第128話:違う
涙が、落ちた。
「……」
理解できない。
なぜ、こんなものが出る。
痛みではない。
損傷でもない。
「……違う」
小さく、呟く。
これは――
「異常だ」
即座に切り捨てる。
思考ではない。
反射。
そうでなければならない。
「……私は」
呼吸が乱れる。
胸の奥がざわつく。
だが、それを押し込める。
「私は……神の意をなぞる者だ」
言葉にする。
確認するように。
刻み込むように。
「迷いは、存在しない」
涙を、拭う。
乱暴に。
存在してはいけないものを、消すように。
「……これは」
もう一度、否定する。
「“私”ではない」
抱きしめられている感覚。
温もり。
それを――
拒絶する。
「離せ……!!」
さっきよりも、強く押し返す。
「……誤りだ」
距離が、わずかに離れる。
呼吸が乱れ、視界が揺れる。
それでも――立て直す。
「……火は、裁くものだ」
一つずつ、言葉を並べる。
自分を戻すために。
「焼き、削り、歪みを消す」
それが正しい。
それが全て。
「それ以外の火は――」
一瞬だけ、言葉が止まる。
“それ以外”。
さっき感じたもの。
あの温もり。
「ッ、違う!」
押し切る。
無理やり、
定義で塗り潰す。
「貴様のそれは……火ではない」
目を上げ、
エアを見る。
さっきと同じはずの視線。
「セレス……」
だが――わずかに……。
「黙れッ……貴様は異端だ」
言い切る。
言葉にすれば、世界は戻る。
そうでなければならない。
「貴様は! 排除対象だ!!」
わずかに残る力を拳に込め、手を振り上げた。
―――――
その瞬間。
扉が鳴った。
「今のうち、パコダが時間稼いでる……」
小さな声が二つ。
「でも……中、まだ処置中じゃ……」
ミリカとユーリス。
最悪のタイミングで入ってきた。
セレスは俺の首元に掴みかかり、拳を握っている。
「……え……」
ユーリスの声が止まる。
一瞬。
状況を理解する。
「――っ」
次の瞬間、ユーリスの隣にいたミリカが動いていた。
扉が叩きつけられる音。
迷いはなく、一直線にセレスへ。
ミリカの拳が振り抜かれる。
「待てっ……ッ」
俺は、セレスの前に出て庇った。
勢いのまま、ミリカは拳を止められず。
俺の顔に拳が当たった。
鈍い音が鳴る。
「ッ!? なんでにゃ!?」
「やめろ……」
「……なんで……」
ミリカの声が震える。
「なんでそんな奴庇うにゃ!!」
口の中が少し切れ、血が少し垂れる。
ミリカは一瞬止まる。
殴った拳が震えている。
そして、歯を食いしばった。
「なんでそんなことするにゃ……!」
視線は、セレスじゃない。
俺に向いている。
「そいつ……あんたを……!」
今度は低い。
少し抑えている。
「やめろ、今のは違う」
「……何が違うにゃ!」
ミリカは耐えきれずに叫んだ。
その後ろで、セレスは崩れた。
「っ」
「ッ、無理して立つからだ……」
セレスを支え、ベッドに寝かせる。
「っ……」
ミリカの顔が歪む。
一歩、踏み込んでくる。
「……やめろ」
「なんで……そいつに触るにゃ」
セレスは意識が薄い。
呼吸も浅い。
俺はセレスの手を握り、意識を集中して中の火の様子を見る。
「……」
暴れてはいないし、燃えてはいない。
「離せ……」
ミリカが言う。
「そいつから、離れろ……」
「無理だ」
短く返す。
「今離したら危ない」
「そんなの……!」
言いかけて、止まる。
ミリカの拳が、また震えた。
殴った手。
まだ痛むはずだ。
それでも、見ているのは自分の拳じゃない。
俺と、セレスの間。
「……なんでにゃ」
声がかすれる。
「なんで、そんな顔してるにゃ……」
「顔?」
「してるにゃ」
ミリカは、歯を食いしばる。
「そんな奴を見る顔じゃないにゃ!」
「静かにしろ」
「っ……」
セレスの呼吸が、さっきよりも不安定になった。
「ユーリス」
「は、はいっ」
「ノクシアを呼べ」
「え、でも、外は――」
「呼べ」
「……はい!」
ユーリスが慌てて扉へ走る。
ミリカは動かない。
まだ、そこに立っている。
「……あんた」
声が震えていた。
「自分が何されたか、分かってるにゃ?」
「分かってる」
「分かってないにゃ!」
叫びが返る。
「分かってたら……そんなふうにできないにゃ!」
「……」
ミリカを見る。
目が濡れている。
怒っている。
だが、それだけじゃない。
(……そうか)
これは、怒りだけじゃない。
怖いのか。
「……ミリカ」
名前を呼ぶ。
それだけで、肩が小さく揺れた。
「離れていろ」
「嫌にゃ……」
即答だった。
「今のあんた、見てられないにゃ……」
「……」
「セレスじゃない」
ミリカは、拳を握り直す。
「私は、あんたに怒ってるにゃ」
部屋が静かになる。
セレスの浅い呼吸だけが残る。
「なんで……そんな簡単にそんな奴許せるにゃ……」
言葉が落ちる。
「なんで、傷つけられても平気みたいにしてるにゃ!」
「平気ではない」
口の中に血の味がある。
痛みもある。
「でも、必要だった」
「それが嫌だって言ってるにゃ!」
ミリカが一歩近づく。
「必要なら、何されてもいいわけないにゃ!」
「……」
「違うにゃ!」
低く、はっきり。
「そんなの……違うにゃ!」
答える前に、扉が開いた。
「何よ、騒がしいわね――」
ノクシアの声が止まる。
部屋を見る。
俺。
ミリカ。
ベッドのセレス。
そして、床に落ちた血。
「……あ〜あ」
ノクシアが、目を細める。
「最悪のタイミングで入ったわね……」
「師匠……!」
ユーリスが声を上げる。
「セレスさんが……!」
「見れば分かるわ」
ノクシアはすぐにベッドへ来る。
ミリカの横を通り過ぎるとき、ちらりとこちらを見る。
「その顔、あとで見るわよ」
「問題ない」
「あ、る、の!」
それから、セレスに手をかざす。
「……この子、動いた?」
「俺のことを殴ろうとな」
「……馬鹿なの?」
誰に向けた言葉かは分からない。
セレスか。
俺か。
それとも、この場そのものか。
部屋に、また治療の気配が満ちる。
ミリカはまだ動かない。
視線だけが、刺さっている。
「……はいはい」
ノクシアが、わざとらしく手を叩いた。
「邪魔よ」
それだけだった。
空気が切れる。
「……は?」
ミリカが反応する。
ノクシアは一切見ない。
セレスの方だけ見ている。
「聞こえなかった?」
淡々と。
「治療中よ。外、出て」
「でも――」
「外」
被せる。
少しも強くないのに、押し切る声。
「ここから先は、あんた達がいる場所じゃないわ。
おまけに勝手に忍び込んで」
「す、すみません……師匠……」
ユーリスが一瞬、ミリカを見る。
迷っている。
「……ミリカ、行きましょう」
小さく呼ぶ。
だが、ミリカは動かない。
「……嫌」
低く、はっきり。
ノクシアが、少しだけ目を細める。
「そう」
一歩だけ近づく。
ミリカの前まで。
「じゃあ、あんたが責任取る?」
「……っ」
言葉が詰まる。
「この子がここで壊れたら、あんたが直すの?」
視線が逸れる。
「……できないでしょ?」
事実だけを、静かに落とす。
否定じゃない。
「なら、どきなさい」
ミリカの拳が、ゆっくりほどける。
だが――完全には下がらない。
「……」
一歩。
半歩だけ、下がる。
それでも、目は逸らさない。
「ユーリス、引っ張っていきなさい」
「は、はいっ」
ユーリスが慌ててミリカの腕を掴む。
「ちょ、何する……!」
「ごめんなさい! 師匠は怖いので今は――!」
引かれる。
ミリカの足が、止まる。
最後まで抵抗する。
「……」
そのまま、視線だけが残る。
俺を見る。
何か言いたげに。
だが――
言葉にはならない。
ノクシアが、小さく息を吐いた。
「……まったく」
手を動かす。
水が流れる。
「面倒なことしてくれるわね」
誰に向けた言葉かは分からない。
セレスか。
俺か。
あるいは――両方か。
「手、貸しなさい」
視線も向けずに言う。
「俺か!?」
「安心なさい。そこで水の属性石を持ってるだけよ」
言われた通り、石を持ったまま待機。
ノクシアは石に触れながら、水系の魔法か何かを使ってセレスの手当をしているらしい。
セレスの手から、中の火が弱まるのを感じる。
燃えていたものが、静かに沈んでいく。
消えたわけではない。
ただ、暴れる力を失っている。
「……」
石を握ったまま、セレスを見る。
呼吸は浅い。
だが、さっきよりは乱れていない。
「……よし」
ノクシアが小さく息を吐く。
「ひとまず、戻したわ」
「……助かるか?」
「助けるわよ」
即答だった。
「ただし、目を覚ました後が問題ね」
「……」
「これ、中ぐちゃぐちゃよ?
火の暴走だけじゃない。
精神側も引っ張られてる。
一体どれだけ無理したんだか……」
「そうか」
「そうか、じゃないわよ」
ようやくこちらを見る。
「で、あんたは?」
「問題ない」
「あるって言ったでしょ」
ノクシアは呆れたように目を細める。
「口、切れてるわね。頬も腫れるわよ」
「後でいい」
「……」
ノクシアは一瞬だけ黙った。
それから、またセレスへ視線を戻す。
「ほんと、面倒な子ばっかり」
水音が続く。
部屋の外は静かだった。
だが、さっきの視線はまだ残っている。
ミリカの顔。
震えた拳。
理解はできる。
だが、今は置く。
目の前の火が、まだ完全には沈んでいない。
「……」
セレスの指が、わずかに動いた。
掴む力はない。
それでも、何かを探すように。
「……まだ戻るな」
小さく言う。
聞こえているかは分からない。
「今は寝ていろ」
ノクシアが、横目で見る。
「……あんた、そういうところよ」
「何がだ」
「別に」
それ以上は言わない。
水の光が、セレスの体を覆っていく。
火が沈む。
呼吸が落ち着く。
それを見ながら、石を握り続けた。




