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第166話:帰ってきた…

第166話:帰ってきた…


「……ッ」


重力が反転する。


身体が浮く。


いや、

沈んでいるのか。


分からない。


耳鳴り。


魔力の奔流。


空間そのものが、

軋むみたいな感覚。


「っ……」


誰かの気配が、

一瞬だけ近くにあった。


だが――


全部、

急に遠ざかる。


闇。


落下。


静寂。


そして。


――ドッ……。


足が、

石床へ触れた。


「……?」


静かだった。


目隠しの布を外す。


薄暗い。


白い石壁。


長い通路。


灯りはない。


なのに、

ぼんやり見える。


床。

壁。

天井。


全部に、

細い術式が刻まれていた。


脈打つみたいに。


淡く、

光っている。


「……一人か」


周囲を見る。


誰もいない。


ユーリスも。

セレスも。

マリスも。


「別か」


小さく呟く。


静寂だけがつづく。


音がない。

風もない。


生き物の気配も。


魔物も。


何も。


ただ、

通路だけが続いていた。


「……」


一歩、

踏み出す。


その瞬間。


ズゥッ――……。


身体の奥へ、

何かが沈んだ。


「……?」


重い。


肩ではない。


肉体でもない。


もっと内側。


核。


そこへ、

ゆっくり圧が掛かってくる。


「……なるほどな」


小さく息を吐く。


ただの通路じゃない。


歩くだけで、

負荷が増している。


術式そのものが、

侵食してくる。


「……」


再び歩く。


一歩。


二歩。


三歩。


その度に、

圧が増す。


普通の重圧じゃない。


火が、

身体の奥でわずかに揺れる。


まるで、

“何か”へ触れられているみたいだった。


「……」


脳裏に、

火が浮かびだす。


暗い夜。

赤い炎。


小さな影。


「……やめろ」


瞬きをする。


消える。


幻覚じゃない。


記憶が、

勝手に浮かんでくる。


「…こういう場所か?」


通路を見る。


壁の術式が、

微かにさっきよりも強く脈打っていた。


進む。


――ズゥ……。


空気が、

さらに重くなる。


火が、

身体の奥で反応するように脈打った。


「……」


通路の奥。

暗闇。


その先から、

何かがこちらを見ている気配がした。


敵意ではない。


観測。


試すような、

静かな視線。


「……趣味の悪いのが紛れたのか?」


槍を肩へ担ぐ。


そして、

そのまま歩き続けた。


圧は増していく。


だが。


「……」


重いだけだ。


押し潰される感覚も、

呑まれる感覚もない。


術式は、

こちらを測ろうとしている。


だが――

噛み合っていない。


まるで、

川へ石を落としているみたいだった。


「……」


長い通路だった。


時間の感覚が曖昧になる。


だが…、やがて。


前方の暗闇が、

少しずつ開け始めた。


「……?」


通路が終わる。


その先。


巨大な空間。


思わず、

足が止まった。


「……なんだ、ここは」


静かな空洞だった。


天井は高い。


壁は崩れ、

古い地層が剥き出しになっている。


だが、

最初に目へ入ったのは――


槍だった。


巨大な石台座。


そこへ突き立てられた、

一本の槍。


白銀。


磨き抜かれた刃。


流れ続ける術式。


神々しいほど、

“綺麗”だった。


「……あれは」


一目で分かる。


「…俺のじゃない」


模したのか。


辿り着こうとしたのか。


どちらにせよ、

違う。


力は感じるが、泥臭い火の匂いがしない。


生きていない。


「……」


視線が、

その奥へ流れる。


そして。


止まった。


「……っっ、っ」


声にならなかった。


そこに、

木があった。


巨大な木。


地下のはずなのに。


きれいな緑の葉が輝いて、

静かに枝を広げている。


根は、

大地へ深く沈み。


その根元には。


何本もの槍。


折れた槍。

朽ちた槍。

倒れかけた槍。


全部が、

木を囲むように刺さっていた。


古い記憶がまた呼び起こされる。


赤い火。


灰。


苗木。


風。


『墓だ』


リヒト。


ナハト。


焼けた肉の匂い。


月。


石柱。


火を囲んだ夜。


「……」


息が、

止まる。


胸の奥が、

ぐしゃりと掴まれる。


収まらなかったものは、

目から溢れていた。


懐かしかった。


あまりにも。


「……そうか」


小さく漏れる。


足が、

無意識に前へ出る。


「そうだったか……」


視界が、

微かに揺れる。


「ここは……」


木を見る。


槍を見る。


墓を見る。


俺が残した火を見る。


「アルケシアは……」


そこで、

ようやく理解した。


ここは、

地下迷宮なんかじゃない。


沈んだんだ。


村ごと。


俺達が生きていた場所ごと。


長い時間の中で、

地の底へ。


そして。


その上に、

今のアルケシアが築かれた。


「……残ってたのか」


呆然と、

そう漏らした。


静寂。


大木だけが、

静かに枝を揺らしている。


風なんてない。


なのに、

微かに葉が鳴った。


まるで。


帰ってきたことを、

知っているみたいに。


俺は、

静かに膝をついた。


木の幹へ、

手を触れる。


冷たくはなかった。


「……ただいま」


指先が、

少し震えていた。


長い時間の果てに。


ようやく、

帰ってきた。


「……」


俺は、

目元を拭った。


指先に、

少しだけ熱が残る。


ゆっくり立ち上がる。


大木は、

何も言わない。


ただ、

そこに在る。


長い時間を越えて。


「…」


俺は、

周囲を見た。


折れた槍。

朽ちた槍。


誰かが立てたのか。

誰かが守ったのか。


そのどれもが墓標で、

木を守るように囲んでいる。


「……」


その時だった。


視線が、

奥で止まった。


木の根元。


他の槍に隠れるように。


一本だけ、

深く刺さっているものがあった。


「……」


黒い槍。


錆びている。


穂先も、

柄も、

焼け焦げたみたいに黒ずんでいる。


神々しさなんてない。


白銀の輝きもない。


術式も流れていない。


ただ、

古びて。


朽ちかけて。


それでも――


「……ここにあったのか」


喉の奥から、

声が漏れた。


間違えるはずがない。


あれは。


俺の槍だ。


最後に、

地へ突き立てた槍。


いや。


俺が、

最後まで握っていた槍。


誰かが拾ったのか。

誰かがここへ立てたのか。


他の槍で隠すように。


守るように。


眠らせるように。


そこに、

刺さっていた。


「……」


俺は、

ゆっくり近づいた。


一歩ごとに、

胸の奥が重くなる。


人工の槍には、

何も感じなかった。


綺麗すぎた。

遠すぎた。


だが、

これは違う。


錆びている。


黒くなっている。


形も崩れている。


それでも。


火の匂いがした。


俺の火だ。


遠い昔に、

ここで燃え尽きた火。


「……」


手を伸ばす。


柄に触れる。


その瞬間。


――ボッ……。


黒い火が、

槍の内側から灯った。


「……」


錆が、

剥がれる。


欠けた穂先が、

赤く熱を帯びる。


崩れていた柄が、

軋みながら形を戻していく。


古い鉄の匂い。

焼けた土の匂い。

火の匂い。


それが一気に、

空洞へ広がった。


槍は、

燃えていた。


だが、

灰にはならない。


黒く錆びた表面が、

火に舐められるたび、

本来の色を取り戻していく。


白銀の槍みたいに神々しくも、

整ってもいない。


それでも。


「……」


俺は、

柄を握った。


重い。


芯まで、

詰まっている。


手に馴染む。


遠い昔、

雪の洞で初めて握った時と同じ重さ。


折れないための槍。


殺すためじゃない。


守るために、

何度も叩きつけた槍。


火は、

静かに収まっていく。


錆は消えた。


欠けもない。


姿は荒いまま。


刃は厚く、

穂先はどこか歪で、

飾りなんて何もない。


ただ、

折れない。


ただ、

前に進むために仕上げた。


俺の槍だった。


「……戻ったか」


小さく呟く。


槍が、

わずかに熱を返した。


答えたみたいに。


俺は、

それをゆっくり引き抜いた。


石が砕ける。


根が震える。


大木の葉が、

ざわりと鳴った。


風はない。


それでも、

空洞全体が揺れた。


まるで。


長い眠りから、

何かが目を覚ましたみたいに。


静かに目を閉じた。


手の中の重みを、

確かめる。


遠い昔。


雪の洞。


火。

鉄。

叩く音。


あの頃と、

同じだった。


「……」


視線を落とす。


手元。


さっきまで刺さっていた、

黒錆びた場所。


そこには、

ぽっかりと空間ができていた。


俺は、

もう片方の手を見る。


今の時代で使っていた、

代わりの槍。


白くもない。


神々しくもない。


だが、

わずかな時間でも、

共にあった槍だ。


「……悪くなかった」


小さく呟く。


そして。


それを、

静かに地面へ突き立てた。


ゴッ――……。


鈍い音。


墓標みたいに。


他の槍たちの隣へ、

並ぶ。


まるで、

役目を終えたみたいに。


「……」


その瞬間だった。


ズゥゥゥ……。


空間が、

低く唸った。


壁の術式が、

一斉に明滅する。


大木の葉が、

ざわりと揺れた。


空気が、

歪む。


「……?」


俺は、

ゆっくり振り返った。


空洞の入口。


白い光が、

裂け目みたいに走る。


次の瞬間。


二つの影が、

そこから崩れるように現れた。


「っ……は……」


先に膝をついたのは、

マリスだった。


片手を床につき、

肩で息をしている。


水色の髪が乱れ、

額には汗が浮いていた。


呼吸が、

明らかに荒い。


その後ろ。


セレスも、

壁へ手をついていた。


白い外套は裂け、

呼吸も浅い。


顔色は、

死人みたいに白かった。


「……」


俺は、

少し眉を寄せる。


「おい、大丈夫か?」


本気で、

そう聞いた。


二人とも、

異常なほど消耗している。


ここへ来るまでに、

何があったのか分からない。


だが、

まともな状態じゃないのは分かった。


「……」


セレスが、

ゆっくり顔を上げる。


その目が、

こちらを見る。


そして――止まった。


「……貴様」


掠れた声。


「何故……そんな涼しい顔をしている……」


「?」


意味が分からず、

少し首を傾げる。


セレスの眉が、

わずかに引きつった。


「ここまでの術式……」


息が乱れる。


「普通なら……

 途中で魔力が潰れる……」


「そんなにか?」


思わず、

そう返した。


セレスが、

数秒黙る。


それから。


マリスが、

ありえないものでも見たかのように目を開いた。


「……は?」


珍しく、

そんな声を漏らした。


猫みたいに瞳が開いたまま固まった。


ほんの一瞬。


驚愕。


だが、

すぐに消える。


いつもの顔へ戻った。


「……ほんと、規格外」


小さく息を吐く。


軽口みたいに。


けれど、

声が少しだけ硬かった。


俺は、

槍を肩へ担ぎ直す。


「お前ら、かなり酷い顔してるぞ?

 ほんとに平気か?」


そう言うと。


マリスが、

疲れた顔のまま苦笑した。


「エア、そんな、すぐに、話さないで……

 息が……まだ……」


セレスは、

まだ信じられないものを見る目で、

こちらを見ている。


空洞の術式が、

微かに脈打つ。


だが。


さっきまであった、

押し潰すみたいな圧迫感は――


少しだけ、

薄れていた。


「……」


俺は、

入口の方を見る。


マリス。


セレス。


二人だけ。


「ユーリスは?」


そう聞いた瞬間。


マリスの顔から、

わずかに表情が消えた。


セレスも、

目を伏せる。


「……まだ来ていない」


「途中で、分かれたのか?」


「違う」


セレスが、

浅い息のまま答える。


「そもそも……

 同じ道では、ない」


「……そうか」


俺は、

槍を肩から下ろした。


そして、

一歩進む。


「行ってくる」


「待って……」


マリスが、

息を整えながら顔を上げる。


「行くって……どこに……」


「迎えに行く」


短く返す。


セレスの眉が、

わずかに動いた。


「貴様……この空間を、分かっているのか」


「分からん」


「なっ……」


それだけ言って、

俺は歩き出した。


マリスが、

視線を落とす。


地面に突き立てられた、

さっきまで俺が使っていた槍へ。


「最初に来てたのに……槍は……?」


「いらない」


「……え?」


セレスも、

思わずそちらを見る。


「貴様……」


「俺はいらないから、二人で決めとけ」


そう言って、

俺は手の中の槍を握り直した。


古い鉄。


荒い刃。


重い柄。


「今は、こっちがある」


「……」


マリスが、

何かを言いかけて。


やめた。


俺は、

二人が来た入口へは向かわなかった。


その横。


大木の根に隠れるように、

細い通路があった。


さっきまでは、

見えていなかった道。


いや。


槍を抜いたから、

開いたのかもしれない。


「……そっちか」


俺は、

その暗がりを見る。


術式の光は薄い。


だが、

奥から微かに気配がある。


ユーリスのものかは、

分からない。


それでも。


足は、

もう前に出ていた。


「少し待ってろ」


「エア……」


マリスの声が、

背中に届く。


俺は振り返らない。


セレスが、

掠れた声で言う。


「……戻れる保証はないぞ」


「戻るさ」


返事はなかった。


俺は、

新しい――いや、

古い槍を肩へ担ぐ。


そして。


二人が来た道とは違う通路へ、

静かに踏み込んだ。

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