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第164話:戻ってきてください


夜風が、

静かに吹いていた。


さっきまで強く掴まれていた服を、

セレスの指がゆっくり離す。


「……」


互いに、

何も言わない。


泣き止んだのかすら、

分からなかった。


ただ。


抱きしめ合っていた熱だけが、

まだ残っている。


「……」


俺は、

屋上の縁へ歩いた。


そのまま、

石床へ腰を下ろす。


背を預け、

夜空を見る。


火鳥が、

遠くを飛んでいた。


赤い尾が、

夜へ流れていく。


「……座ればいい」


ぽつりと言う。


「……」


少しだけ間が空く。


やがて、

隣で布の擦れる音がした。


セレスが、

静かに座る。


距離は近い。


だが、

触れてはいない。


「……」


風だけが流れる。


遠くで、

まだ祭りの歓声が小さく響いていた。


ここだけ、

切り離されたみたいだった。


「……先に言っておく」


不意に、

口を開く。


「これから話すことを、

 お前は多分、信じない」


セレスの視線が、

ゆっくり向く。


「……断言するのだな」


「ああ」


短く返す。


「普通なら、

 頭がおかしくなったと思う話だ」


夜風が吹く。


「それでも話すのか」


「お前には、

 話す必要がある……」


「……」


セレスは否定しない。


夢。

火。

涙。

温度。


既に、

切り捨てられる段階を越えている。


「……俺の名は、エアだ」


静かな声だった。


「今も。昔も」


セレスが、

僅かに眉を寄せる。


「……何だ、それは」


「お前らは、

 別の名で残した」


空を見る。


火鳥の赤が、

瞳へ映る。


「エンラ」


「――……」


セレスの指先が、

止まる。


「……何を、言っている」


声に、

迷いが混ざる。


「お前達が、

 勝手にそう呼ぶようになっただけだ」


淡々と続ける。


「俺は、最初からエアだ」


「……」


セレスが黙る。


胸元で組まれていた指が、

小さく強張っていた。


風が吹く。


その反応だけで、

十分だった。


「……あり得ない」


小さく漏れる。


「俺も、お前らが何を残したのか全部は知らん」


夜空を見たまま、

言う。


「ただ、勝手に積まれた」


「……」


「原初だの、絶対神だの」


小さく息を吐く。


「そんな大層なものじゃない」


夜風が吹く。


セレスは、

俯いた。


髪が、

静かに揺れる。


「……なら」


掠れた声。


「お前は……何なんだ」


「知らん」


即答だった。


「昔は、そんなこと考えもしなかった」


火鳥が、

遠くで弾ける。


赤い火が、

夜へ散った。


「生きるだけで必死だった」


静かな声。


「守るだけで、

 精一杯だった」


「……」


セレスは、

何も言わない。


ただ、

俯いたまま、

胸元で組んだ指先へ少し力を入れていた。


「……私は」


ぽつりと、

セレスが呟く。


「何を、抱きしめたんだ……」


「……分からん」


短く返す。


「俺も、俺自身を全部知らない……」


夜風が吹く。


「だが……」


視線を向ける。


セレスは、

まだこちらを見ていなかった。


「お前を放っておけなかった」


「……」


返事はない。


だが、

セレスは離れない。


遠くで、

火鳥が夜を横切る。


赤い光が、

一瞬だけ白い外套を照らした。


――ギィ……。


その時だった。


屋上へ続く扉が、

小さく鳴った。


「……エア?」


聞き慣れた声。


俺とセレスの視線が、

同時にそちらへ向く。


扉の前。


ユーリスが、

立っていた。


「……」


言葉が、

止まっている。


多分、

探しに来たのだろう。


だが。


その目は、

いつものユーリスじゃなかった。


不安。

戸惑い。


そして――


少しだけ、

怯えている。


「……ユーリス」


呼ぶ。


だが、

ユーリスはすぐ返事をしない。


代わりに、

ゆっくり視線を動かした。


俺とセレス。


その距離。


泣いた跡。


崩れた空気。


全部を見て、

理解しようとしている。


「……ご、ごめんなさい」


小さく漏れる。


「探してて……その……」


声が、

少し震えていた。


「……邪魔して、ごめんなさい」


小さな声だった。


「……いや、邪魔じゃない」


短く返す。


ユーリスは、

少しだけ安堵したように息を吐いた。


だが、

完全には戻っていない。


視線が、

まだ揺れている。


俺とセレスを、

交互に見ていた。


「……その」


言いづらそうに、

ユーリスが続ける。


「そろそろ……

 戻った方がいいかもしれません」


「……?」


「学院長が…、

 地下迷宮の資格者を先に発表するみたいで」


夜風が吹く。


「正式な張り出しは後日らしいんですけど、

 上位組とか教師達は、もう集まり始めてて……」


少しだけ、

困ったように笑う。


「エアがいないから、

 結構探されてます……」


「……そうか」


地下迷宮。


火線祭の本命。




…俺の槍。




その言葉だけで、

さっきまで遠かった現実が、

少し戻ってくる。


「……」


横を見る。


セレスは、

静かに俯いていた。


白い髪が、

夜風に揺れている。


「……セレス」


呼ぶ。


セレスは、

少し遅れて顔を上げた。


涙の跡は、

まだ薄く残っていた。


だが、

もう先ほどみたいな崩れ方はしていない。


いつもの“白”へ、

戻ろうとしている。


「……戻る」


小さく、

セレスが言う。


「……ああ、私も戻らねばならない」


その言葉は、

まるで自分へ言い聞かせるみたいだった。


立ち上がる。


石床へついた手を離す。


ユーリスも、

少し横へ避けた。


「……」


セレスが、

ゆっくり立ち上がる。


白い外套が、

夜風に揺れた。


一瞬だけ。


その指先が、

こちらへ伸びかける。


だが――

止まった。


「……」


代わりに、

セレスは静かに息を吐く。


「……エア」


低い声。


「まだ……整理できていない」


「俺もだ……」


即答する。


セレスが、

ほんの少しだけ目を閉じた。


「……そうか」


短い返答。


だが、

拒絶ではなかった。


「……」


沈黙。


遠くで、

火が弾ける。


赤い光が、

夜へ散った。


「……行く」


そう言って、

セレスは背を向ける。


白い外套が翻る。


扉へ向かう途中。


ほんの少しだけ、

足が止まった。


「……夢の続きを見たら」


小さく。


背を向けたまま、

セレスが言う。


「また……お前に話す」


「……」


返事をする前に。


セレスは、

そのまま屋上を後にした。


扉が閉まる。


静寂。


夜風だけが残る。


「……」


白い気配が、

完全に消えた。


残ったのは、

夜風の音だけだった。


「……」


ユーリスが、

小さくこちらを見る。


何かを聞きたそうに。


だが、

どう聞けばいいのか分からない。


そんな顔だった。


「……戻るか」


先に言う。


「……あ、はい」


ユーリスが、

少し遅れて頷く。


屋上を歩く。


扉を開ける。


途端に、

祭りの音が戻ってきた。


遠くの笑い声。


音楽。


足音。


さっきまでの静寂が、

嘘みたいだった。


「……」


階段を下りる。


石の階段へ、

足音が二つ響く。


ユーリスは、

ずっと黙っていた。


何度か、

こちらを見ては逸らしている。


「……何だ」


先に言う。


ユーリスの肩が、

少し跳ねた。


「……い、いえ」


誤魔化そうとする。


だが、

すぐに諦めたみたいに小さく息を吐いた。


「……その、何を話してたんですか」


静かな声だ。


ただ、

知りたがっている。


「……」


少しだけ、

考える。


どこまで言うか…。


「……俺の話だ」


「エアの……?」


「ああ」


階段を降りる。


「俺が、何なのか」


その瞬間。


ユーリスの足が、

一瞬だけ止まりかけた。


「……っ」


小さく、

息を呑む音。


「……話したんですか」


声が、

少し掠れていた。


「……ああ」


短く返す。


「全部じゃない」


だが。


「エンラの話はした。

 勝手に作られた名だと」


沈黙。


階段の下から、

祭りの光が揺れている。


「……」


ユーリスが、

何も返せない。


顔が、

少し青くなっていた。


「……ユーリス?」


「……いえ、その……」


言葉が、

上手く出てこないみたいだった。


「わ、私は……

 知ってましたけど……」


小さく言う。


「でも……

 それをセレスに話すっていうのは……」


そこで、

言葉が止まる。


白服。


中央。


正統光火教。


“絶対神エンラ”。


その中心にいるセレスへ、

その名の正体を語った。


それが、

どういう意味を持つか。


ユーリスには、

分かっているのだろう。


「もし! セレスが中央に全部報告したら!」


ユーリスの声が、

階段へ響いた。


珍しかった。


ここまで感情を露わにするのは。


「……」


ユーリスは、

息が乱れていた。


肩が上下している。


「ただの監視じゃ済まないんですよ!?

 今までみたいに、

 “危険な異端”なんて段階じゃなくなる!」


階段を一段下りる。


その勢いのまま、

こちらを振り返った。


「“神”ですよ……!?」


声が、

少し震えていた。


「中央が、何百年も、何千年も追ってるものの正体が、

 目の前にいるって知られたら……!」


「……分かっている」


静かに返す。


だが――


「分かってません!!」


ユーリスが、

珍しく遮った。


呼吸が、

少し乱れる。


「セレスは白服なんですよ!?

 しかも中央側の中核です!」


「……ああ」


「“ああ”じゃないです!!」


「……」


階段の窓から、

火鳥の赤い光が差し込む。


「もし、セレスが全部受け止めて……異端だと判断したら!」


声が、

少し掠れる。


「エアは……本当に戻れなくなるかもしれないのに……!」


「……それでも話した」


小さく言う。


ユーリスが、

唇を噛んだ。


「何でですか……!」


「隠したままには、

 できなかった」


「……っ」


ユーリスは、

唇を噛んだ。


「エアはいつもそうです……。

 自分のことになると、

 危険を軽く見る」


「軽く見てるわけじゃない」


「見てます!」


強い声だった。


階段に、

その声だけが響く。


「前に、川で槍の話をした時もそうでした。

 神器の時も。

 全部、自分の責任だって言って……」


「……」


「でも、

 エアが消えたらどうするんですか……」


ユーリスの目が、

まっすぐこちらを見る。


「残された人は、どうすればいいんですか……」


言葉が止まる。


それは、

怒りではなかった。


もっと奥。


あの日、

川の中で俺の背に触れた時と同じ。


怖さだった。


失うかもしれないものを、

見てしまった目。


「……すまん」


短く言う。


ユーリスは、

少しだけ目を伏せた。


「謝ってほしいんじゃないです……」


小さな声。


「分かってほしいんです」


「……」


「エアが決めたのなら、

 セレスに話したことが間違いだとは言いません」


ゆっくり、

息を整える。


「でも……

 それは、エア一人だけの問題じゃないんです」


階段の下から、

晩餐会の光が揺れる。


人の声。


音楽。


祭り。


その全部が、

少し遠かった。


「……あいつに」


ぽつりと、

口を開く。


「セレスに、変な感覚がある……」


ユーリスの顔が、

僅かに動いた。


「……変な?」


「ああ」


短く返す。


「俺の火が流れたせいかもしれない。

 だが、それだけじゃない気がする」


「……」


「昔、守れなかった奴がいた」


ユーリスは、

黙って聞いている。


「そいつと同じじゃない。

 姿も、声も、生き方も違う。

 だが……同じ何かがある」


ユーリスの目が、

少しだけ揺れた。


「……それって」


「分からん」


先に言う。


「本当に分からん。

 だから確かめた」


「……」


「セレスが、

 そいつだと言いたいわけじゃない」


階段に、

自分の声だけが落ちる。


「だが……

 完全に無関係だとも思えなかった」


ユーリスは、

息を呑んだ。


たぶん、

すぐに分かったのだろう。


ただの感情ではない。


ただの好意でもない。


もっと古いもの。


魂の残り火みたいな、

説明できないもの。


「……だから、話したんですか」


「ああ」


「……」


ユーリスは、

俯いた。


怒りは、

まだ消えていない。


だが、

さっきとは違う。


理解しようとしている顔だった。


「……それでも」


小さく言う。


「怖いです」


「……」


「セレスがどうこうじゃなくて……」


胸元で、

手を握る。


「エアが、

 どんどん遠い場所に行くみたいで」


「……俺はここにいる」


「今は、です」


即答だった。


「でもエアは、すぐ昔へ行く」


その言葉に、

何も返せなかった。


「神器のことも。

 エンラのことも。

 守れなかった人のことも」


ユーリスは、

顔を上げる。


「全部、今のエアを引っ張ってる」


「……」


「だから私は……

 それが怖いんです」


静かな声だった。


「セレスが怖いんじゃない。

 中央が怖いんじゃない」


瞳の奥が揺れている。


「エアが、また昔の責任だけを見て、

 今ここにいる人達を置いて行くのが怖いんです」


「……」


言葉が、

胸に残った。


その時。


――ゴォン……。


低い鐘の音が、

学院へ響いた。


続いて、

階下のざわめきが大きくなる。


資格者発表が、

始まったのだろう。


「……置いて行くつもりはない」


ようやく返す。


ユーリスは、

じっとこちらを見る。


「本当に?」


「ああ」


「……なら」


少しだけ、

声が柔らかくなる。


「ちゃんと戻ってきてください」


「……」


「地下迷宮でも。

 中央でも。

 セレスのところでも」


ゆっくり、

言葉を選ぶ。


「エアは……

 エアとして戻ってきてください」


「……努力する」


「そこは断言してください」


少しだけ、

いつもの調子が戻る。


だが目は、

まだ赤い。


「……戻る」


短く言う。


ユーリスは、

ようやく小さく息を吐いた。


「はい」


階段の下。


晩餐会の光が近づく。


音楽が、

少しずつ大きくなる。


俺達は、

並んでその光の方へ歩いた。

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