第163話:残り火
屋上へ続く扉を開ける。
夜風が、
少し強くなった。
「……」
空は暗い。
だが、
遠くではまだ火鳥が飛んでいる。
祭りの光。
歓声。
音楽。
全部、
ここまでは届かない。
「……」
その中央に、いた。
白い外套が、
風に揺れている。
背を向けたまま、
何も言わない。
こちらを見なくても、
気配で分かっていたのだろう。
呼ぶよりも早く…。
「……来たのか」
短い声。
いつものセレスだった。
冷たく、
硬い。
だが――
どこか静かすぎた。
「ノクシアから聞いた」
「……そうか」
それだけ。
会話が切れる。
風だけが吹いた。
「……」
セレスは、
屋上の縁へ視線を向けたままだった。
「一人か」
「ああ」
沈黙…それ以上続かない。
「……」
妙だった。
以前のセレスなら、
もっと早く切り込んでくる。
監視。
確認。
導き。
いつもの“白”を向けてくる。
だが今は違う。
ただ、
立っている。
「……」
セレスの指先が、
わずかに動いた。
無意識みたいに、
すぐ止まる。
「……何の用だ……」
再び、先に口を開いたのはセレスだった。
「何故来た」
「会いに来た」
セレスの肩が、
ほんの僅かに揺れた。
「……理由になっていない」
「俺も分からないことがある……それを確かめにな……」
風が吹き、
長い髪が揺れる。
セレスは答えない。
「お前もだろ?」
その瞬間。
空気が、
少しだけ張った。
「……何の話だ」
声が、
わずかに低くなる。
「お前も、分からなくなってる」
静かに言う。
「違うか?」
沈黙。
セレスの視線は、
こちらへ向かない。
だが――
否定もしない。
「……」
長い静寂。
遠くで、
歓声が上がる。
祭りはまだ終わっていない。
なのに、
ここだけ別みたいだった。
「……お前に触れられてから」
ぽつり。
セレスが口を開く。
「火が、乱れる」
「……」
「祈りの最中も…詠唱の時も。
以前なら…切り捨てられたものが残る…そして」
声は静かだった。
「……夢を見る」
「夢?」
短く聞く。
「夢の中でも、お前はいた」
風が吹く。
「……火を見ていた。
何も起きない。
ただ、それだけの夢だ」
セレスの声は静かだった。
「だが……」
わずかに、
言葉が止まる。
「気づくと、
隣にお前がいる」
「……」
「私は、本来なら距離を取るはずだ……」
低く言う。
「異物だ。
警戒すべき存在だ」
なのに、と。
その続きだけが、
言葉にならない。
「……夢の中の私は、
それをしなかった」
指先が、
小さく動く。
「触れていた」
声が、
ほんの少し掠れる。
「……温かかった」
セレスは、
自分の手を胸の前で包んでいた。
夜風が吹く。
「だから余計に、
意味が分からない……」
「……」
俺は、
言葉を返せなかった。
その夢を、
知っていたからだ。
火。
暗闇。
隣にいる誰か。
何も起きない。
ただ、
寄り添っているだけの時間。
「……」
胸の奥が、
妙にざわつく。
脳裏に浮かぶ。
遠い記憶。
火を囲んでいた夜。
疲れ切って、
何も考えずに座っていた時間。
隣へ寄ってきた、
小さな体温。
言葉もなく、
ただそこにいた存在。
…ルゥ。
「……」
あり得ない。
セレスと、
あいつは違う。
生き方も、
何もかも。
なのに――
胸の奥に残る感覚だけが、
妙に重なった。
「……エア?」
セレスの声。
はっとして、
視線を戻す。
セレスは、
こちらを見ていた。
少しだけ眉を寄せている。
「……何故、お前がそんな顔をする」
「……いや」
短く返す。
だが、
誤魔化しきれていない。
「……」
セレスの目が、
わずかに細くなる。
「……お前は、何か知っているのか?」
低い声。
警戒ではない。
確認だった。
「……」
すぐには答えられない。
俺自身、
まだ確信がなかった。
ただ――
“残り方”が似ていた。
火の前。
隣にいる感覚。
理由もなく、
離れなかった温度。
「……分からん」
ようやく、
それだけ返す。
「だが……」
視線を、
セレスへ向ける。
「お前だけのものじゃない気はする」
夜風が吹いた。
セレスの指先が、
小さく止まる。
「……何だ、それは」
「俺にも、似た記憶がある」
「……」
セレスの目が、
ほんの僅かに揺れた。
「……夢、ではないのか」
「違う」
短く返す。
「俺の……昔の記憶だ」
静寂。
遠くで、
火鳥が夜空を横切った。
赤い尾が、
一瞬だけ二人の間を照らす。
「……」
セレスは、
何も言わなかった。
ただ。
胸の前で包んでいた手を、
ほんの少しだけ強く握っていた。
「……心当たりがある」
ようやく、
それだけ言う。
セレスの視線が向く。
「何だ」
「……お前の中に、俺の火が流れた」
夜風が吹く。
「……」
「だから、その影響かもしれない」
言いながら、
自分でも確信が持てなかった。
違う気もしている。
もっと古い、
別の何かが混ざっている気もした。
「……あれか」
「ああ、言い切れるわけじゃないがな」
セレスは、
しばらく黙っていた。
「……」
胸の前で握っていた手に、
わずかに力が入る。
「……なら」
ぽつり。
「この感覚は、
お前のものなのか?」
その問いだけ、
ほんの少し掠れていた。
「……分からん」
短く返す。
「俺の火が流れたせいか……」
そう言いかけて、
言葉が止まった。
違う。
それだけなら。
俺が、
ここまで乱れる理由がない。
「……違うな」
小さく漏れる。
セレスの視線が動く。
「何がだ?」
「火だけなら…」
夜風が吹いた。
「俺が、お前にこれを感じる理由がない」
「……」
セレスの指先が、
胸元で止まる。
火。
暗闇。
冷たい夜。
腕の中の小さな体温。
「昔、守れなかった奴がいた……」
声が、
少し低くなる。
「俺が愛して…。
終わらせないと、守り続けると決めて……。
それなのに……守りきれなかった」
セレスは、
何も言わない。
ただ、
こちらを見ている。
「お前はそいつじゃない」
短く言う。
「姿も。
声も。
生き方も。
何もかも違う」
目の前のセレスを、
見つめ直した。
そこには、
槍を持っていた以前の彼女の姿はない。
どこか危うげで、
脆く見えた。
「だから……お前が俺を抱いた時の感覚……。
同じであるはずがない……なのに」
セレスの目が、
ほんの僅かに揺れた。
「……それは」
低く問う。
「私が、その者と同じだと言っているのか?」
「違う」
即答する。
「お前はお前だ」
風が吹く。
「だが……」
「……」
「これは……俺の火だけじゃない……」
セレスの手に、
わずかに力が入る。
「何故そう言える」
「感じたからだ」
短く返す。
「お前に触れられた時、
ただの他人じゃない温度があった」
静寂。
遠くの祭りの音だけが、
かすかに揺れている。
「だから、俺にも分からない……」
俺は、
セレスを見る。
「だから……確かめに来た」
そう言ってから、
自分でも少しだけ遅れて気づく。
確かめる。
何を。
火か。
記憶か。
夢か。
それとも――この温度か。
「……何をするつもりだ」
セレスの声が、
わずかに硬くなる。
だが、
引かない。
警戒している。
なのに、
逃げようとはしなかった。
「分からん」
短く返す。
「だから、
確かめる」
一歩、
近づく。
セレスの指が、
胸元で止まる。
「……エア」
制止の声。
だが、
刃にはならなかった。
俺は、
そのまま手を伸ばした。
乱暴ではなく。
慎重に。
逃げ道を塞がないように。
触れる。
肩。
白い外套。
夜風で冷えた布。
その奥にある、
体温。
「……っ」
セレスの呼吸が、
小さく詰まる。
俺は、
そのままセレスを抱きしめた。
強くはない。
押さえつけるためでもない。
ただ、
そこにある温度を確かめるみたいに。
「……」
違う。
やはり違う。
体の大きさも。
骨の形も。
呼吸も。
髪の匂いも。
何もかも違う。
腕の中のこれは、
ルゥではない。
セレスだ。
白を纏い、
槍を持ち、
火に従い、
自分を削って立ってきた女。
なのに――
奥に、
残っている。
火の前で、
離れなかった温度。
眠る時だけ、
小さく寄ってきた気配。
守れなかったものの、
残り火みたいな感覚。
「……違う」
小さく漏れる。
セレスの肩が、
僅かに震えた。
「何がだ…」
「…お前は、あいつじゃない」
「……」
「…でもっ」
言葉が、
喉で止まる。
分からない。
本当に、
分からない。
セレスは、
動かなかった。
振りほどくことも、
抱き返すこともしない。
ただ、
胸の前で握っていた手が、
ゆっくりと下りる。
そして。
ほんの僅かに、
俺の服へ触れた。
掴むでもない。
縋るでもない。
ただ、
確認するみたいに。
「温かいな…、お前は…」
セレスが、
ぽつりと落とした。
それは、
俺が最初にみていた夢の続きみたいな声だった。
「……」
俺は、
何も返せなかった。
夜風が吹く。
遠くで、
火鳥がまた空を横切った。
赤い光が、
白い外套の上を一瞬だけ照らす。
「……エア? 泣いているのか?」
セレスの声で、
少しだけ意識が戻る。
「……」
腕の力を、
わずかに緩めた。
身体が離れる。
夜風が、
二人の間を抜けた。
頬が濡れている。
だが、
それより先に――
「……」
視線が止まった。
セレスの顔。
白い頬を、
涙が流れていた。
一筋ではない。
止まらない。
静かに、
次々と溢れている。
「……」
セレスは、
まだ気づいていない。
ただ、
こちらを見ていた。
「……どうした?」
セレスが、
小さく眉を寄せる。
「何故、
そんな顔を――」
そこまで言って、
止まった。
頬へ、
指先が触れる。
濡れている。
「……」
指先を見る。
理解できないみたいに。
「……何だ、これは」
声が、
掠れる。
その瞬間だった。
胸の奥で、
何かが切れた。
「……っ」
気づけば、
もう一度セレスを抱き寄せていた。
今度は、
さっきより強く。
失わないように。
確かめるように。
「……エ、ア……」
セレスの声が、
小さく揺れる。
だが、
拒まなかった。
それどころか――
ぎゅっ――。
服を掴む。
強く。
今度は、
はっきりと。
セレスの腕が、
背中へ回った。
抱きしめ返される。
白い外套が、
くしゃりと音を立てる。
「……っ」
セレスの呼吸が、
乱れる。
肩口へ、
熱い雫が落ちた。
「……分からない」
セレスが、
掠れた声で呟く。
「何故、こんな……」
抱きしめる力が、
さらに強くなる。
「離したくないと、
思っている……」
「……」
「意味が、分からない……っ」
涙が、
止まらない。
セレス自身、
自分が泣いている理由を理解していなかった。
だが、
身体だけが知っている。
この温度を、
失いたくないと。
「……私は……お前は……これは、何なんだ……」
俺は、
何も言えなかった。
ただ、
抱き返す。
腕の中の温度を、
確かめる。
違う。
違うのに。
胸の奥の、
一番古い傷が、
この熱へ反応している。
「……ルゥ」
無意識に、
名前が漏れた。
その瞬間。
セレスの肩が、
僅かに震えた。
だが、
離れない。
代わりに、
さらに服を掴む力が強くなる。
「……それが、
その者の名か」
小さな声。
「ああ……」
「……」
セレスは、
少しだけ顔を伏せた。
「……私は、その者ではない」
「分かってる」
即答する。
「お前はセレスだ」
「……」
「でも……」
喉が、
少し震える。
静寂。
遠くで、
火鳥が空を横切る。
赤い光が、
二人を一瞬だけ照らした。
セレスは、
胸元へ顔を埋めたまま、
小さく息をした。
「……」
そして、
ぽつり。
「なら……今だけは……そのままでいい……」
声が、
涙で掠れていた。
「……セレス」
「私にも分からない……」
抱きしめる力が、
少しだけ強くなる。
「だから……
今は、離れるな……」
夜風が吹く。
だが、
二人の熱だけは、
消えなかった。




