がっていく。


肉が繋がる。


血が止まる。


焼け焦げた皮膚が、

少しずつ元へ戻っていく。


あり得ない。


治癒じゃない。


回復でもない。


最初から傷など無かったことにするみたいだった。


セレスも動かない。


誰も動けない。


ただ…見ている。


奇跡みたいな光景を。


やがて。


緑の光が、

ゆっくりと消えていく。


静寂。


空洞に、

呼吸の音だけが残る。


そして。


「――ハァッ!!」


マリスの身体が跳ねた。


大きく息を吸う。


「ガッ……!」


咳き込む。


肺が空気を求めるみたいに。


何度も。


「ハァッ……!」


肩が上下する。


呼吸が戻る。


瞳が開く。


焦点が定まらない。


数秒。


ぼんやりと天井を見ていた。


「マリス!無事か!?」


そして。


ゆっくり俺を見る。


「……」


沈黙。


俺も見ている。


ユーリスも。

セレスも。


全員、次の言葉を待っていた。


マリスは瞬きをした。


もう一度した。


そして……。


にやりと笑った。


「いや~……」


軽い声だった。


その瞬間。


背筋が冷えた。


忘れるはずがない。


この声の出し方……。


聞き間違えるはずがない。


気の抜けたような、

少し気だるそうに遅い話し方。


「助かったよ、エア」


空洞が静まる。


俺の鼓動だけが、

妙に大きく聞こえた。


「…………マリス?さん?」


最初に声を出したのは、

ユーリスだった。


混乱していた。


当然だった。


俺もセレスも、

同じだった。


今そこにいるのは、

確かにマリスの身体だった。


だが――違う。


笑い方が違う。


視線の置き方が違う。


呼吸の間が違う。


同じ顔。

同じ身体。


なのに……。


「どうしたんだい?

 そんな悲しそうな顔をして?」


そう言って。


マリスは、

俺の頬へ手を置く。


その仕草。


その喋り方。


その軽さ。


「お前……まさか……」


声が漏れる。


「……ルクナス、か?」


空洞が静まる。


ユーリスが、

ゆっくりこちらを見る。


セレスも動かない。


マリスは…いや。


マリスの身体をした何かは、

ぱちりと瞬きをした。


そして。


にこりと笑う。


「そうだよ?」


あっさりだった。


まるで、

今日の天気を話すみたいに。


「さすがエア」


肩を竦める。


「やっぱり分かるんだ?」


「……」


「今回は久しぶりってほどでもないのかな?」


マリスの身体が、

ゆっくり上体を起こす。


さっきまで瀕死だったはずなのに。


まるで、

昼寝から起きただけみたいに。


「いやぁ~、しかし本当に」


頭を掻く。


「危なかった」


他人事みたいに言う。


「本当に良いタイミングだったよ」


「…………」


空気が凍る。


ユーリスが、

口を開けたまま固まっていた。


視線が。


俺とマリス。


何度も往復する。


「え……?」


掠れた声。


「え?」


もう一度。


理解が追い付いていない。


「ルク……ナス……?」


恐る恐る呟く。


「あの……ルクナスですか?」


「おや?僕のこと知ってるのかな?」


マリスの身体が、

軽く手を振る。


「初めまして」


笑顔。


状況に合わない笑顔だった。


ユーリスが一歩下がる。


「は……?」


思わず漏れる。


それくらいしか言えない。


セレスも黙っていた。


だが……。


その瞳だけが、

鋭く細められている。


マリスの身体を見ている。


いや。


その奥を見ようとしている。


「……」


ルクナスは、

そんな視線も気にしていない。


周囲を見回す。


折れた墓標。


砕けた壁。


焼け焦げた地面。


そして……。


マリスが握っていた槍を持った。


「へぇ」


少しだけ感心したように言う。


指先で槍身をなぞる。


金属が、

小さく鳴った。


「いつの間にか、こんなの作ってたんだ?」


「……」


「面白いね」


セレスの眉が僅かに動く。


ユーリスはまだ混乱していた。


「ま、待ってください……」


震える声。


「マリスさんは……?」


ようやく。


一番大事なことを聞く。


ルクナスは瞬きをした。


「ああ」


そして、

少しだけ首を傾げる。


「いるよ?」


あまりにも軽く答えた。


「いる……?」


「うん」


にこりと笑う。


「ちゃんといる。

 だから安心して」


そう言いながら。


自分の胸を、

とんとんと指で叩いた。


「今はちょっと借りてるだけ」


ユーリスの顔色が変わる。


セレスの目も細くなる。


ルクナスだけが、

妙に楽しそうだった。


「いやぁ~」


天井を見上げる。


「しかし本当に助かった」


息を吐く。


「もう少し遅かったら、

 僕も結構まずかったんだよね」


「……待て」


俺は遮った。


ルクナスが、

きょとんとこちらを見る。


「ん?」


「さっきから聞いていれば……」


胸の奥に、

嫌な違和感が残っていた。


助かった。


危なかった。


タイミングが良かった。


全部が気にかかった……。


「見てたわけじゃないのか?」


空洞が静まる。


ルクナスは瞬きをした。


俺は続ける。


「マリスを助けに来たんじゃないのか?」


「……」


「この木が光ったのも」


マリスを見る。


「傷が塞がったのも」


視線を戻す。


「全部お前がやったんだろう?」


なら、

当然そこには理由がある。


そう思った。


だが。


ルクナスは数秒黙ったあと。


「あー……」


頭を掻いた。


妙に言いづらそうに。


「順番としては逆だね」


「……何?」


俺の眉が寄る。


ルクナスは苦笑した。


「正確には」


指を立てる。


「僕が助かるために飛び込んだら」


次にマリスを指差す。


「結果的にこの子も助かった、

 ってことだよ」


空気が止まる。


数秒。


言葉が出なかった。


「……そうか」


ようやく声が出る。


「うん」


ルクナスはあっさり頷いた。


「最初からマリスを助けるために来たわけじゃないと?」


笑う。


悪びれもない。


「たまたまだよ」


「たまたま……」


気まぐれでマリスは救われた……。


そういうことらしい……。


「でも結果的には良かったろ?」


本気で言っている。


「僕も助かった」


マリスの胸を指差す。


「この子も助かった」


にこりと笑う。


「ほら、誰も損してない」


「……」


俺は黙る。


おそらく真実だ。


だが、

全てではない。


昔からだ。


こいつは……昔からこうだった。


人を助ける。


世界を救う。


そのくせ……。


そこになにか理屈がある。


しかも、

それをわざと話さない。


「ルクナス」


低く呼ぶ。


「何があった?」


今度は笑わなかった。


「お前が逃げ場を探すほどの何かが……」


静かな声で続ける。


「それは、何だ?」


その瞬間だけ。


ルクナスの笑みが、

少し薄くなった。


空洞に、

葉の音だけが残る。


ざわざわと、

遠い森の奥みたいに。


ルクナスはすぐには答えない。


ただ、

ゆっくりと天井を見上げた。


大木。


緑の残光。


折れた墓標。


砕けた石。


その全部を、

どこか懐かしそうに見ていた。


「……本当に」


小さく漏らす。


「よく残ってたね、ここ」


その声には、

さっきまでの軽さがなかった。


ふざけてもいない。


誤魔化してもいない。


ただ少しだけ、

疲れていた。


「ルクナス、答えろ」


もう一度呼ぶ。


ルクナスは、

ようやく俺を見る。


そして、

いつものように笑おうとして。


失敗した……。


「全部話すよ」


静かな声だった。


「ちゃんとね」


ユーリスが息を呑む。


セレスも、

黙ったままこちらを見ていた。


ルクナスは周囲へ視線を流す。


気絶した仮面達。


空洞の入口。


「ただ…今はここを離れよう」


その目だけは、

笑っていなかった。


「僕、結構まずい立場なんだ」


軽く言う。


だが、

空気は軽くならない。


「そして君もだ、エア」


「……どういうことだ」


ルクナスは、

ほんの少しだけ肩を竦めた。


「説明は後」


短く言う。


「今は、逃げないと」


その一言で。


緑の光が消えたはずの空洞が、

急に冷えた気がした。

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