第110話:夜の報告と猫の失言
夜の空気が、
少しだけ冷えていた。
俺はミリカを抱えたまま、
歩く。
足音が二つ。
後ろに、
ユーリス。
しばらく、
誰も喋らない。
「……エア」
小さく、声。
「なんだ」
「さっきの相手なんですが、何か分かりましたか?」
ユーリスの声は、まだ少し固い。
俺は前を見たまま答える。
「あいつは……火を使っていた」
「……はい」
そこまでは予想していたのか、
頷く。
「だが……詠唱はしていない」
足音が、
わずかに乱れる。
「……え?」
ユーリスが止まりかける。
「詠唱……なし、ですか……?」
「あぁ」
短く返す。
「俺と同じに見えたが、
俺ほど扱えてるわけではない妙な感覚だった」
空気が、少しだけ変わる。
ユーリスの呼吸が浅くなる。
「……それは……」
言葉が出ない。
俺は続ける。
「それと、杖もなかった」
「……?」
「槍を使っていた」
完全に足が止まる。
「……槍……?」
理解が追いついていない。
「魔術師が……ですか?」
「あぁ」
振り返らずに言う。
「杖じゃなく、槍だ」
しばらく、
音が消える。
ユーリスが考えている。
組み合わせている。
知識を引き出している。
やがて。
「……それ……」
小さく、呟く。
「“聖杭槍杖”(せいこうそうじょう)……かもしれません」
俺は歩いたまま、
視線だけ少し落とす。
「なんだそれは?」
ユーリスは少しだけ迷う。
「……私も、詳しくは知りません」
正直な答えだった。
「中央の教会が使う武装と役職の名前です」
間。
言葉を選ぶ。
「槍と杖を一体化させたような……」
「……」
「戦闘に特化した、執行用の魔装具……と」
足音が、また揃う。
「それを持つ人間は、
普通の白服ではない……と聞いたことがあります」
沈黙。
「……どの程度かは、分かりませんが」
少しだけ視線を落とす。
「少なくとも……
調査や監視ではなく」
小さく息を吐く。
「“処理”の側です」
夜が、静かに広がる。
俺は少しだけ考える。
「……中央か」
短く言う。
ユーリスはすぐには答えない。
「可能性は……あります」
だが。
「ただ……」
言いかけた、その時だった。
「……あったかい……にゃ〜……」
小さな声。
腕の中。
俺は視線を落とす。
ユーリスも、
はっと息を止める。
ミリカの指が、
わずかに動いた。
「ミリカ?」
まぶたが、
ゆっくりと揺れる。
「……っ」
小さく息を吸う。
そして。
「エア……にゃ?」
焦点の合わない目で、
こちらを見る。
「……あれ……なんで……に」
言いかけて――止まる。
「ッ!?」
ほんの一瞬。
口を押さえる。
自分で。
沈黙。
ユーリスが目を瞬かせる。
俺は何も言わない。
ミリカは一瞬だけ固まってから、
ゆっくりと視線を逸らした。
「……起きたか」
それだけ言う。
「……うん……」
少しだけ気まずそうに、
小さく頷く。
「……大丈夫か」
「……だいじょ……」
言いかけて、
また止まる。
一瞬だけ迷ってから。
「……大丈夫」
言い直す。
ユーリスが、ほっと息を吐く。
「ミリカ! よかったです……」
その声に、
ミリカは少しだけ目を細める。
「……ユーリスも?……なんで……」
まだ完全には覚醒していない声。
「……ここ……どこ……?」
俺は短く答える。
「旧実技棟の外だ」
歩いたまま言う。
「覚えてるか?」
「……途中まで……」
小さく頷く。
「マリスと話した後……、意識がなくなった……?」
そこで言葉が途切れる。
ユーリスが、少しだけ顔を曇らせる。
「……無理に思い出さなくて大丈夫です」
静かに言う。
ミリカは、少しだけ考えてから。
「うん……」
力なく頷く。
そのまま、
俺の腕の中で少しだけ体を預け直す。
さっきより、
力が抜けている。
夜の空気が、
ゆっくりと流れる。
「まぁ、無事で何よりだ……にゃ?」
一瞬、時間が止まった。
いや、
ミリカの呼吸が、
完全に止まった。
「……は?」
ゆっくりと。
信じられないものを見る目で、
こちらを見上げる。
「……今……」
声が震えている。
「……言ってた……?」
沈黙。
ユーリスがきょとんとする。
「え?」
俺はそのまま歩く。
「何がだ……にゃ?」
「――――ッ!!」
一気に顔が赤くなる。
耳まで。
「ちょっ……待っ……」
言葉が崩れる。
「今のは違っ……違くて……っ」
完全に崩れている。
いつものミリカじゃない。
「今のはその……! 違うにゃ!
ッ!? じゃなくて……!」
止まる。
自分で言って、
さらに止まる。
「……あ」
理解した。
やらかしたことを。
「…………」
数秒。
沈黙。
そして――
「いにゃぁあああああああああああ!!!」
爆発した。
腕の中で暴れる。
「わ、忘れろ!! 今の忘れろにゃ!! いや、忘れろ!!」
「無理だな」
「無理じゃないにゃ!!」
バタバタと暴れる。
降りようとして失敗する。
「降ろせ!!」
「無理だ」
「なんで!!」
「まだふらついてる」
「ふらついてない!!」
言いながら、腕から落ちかけ一瞬バランスを崩す。
「ほらな」
「ぐっ……!!」
悔しそうに顔を歪める。
ユーリスが慌てる。
「ミリカ、大丈夫ですか!?」
「大丈夫じゃない!!」
即答。
「最悪だにゃ……」
「まだ言ってるぞ」
「言ってない!!」
即座に否定。
「……っ」
そして。
静かになる。
数秒。
「……殺す」
ぼそり。
低い声。
ユーリスが固まる。
「え?」
「オルド達に教えたら……殺す……」
小さく続ける。
「絶対に殺す……」
「殺すな」
「言わなければいい」
即答だった。
そのまま、
顔を隠すように俯く。
だが――
肩はまだ震えている。
夜の空気が、
さっきより少しだけ騒がしくなった。
―――――
夜の空気が、
少しだけ落ち着いていく。
ミリカは、
まだ腕の中で俯いたまま。
時折、
小さく肩が動く。
「……まだ怒ってるか」
「怒ってない……」
即答。
「怒ってるな」
「怒ってないにゃ! ッ!?」
少しだけ強くなる。
「……覚えてろ」
ぼそり。
「覚えておく」
「それ絶対、違う意味でにゃいか!?」
「言ってるぞ」
「ッ、言ってない!!」
すぐに返ってくる。
ユーリスが、
小さく笑いを堪えている。
そのまま、
校舎の明かりが見えてくる。
「とりあえず……報告に行きますか?」
ユーリスが少しだけ真面目な声に戻る。
「ああ」
短く返す。
―――――
教員棟。
夜でも明かりは消えていない。
扉を叩く。
「入れ」
低い声。
ガレスだった。
中に入る。
ミリカを抱えたまま。
ガレスの視線が一瞬だけ動く。
「……無事か」
「あぁ、見つけた。問題ない」
短く答える。
ユーリスが続ける。
「襲撃を受けました」
ガレスの目が細くなる。
「詳細は」
俺が口を開く。
「火属性。
詠唱なし。
槍を使用」
淡々と要点をまとめる。
「仮面を着けていた。
性別も不明だが、小柄。
……中央寄りの可能性。
分かるのはこれぐらいだ」
ガレスの視線がわずかに揺れる。
「……槍か」
短く呟く。
それ以上は言わない。
考えている。
「被害は?」
「なしだ」
「そうか」
それだけで終わる。
余計な言葉はない。
ガレスは一度だけミリカを見る。
「……部屋に戻せ。
後はこちらで調査する」
「ああ」
それだけ言って、
踵を返す。
―――――
寮。
廊下は静かだ。
ユーリスが先に扉を開ける。
「ここです」
中へ入る。
ベッドにミリカを下ろす。
少しだけ名残がある動き。
手を離す。
ミリカはそのまま寝転びながら、
天井を見ている。
少しだけ間。
「……ありがと」
小さく。
ぼそりと。
聞こえるかどうかの声。
「聞こえないな」
「聞こえてる……」
少しだけ顔をしかめる。
「……ありがとう!」
今度は、少しだけはっきり。
ユーリスが微笑む。
「ゆっくり休んでくださいね」
「うん……」
ミリカは目を閉じる。
だが――
完全には眠っていない。
俺は一度だけ見る。
それから背を向ける。
「行くぞ」
「はい」
扉を閉める。
静かな音。
廊下に出る。
夜はまだ続いている。
さっきのことも、
まだ、終わってはいない。
旧実技棟で消えた気配。
詠唱のない火。
槍。
どれも、まだ手の中にない。
「……ユーリス」
「はい」
「俺は明日、もう少し中央の連中を調べる」
ユーリスは一瞬だけ目を見開いて、
すぐに頷いた。
「……はい」
廊下の先は暗い。
学院は静かなまま。
だがその静けさが、
今は少しだけ違って見えた。




