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第127話:知らない火


部屋の中は、静かだった。


水の流れる音と、浅い呼吸だけがある。


「……」


椅子に背を預けたまま、視線だけを動かす。


セレス。


まだ起きない。


火は見えないが、奥には残っている。

完全には消えていない。


あらかたの治療を終え、他の教師は出ていき、今はノクシアだけがここにいる。


「……」


扉が、開いた。


「……入る」


ガレスだった。


足音は重い。

まっすぐ、こちらへ来る。


「状況の確認を――」


「……帰りなさい」


ノクシアが、軽く言った。


手は止めない。


「……何?」


「見て分からない?」


少しだけ顔を上げる。


「今、手を離せないのよ」


淡々と。


「事情聴取なら、あとにしなさい」


「理解している。

 だが――」


「理解してない」


被せる。


だが、強くない。


「片方は、今ギリギリよ」


一瞬だけ、セレスを見る。


「優先順位、間違えるんじゃないわよ」


「……」


ガレスが黙る。


「……必要な確認だ」


それでも言う。

崩さない。


「そうね……」


ため息交じりに、あっさり肯定する。


「でも、今じゃない」


少しだけ肩をすくめる。


「別に逃げないでしょ?」


ちらっと俺を見た。


「逃げ場があるのか?」


ガレスが言葉を止める。


ほんの僅か、判断が揺れる。


「……お前は昔から変わらんな」


小さく吐く。


「それはそっちよ」


軽く返す。


「で? どうするの?」


完全に委ねる形。


押さない。


「……分かった」


短く言って、ガレスは引いた。


そのまま扉へ向かう。


「あとで来る……」


「好きにしなさい。

 ほら、部外者はさっさと出て行く」


興味なさそうに返し、ガレスの肩を押していく。


ガレスはたじろぎながら一瞬だけこちらを見て、そのまま出ていった。


続いて、ノクシアも外へ出る。

扉が閉まる。


静寂が戻る。


(ガレスが……あんなふうに引くのか……)


小さく思う。


ほんのわずかに、口元が緩む。


扉から視線を、セレスに向ける。

まだ眠っている。


だが――


「……」


指が、動いた。


―――――


(……熱い)


暗い。


深い。


沈んでいる。


(ここは……)


分からない。


感覚が遅れてくる。

身体がうまく動かない。


「……」


呼吸が深く吸えない。

…苦しい。


(……私は)


記憶が戻る。


火。


衝突。


光。


そして――


(……)


視界が、開く。


ぼやけている。


天井。


光。


音。


焦点が、合う。


そこに――いる。


「……貴様……」


声が、かすれる。


エア。


立っている。


生きている。


「……なぜだ」


思考ではない。


ただ、零れた。


(通したはずだ)


焼いた。


内側まで。


…貫いた。

あの火は……神の意は、この身を通し……。


(……届いたはずだ)


理解が、止まる。


あり得ない。


あっていいはずがない。


「……」


一瞬だけ、視界が揺れる。


(間違いなく……一度、通っている)


自分の体の状態。


あの時の感触。


確かに、届いていた。


それでも――


(なぜ、私は……残っている?)


消えていない。


あり得ない。


「……違う」


即座に否定する。


それは“思考”ではない。


反射だ。


「……あり得ない」


正しさは、誤らない。


通した火は、悪しき全てを消し切る。


“そういうもの”だ。


例外はない。


(例外は――許されない)


胸の奥が、ざわつく。


違和感。


歪み。


理解不能。


様々な言葉が浮かんでは消えていく。


(……なぜ)


答えが出ない。


だから――


「……うぐッ」


身体を動かす。


痛みが走る。


だが、関係ない。


「貴様を……」


言葉が、形になる。


それしかない。


それしか“許されていない”。


火はない。


それでも。


「……残っているなら」


腕を上げる。


遅い。


だが、止まらない。


「……消す」


理由ではない。


義務だ。


そのまま――


目の前の存在を消そうとする。


「……この手で」


手を伸ばす。


(火が使えないのなら……)


重い腕を、首へ。


だが、相手は動かない。


ただ、見ている。


「……」


近づいてくる。


止めない。


避けない。


そのまま、目の前まで来る。


伸ばした手。


力の入らない腕。


「……そうか」


小さく、落ちる。


そのまま――


手を取られた。


拒む力はない。


指先が、相手の首へ導かれる。


ぐ、と。


「ッ!?」


力のない指が、喉に触れる。


締まらない。


だが――確かに“そこに”。


「それが、本当に……お前なのか?」


低い声。


逃げない。


外さない。


その目が、こちらを見ている。


「なら――最後までやれ」


手を、わずかに押し込まれる。


「……っ」


力が入らない。


震えている。


「どうした」


静かな声。


「止まる理由はないはずだ」


感情がない。


ただ、事実だけが置かれる。


「お前が本当に望むのなら……」


わずかに間。


「それが……お前自身の選択ならば……」


沈黙。


指が、止まる。


震える。


「……やれ」


手は、離されない。


「だが、一つだけ……教えろ」


一言。


それだけ。


「それが“お前”なのか……セレス」


ほんのわずかに、声が落ちる。


「それとも……ただ、そう教えられただけか」


「……」


手が動かなかった……。


――その言葉が、残る。


理解はしている。


言葉の意味も、分かる。


だが……。


(答えが……ない……)


「……」


指は、喉に触れたまま。


締めればいい。


それだけだ。


(対象は、ここにある)


排除。


それで終わる。


それが正しい。


それが全てだ。


「……」


だが――


(それが、“私”……?)


その問いだけが、残る。


否定する必要もない。


迷う必要もない。


(私は、神の意をなぞる)


それで完結している。


それでいい。


それが正しい。


「……」


なのに。


(なぜ、こいつは……今、“私”を問う)


必要がない。


存在しない。


そんなものは――


最初から。


「……」


指に、力が入らない。


意志はある。


動かすべき理由もある。


だが――


(……なぜだ)


指に、力が入らない。


意志はある。


理由もある。


やるべきことは、決まっている。


(なら、なぜ――)


目の前の存在を見る。


逃げない。


抵抗しない。


そのまま、自分の手を――


首へ導いた。


「……」


理解できない。


(なぜ、こいつは……)


…殺されに来ている?。


いや、違う。


そうではない。


(……これは)


“差し出している”


(なぜ)


意味がない。


対象は排除すべきもの。


それ以上でも、それ以下でもない。


なのに――


(なぜ、“私に”)


思考が、そこで止まる。


「……」


初めて。


ほんのわずかに。


“対象”ではなく、“個”として見てしまった。


「やめろ……」


声が漏れた。


自分の声だった。


指は、まだ喉に触れている。


締めればいい。


それだけでいい。


だが――


(なぜ……)


添えられた手に……あの時の火が、残っている。


白く焼く火ではない。


肉を裂く熱でもない。


痛みではなかった。


深く、静かで、柔らかく――




…暖かかった。




「……何だ」


声が震える。


怒りではない。


恐れでもない。


理解できない。


「貴様は……何をした」


指先が、わずかに震える。


「なぜ……」


目の前の男は逃げない。


抵抗もしない。


ただ、こちらを見ている。


識別の対象を見ている目ではない。


敵を見る目でもない。


裁く目でもない。


「なぜ、そんな目で私を見る……」


喉に触れていた指が、動かない。


「私は……貴様を滅ぼそうとした……」


言葉が落ちる。


「貴様を異端と断じた……」


それなのに。


目の前の男は、命を差し出すようにそこにいる。


まるで――私のために。


「……何故だ」


理解できない。


理解してはいけない。


そんなものは、教えの中にない。


「それは……何だ」


声が、低くなる。


「その火は……何だ」


指が、喉からわずかに離れる。


だが、手は離されない。


相手の手が、まだ支えている。


逃がさないように。


壊れないように。


「……」


エアは、静かに見ていた。


そして……。


不意に…。


温もりが……あった。


「怖がらなくていい……」


「なに……を……」


言い切る前に、腕を引かれていた。


抵抗する力はない。


だが、拒もうとはした。


そのはずだった。


「……っ」


胸に、触れている。


熱。


違う。


焼く熱ではない。


削る火でもない。


そこにあったのは、あの温もりだった。


「……」


息が止まる。


何をされているのか、分からない。


抱きしめられている。


そう理解するまでに、少し時間がかかった。


「離、せ……」


声は出た。


だが、力がない。


押し返す手も、動かない。


あの火が、体を通して触れている。


痛くない。


押し潰してこない。


命じてこない。


裁かない。


ただ……包んでいる。


守るように……。


「……何だ……これは……」


声が崩れる。


理解できない。


そんなものは、教えの中にない。


火は裁くもの。


火は焼くもの。


火は正しさを示すもの。


なのに――


「お前は……ここにいる……」


「っ」


目の奥が、熱くなった。


違う。


これは違う。


痛みではない。


火傷でもない。


「……なぜ……」


頬を、何かが伝った。


一つ。


それが落ちて、初めて気づく。


涙だった。


「……」


自分でも、信じられなかった。


なぜ、泣いている。


何に対して。


何を失った。


何を見た。


分からない。


分からないまま、涙だけがこぼれる。


「私は……」


声が震える。


「私、は……」


その先が、出ない。


目の前の男の胸に、額が触れている。


逃げようと思えば、逃げられるはずだった。


殺そうと思えば、殺すべきだった。


だが――


手は動かない。


火が、静かにそこにある。


優しく。


あり得ないほど、優しく。


「……こんなもの……」


小さく漏れる。


「私は……知らない……」


その声は、祈りではなかった。


命令でもなかった。


初めて、ただの声だった。

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