第121話:逃げろ
「……逃げろ」
その言葉の意味を、問い返そうとした。
「それは、どういう――」
言い切る前に、
「――これは、どういう事だ?」
横から声が割り込む。
空気が変わる。
「……」
視線を動かす。
本棚の奥。
通路の影。
そこに――立っていた。
「レイヴァルト……」
白服。
変わらない表情。
だが、目だけが違う。
冷えている。
完全に。
「……カイナ、貴様」
名前を呼ぶ。
低く。
感情は乗っていない。
カイナは動かない。
視線も逸らさない。
「……何のつもりだ?」
短く問う。
返答はない。
「対象への接触は許可していない」
一歩、近づく。
靴音が響く。
静かな図書塔の中で、その音だけがやけに重い。
「貴様の任務において、独断での干渉は規律違反だ」
さらに一歩。
距離が詰まる。
「……加えて」
わずかに間。
「先ほどの発言」
視線が鋭くなる。
「“逃げろ”――」
その一言を、そのままなぞる。
「これは、何を意味する?」
完全に断定だった。
疑っているのではない。
――分かっていて、確認している。
「……」
カイナは答えない。
沈黙。
だが、それが答えだった。
「……やはりか」
小さく息を吐く。
失望でも、驚きでもない。
確認が取れた、というだけの反応。
「以前から感じていたが……」
視線が細くなる。
「貴様は、中央の人間として“歪み”がある」
「……歪み?」
ユーリスが小さく反応する。
レイヴァルトは視線すら向けない。
「他種族に対する認識が甘い」
淡々と続ける。
「不要な同情、無意味な中立」
「そ、それは――」
ユーリスが言いかける。
「混ざり者、発言は控えろ。
我ら中央の問題だ」
即座に遮られる。
冷たい。
完全に、切り捨てる声。
「……」
ユーリスが言葉を止める。
ミリカも黙ったまま、わずかに前に出る。
「……」
レイヴァルトの視線が、一瞬だけこちらに向く。
そして戻る。
「今回の件により、確定した」
静かに告げる。
「対象への警告」
さらに一拍。
「規律の逸脱」
そして――
「――裁定対象だ」
空気が落ちる。
重く。
はっきりと。
「……」
カイナは、動かない。
否定も、弁明もない。
「……同行しろ」
レイヴァルトが言う。
命令だった。
「抵抗は推奨しない」
淡々と。
当たり前のように。
その場を支配する声。
「……」
カイナはわずかに目を閉じる。
一瞬だけ。
だが――
開いた時には、すでに決まっていた。
「……了解」
その返答が落ちた瞬間、俺は前に出る。
「待て」
空気が止まる。
レイヴァルトの足も、わずかに止まる。
「……」
視線だけがこちらに向く。
カイナも、止まる。
「……何のつもりだ」
レイヴァルトが問う。
低く。
警戒ではない。
確認でもない。
――排除対象を見る目だった。
「それはこっちのセリフだ」
短く返す。
「裁定だと? 何もしていないそいつをか?」
一瞬の間。
レイヴァルトは表情を変えない。
「規律違反の事実を確認した。
貴様には関係ない事だ」
一切の揺れがない。
「中央において規律は絶対だ。
例外はない」
「……そうか」
小さく返す。
納得ではない。
ただ、確認しただけだ。
「なら――」
一歩、踏み出す。
その瞬間。
「……やめろ」
横からカイナが割り込む。
「カイナ……」
足が止まる。
「……エア」
名前を呼ぶ。
静かに。
だが、はっきりと止めに来ている。
「これは、お前が入る話じゃない」
「入ってるだろ」
俺は譲らない。
「最初からな」
「……」
カイナは一瞬だけ言葉を止める。
それでも――続ける。
「……違う」
小さく首を振る。
「これは、中央の問題だ」
「だからどうした」
カイナの視線がわずかに揺れる。
ほんの一瞬。
だが――
すぐに戻る。
「……ここで動けば」
言葉を区切る。
「お前は完全に巻き込まれることになる……」
「もう巻き込まれてる」
「違う」
被せる。
少しだけ強く。
珍しいくらいに。
「……今なら、まだ切り離せる」
静かに言う。
「だから……」
そこで言葉を止める。
命令じゃない。
だが、それに近い強さだった。
「……」
何も返さない。
カイナもそれ以上言わない。
それで十分だと言っている顔だった。
「……行くぞ」
レイヴァルトが言う。
それで決まりだった。
カイナが歩き出す。
すれ違う。
横を通る瞬間――
ほんのわずかにだけ、声が落ちる。
「せめて……無駄にするな」
それだけ。
足は止まらない。
そのまま、去っていく。
レイヴァルトも続く。
足音が遠ざかる。
静寂が戻る。
だが――
さっきまでとは、違う。
「……」
ユーリスが何も言えずに立っている。
ミリカも黙ったまま。
俺は、動かない。
(……逃げろ、か)
小さく息を吐く。
「……」
図書塔の空気は変わらない。
だが、状況だけが完全に変わっていた。
―――――
それから図書塔を出る。
扉が閉まる音。
足は止まらない。
そのまま進む。
少し早い。
「……」
石畳を踏む。
一定のリズム。
(……逃げろ、か)
頭の中で、繰り返す。
意味は分かる。
理由も、見えている。
だからこそ――止まらない。
「エア!」
背後から声。
ユーリスだ。
足音が近づくが、構わず進む。
「待ってください!」
距離が詰まり、腕を掴まれる。
「離れろ、ついてくるな」
そのまま引いたまま歩く。
「……エア!」
少し強く引かれる。
それでも――
止まらない。
「ダメです!!」
ユーリスの息が乱れる。
だが、離さない。
「どこに行くつもりですか!?」
「……寮だ」
短く返す。
「そのあとです!」
食い下がる。
「どうするつもりなんですか!?」
「……」
答えない。
そのまま進む。
「エア!」
今度は声が揺れる。
「さっきの……見ましたよね!?」
「見た」
「なら――!」
言葉が詰まる。
だが、それでも続ける。
「なら、分かってるはずです……!」
「ああ。だから……来るな」
それだけ。
「……!」
ユーリスが言葉を失う。
分かっていて止まらない。
それが一番、止めにくいのを理解している。
「……危ないです」
小さく言う。
「そうだな」
「だったら――!」
「だからだ」
被せる。
足は止めない。
「……っ」
ユーリスの手に力が入る。
「無茶です……!」
「そうかもな」
「そうかもじゃないです!」
そのとき。
「エア、待つ!」
もう一つの声。
ミリカだ。
「飯、行く……!」
「行かない」
ミリカは一瞬だけ止まり、そのまま離れる。
「……」
そうしているうちに、寮についた。
扉を開けて部屋に入る。
そして一直線に……立てかけられた槍を取る。
―――――
歩く。
足音が揃う。
左右に他の中央の人間。
逃げ場はない。
「……」
視線は前。
振り返らない。
(……歪み、か)
頭の中で、レイヴァルトの言葉が残る。
歪んでいるのは、どちらだ。
ふと、思い出す。
まだ小さかった頃。
礼拝堂の裏口。
雨の匂い。
そこで震えていた、人間ではない子ども。
シスターは見つけた。
見つけて――足を止めた。
優しい人だった。
本当に。
倒れた人間には手を差し伸べ、泣く子には祈りを与えた。
俺も、その姿に憧れた。
だが――
あの時のシスターは、その子を見て、ほんのわずかに目を伏せた。
「……ここには入れません」
静かな声だった。
拒絶ではない。
怒りでもない。
だが、そこに“優しさ”はなかった。
代わりに、教えられた言葉があった。
火を継ぐのは人間だけ。
正しき導きは、人のためにある。
「……」
あの時、初めて思った。
違う、と。
シスターを嫌ったわけじゃない。
感謝もしている。
今でも。
だが、俺が欲しかった優しさは、あれとは少し違った。
「……」
足音は止まらない。
連行は続く。
(……だからか)
中央の中で、自分だけが妙に浮いて見える理由。
それが“歪み”だと言うのなら、最初からそうだったのだろう。
「……」
視線は前。
逃げ場はない。
だが――何故か、まだ頭に残っている。
(……来るな)
小さく、思う。
それが願いか、諦めかも分からないまま、カイナは前だけを見て歩き続けた。




