第109話:旧実技棟の仮面
旧実技棟。
人の気配はない。
灯りも、ほとんど届かない。
扉の前に立つ。
古い木。
歪んだ蝶番。
閉じているが、隙間がある。
中は暗い。
暗闇の底が見えない。
手をかける。
冷たい。
動かないわけではない。
押せば開く。
「……」
一瞬だけ、
止まる。
静かすぎる。
まるで、
ここだけが学院から切り離されているみたいだった。
それでも。
躊躇はない。
――呼ばれているなら、
行くだけだ。
俺はそのまま、
扉に力をかけた。
―――――
扉が閉まる音が、
まだ耳に残っている。
ユーリスは動けなかった。
部屋の中。
何も変わっていないはずなのに、
空気だけが違う。
静かすぎる。
「……」
さっきの言葉が、
頭の中に残る。
『一人のほうが本領だ』
否定はできなかった。
実際に、
そうだと思う。
あの人は、
一人で戦うほうが強い。
迷いも、
無駄も、
なくなる。
だから。
「……」
それでも。
胸の奥が、
引っかかる。
隣に立てない。
その事実が、
重い。
(自分は……)
何もできない。
足手まといにしかならない。
冒険者の時でさえ、補助をしてくれた。
学院に来てからも、結局それは変わっていない……。
分かっている。
分かっているのに。
「……っ」
歯を食いしばる。
悔しさが、
遅れてくる。
「……大丈夫です」
小さく呟く。
「エアは……大丈夫です」
あの人は違う。
普通じゃない。
最初に会った時から、
ずっと。
戦いも。
判断も。
在り方も。
だって――
「……神話の神様ですから」
だから負けない。
そう、
思う。
思おうとする。
「……」
でも。
その考えが、
途中で止まる。
もし。
相手が、
それを分かっていたら?
あの人が、
どれだけ強いか。
どれだけ危険か。
それを理解した上で。
「……だから」
わざわざ、
一人で来させたんじゃ……?
息が止まる。
胸の奥が、
冷える。
(違う、エアが原初なのを知っているのは……)
いや、“違わない”。
エアは渡りの風に入る前から追われていた。
つまり……あり得る。
そういう相手なら。
「……っ」
ユーリスは顔を上げた。
考えるより先に、
体が動く。
椅子が倒れる。
扉へ向かう。
手をかける。
止まらない。
「……待っててください」
誰に向けたかも分からないまま。
鍵を外す。
扉を開ける。
夜の空気が流れ込む。
そのまま、
外へ飛び出した。
―――――
地下区画。
広い空間。
崩れた刻印。
古い柱。
使われていない演習場。
静かだ。
「……」
俺は足を止めた。
視線を前へ向ける。
(いた……)
一人……、他に隠れている気配はない。
仮面で顔は見えないが、槍を持っている。
その背後。
「……ミリカ」
倒れている。
動かない。
呼吸はあるようだ。
だが、意識はない。
「……」
一歩、踏み出す。
仮面は動かない。
こちらを見ている。
感情がよめない……。
殺気も、薄い。
空気が、歪んでいる。
「……お前がやったのか?」
問いかける。
返答はない。
仮面が、
ゆっくりと槍を構える。
その動きで、分かる。
「……そうか」
それで十分だった。
次にはもう、距離を詰めていた。
一歩、素早く踏み出す。
だが、次の瞬間。
火が走った。
(詠唱がない?……槍に仕込んであるのか……。
この部屋自体の仕掛けか……、……まぁいい)
床を舐めるように、
一直線に燃え上がる。
反応は速いな。
だが。
「遅いな」
踏み込む。
炎の上を抜ける。
槍を振る。
――弾かれた。
「ッ!?」
妙な手応えだ。
仮面の持っている槍は鉄にはみえない、よく分からない質感だ。
しかも……かなり硬い。
あれは……ただの武器じゃない。
「このままおとなしく退け、と言っても無駄か?」
仮面が滑るように後退する。
「退くか?」
いや違う、撤退ではない。
仮面は間合いを切る。
同時に。
再び火。
今度は上。
振り下ろすように、
炎が落ちる。
俺は半歩ずらす。
かすめる。
焼けない。
「……俺みたいだな」
小さく呟く。
仮面の火は俺には効かない。
だが、避ける。
無駄に受ける理由もない。
「……」
槍を握り直す。
視線は、
仮面の動きに向けたまま。
観察する。
炎の質が違う。
今まで見てきたやつのどれとも違う……。
ただ燃える火じゃない、
まるで削るような火だ。
「……」
もう一度、踏み込む。
速く。
一直線に距離を詰める。
仮面も動く。
迎え撃つ形。
槍が交差する。
重い音。
火が散る。
「……軽いな」
手応えが、
浅い。
力はある。
技もある。
だが――
乗っていない。
「槍で押すなら……こうだ」
「……ッ!?」
踏み込みを一段深くする。
体重を乗せる。
押し込む。
仮面の足が、
わずかに滑る。
そのまま簡単に押し切れる。
そう思った瞬間――
仮面が、
すっと力を抜いた。
受けるのをやめる。
滑るように後ろへ退く。
距離を取る。
「……」
俺は追わない。
槍を構えたまま、
相手を見る。
まだ余力がある。
いや、
最初から出し切っていない。
「……手を抜いてるな」
小さく言う。
返事はない。
だが、
仮面の構えがわずかに変わる。
「測ってるだけか?」
一歩、踏み出す。
「そんなものに付き合う気はない」
槍を向ける。
「やるなら、さっさと本気で来い」
空気が、
一瞬だけ張る。
仮面は答えない。
ただ、
槍を引いた。
低く。
鋭く。
構えが変わる。
「……」
来る。
そう思った瞬間――
違う。
向きがずれた。
仮面の切っ先は、
俺ではなく。
「っ――」
ミリカへ向いていた。
次の瞬間。
火が走る。
一直線。
躊躇のない、
鋭い火だ。
「……チッ」
考えるより先に、
体が動く。
床を蹴る。
間に入る。
左手を振る。
俺の火が、
横から噛みつくように走った。
二つの火がぶつかる。
炸裂はしない。
噛み合い、
削り合い、
そのまま空中でほどけるように消える。
熱だけが残る――
はずだった。
消えていない。
何かが、
まだそこにある。
揺れている。
「火は……俺に従う」
仮面を睨みつける。
「そこまでして俺を測りたいのか……?」
空気が。
目には見えないはずなのに、
歪みだけが分かる。
「大人しく……」
声を落とす。
「俺に的を絞るべきだったな」
一歩、踏み出す。
遅れて、
音が鳴る。
足が着いたあとで、
石が軋む。
踏み込んだ位置から、
色が変わる。
赤。
だが、
燃えてはいない。
表面が、
内側から滲むように染まる。
右手に、
火を出す。
揺れない。
そのまま、
消えない。
ただ、
そこにある。
腕へ広げる。
火が輪郭に沿うように、
腕の外に、肩に、
どんどんと大きくなる。
「貴様……悪ふざけが過ぎたな」
もう一歩。
空気が、
切れる。
音が、
あとから追いつく。
仮面が動く。
足が、
わずかに滑る。
踏み直す。
位置がずれる。
槍を構え直す。
「お前はもう……測る側じゃない」
距離を詰める。
足元の石が、
沈む。
割れない。
砕けない。
形だけが、
わずかに変わる。
「測られる側だ」
炎と熱が、完全に仮面を追い込む。
逃げ場はない。
その瞬間――
「エア!!」
声がした瞬間。
熱が一つの方向に逃げていく。
視線が動いた。
ほんの一瞬。
「ユーリスッ、来るな!」
意識が外に向いた。
その隙を仮面は見逃さなかった。
瞬時に動いた。
滑るように後退。
柱の影へ。
気配が、
途切れる。
「……っ」
火を追わせたが。
届かない。
影が炎の光に切り裂かれる。
だがそこにはもういない。
消えた。
残ったのは――
色の抜けた石と、
倒れたままのミリカ。
「……」
火を止める。
全身をほとんど覆っていた火が弱まり、最後に手から消える。
跡は残らない。
最初から、
何もなかったみたいに。
「……逃がしたか」
足音が近づく。
速い。
止まらない。
「エア! 無事ですか?!」
「あぁ……」
ユーリスが駆け込んでくる。
呼吸が荒い。
周囲を見る。
崩れた空間。
色の抜けた石。
残った熱の気配。
そして――
「……ミリカっ!」
すぐに駆け寄る。
膝をつく。
「ミリカ……ミリカ、聞こえますか!?」
ユーリスがゆするが反応はない。
「……息はある、生きてる」
小さく、息を吐く。
力が抜ける。
「よかった……」
そのまま、
しばらく動かない。
やがて。
「……すみません」
小さな声だった。
俺は視線だけ向ける。
ユーリスはミリカの手を握ったまま、
俯いている。
「来るなって、言われたのに……」
少しだけ間。
「私が来たせいで……逃がしました」
沈黙。
俺は少しだけ息を吐く。
「……違うな。見ろ」
ユーリスが顔を上げる。
視線の先に柱。
だが、その柱の裏に穴が掘られていた。
「あいつは最初から、逃げ道まで用意していた」
それだけ言う。
「お前が来なくても、逃げられただろうな」
「でも……」
「来たのはお前の判断だ」
被せる。
「それ自体を責める気はない」
ユーリスはすぐには返せない。
唇を引き結んだまま、
またミリカを見る。
「……それでも、すみません」
今度は、
さっきより小さかった。
俺は少しだけ黙る。
それから。
「次は、呼ぶまで来るな」
そう言って、
ミリカへ視線を戻した。
ユーリスは一瞬だけ目を丸くして、
それから小さく頷く。
「……はい」
小さな返事だけが、
地下に落ちた。
俺はしゃがみ、
ミリカを抱き上げる。
「猫系だからなのか、軽いな……」
眠っているだけのはずなのに、
妙に静かだった。
ユーリスは何も言わず、
その隣に立つ。
旧実技棟の地下は、
また元の静けさに戻っていた。
だが――
さっきまで何もなかったはずの場所に、
確かに“何か”だけが残っている。
俺は一度だけ、
仮面が消えた柱の影を見る。
「……次は逃がさん」
それだけ言って、
俺達は地下を後にした。




