第105話:抱え込ませない声
その日、俺は一人で動いた。
意図的にだ。
授業の合間も、
移動も、
休憩も。
あえて誰とも組まない。
ユーリス達とも距離を置く。
(……来るなら、ここだ)
昨日の気配。
あれが本当に存在するなら、
一人でいる今を狙うはずだ。
廊下を歩く。
人の流れに紛れない。
わざと、目立つように。
曲がる。
止まる。
振り返る。
「……」
いない。
気配もない。
視線すら――感じない。
(……消えた?)
いや、違う。
あれはそんな簡単に消える類じゃない。
あんな気配の消し方をしてまで、探っていた。
(狙いは俺じゃないのか……?)
あの時はノクシアの研究を手伝っていた。
「俺ではない?……」
(ノクシアに知らせておくべきか……。いや……)
必要ない。
あれは一人で十分に身を守れる。
俺よりも立ち回りもうまくやれそうだしな。
――その後。
授業中も同じだった。
意識を外に向け続けても、
何も引っかからない。
一定だった距離も、
あの違和感も。
完全に、消えている。
だがあれは、
“逃げる側”の動きじゃない。
むしろ――
あるとすれば。
(……観察か)
一度引いて、
様子を見る。
「……面倒な真似をする」
ぽつりと落とす。
それでも、
一日中動いた。
屋上。
裏庭。
人の少ない廊下。
階段の踊り場。
どこに行っても――
何もない。
「……」
結局、
一度も現れなかった。
日が沈む。
校舎の影が伸びる。
人の数も減っていく。
(……今日は、来ないか)
小さく息を吐く。
完全に消えたわけじゃない。
だが、
今は動いていない。
それだけは分かった。
「……帰るか」
短く言って、
寮へ向かう。
―――――
夜。
廊下は静かだった。
足音だけが、
やけに響く。
部屋の前で止まる。
扉を開ける。
中は、いつも通りだ。
何も変わらない。
「……」
扉を閉める。
一歩、入る。
「……」
静かだ。
視線を巡らせる。
机。
窓。
ベッド。
何も変化はない。
「はぁ……」
今日は一日、
張り詰めすぎていた。
その反動だろう。
小さく息を吐く。
その時。
――コンコン。
扉が叩かれる。
「……」
一瞬、止まる。
この時間に来る相手は、
ほぼ決まっている。
だが念のため、久々に槍を握る。
扉へ向かう。
開ける。
「……ユーリスか?」
そこにいたのは、
予想通りだった。
ユーリスが、少しだけほっとした顔をする。
「よかった……部屋に戻ってたんですね」
「何か用か?」
槍を扉の反対に立てかけて開く。
ユーリスは少しだけ迷ってから言う。
「……今日、一人で動いてましたよね」
「あぁ」
「その……大丈夫ですか?」
言葉を選びながら、
慎重に聞いてくる。
「問題ない」
即答する。
「でも……」
ユーリスの視線が、
わずかに揺れる。
「なんだか、少し……」
そこで言葉を止める。
「……変、というか」
「何がだ?」
ユーリスは少しだけ言い淀む。
「……さっき、ここに来る途中で」
視線が廊下の方へ向く。
「誰かに見られてるような感じがして……」
「……」
空気が、わずかに変わる。
ユーリスは気づいていない。
だが、
その言葉は――軽くない。
「気のせいかもしれませんけど……」
不安げに笑う。
俺は少しだけ目を細める。
俺には感じない。
だが、
ユーリスは感じている。
それはつまり――
(……対象を変えたか)
思考が一瞬で切り替わる。
「ユーリス……」
呼ぶ。
「はい?」
「今日は部屋から出るな」
「え?」
「いいからだ」
有無を言わせずにそう告げる。
「ど、どうしてですか?」
不安げな顔でユーリスは俺を見る。
どう言えばいいものか……。
下手に言えばこいつの場合、余計不安になるだろうし……。
「無理なら、俺と居ろ」
自分で言ってから、
ほんのわずかに間が空く。
ユーリスの動きが止まる。
「……え?」
一瞬、理解が追いついていない顔。
それから――
「えっ!? えぇええええっ!?」
一気に顔が赤くなる。
視線が泳ぐ。
言葉が崩れる。
「あ、違う、その……違くないが。
まぁ……落ち着け」
「む、無理です……!」
完全に混乱している。
「……」
俺は少しだけ眉を寄せた。
言った意味は単純だ。
一人にしないため。
それだけだ。
だが――
「……はぁ」
小さく息を吐く。
「……勘違いするな」
一言だけ落とす。
「危険だから言っている」
「……え?」
ユーリスが止まる。
「さっき言っただろう。
“見られていた”と」
「……あ」
ようやく繋がる。
誤解が解け、顔の赤みが、
今度は少しだけ別の意味で強くなる。
「そ、そういう……」
「他に何がある……」
即答する。
「い、いえ……」
ユーリスが視線を逸らす。
まだ少し赤い。
だが、
さっきよりは落ち着いている。
「……じゃあ」
小さく言う。
「その……少しだけ、お邪魔してもいいですか?」
「好きにしろ」
短く返す。
ユーリスが、
小さく頷く。
部屋に入る。
扉を閉める。
「……」
静かな部屋の中で、しばらく言葉はなかった。
扉の外の気配も薄い。
聞こえるのは、遠くの足音と、
窓の外を抜ける夜風の音だけだ。
ユーリスは、部屋の中を少しだけ見回す。
それから――
扉の反対側に立てかけてあったものに、
目を止めた。
「……あ」
小さく漏らす。
俺は視線だけ向ける。
「どうした」
ユーリスが、槍を見る。
長く、
まっすぐな穂先。
使い込まれた柄。
学院に来てからは、
ほとんど部屋に置いたままだったそれ。
「その槍……」
少しだけ近づく。
「久しぶりに見ました」
俺は短く返す。
「そうか」
「はい」
ユーリスは頷く。
その目は、
どこか懐かしそうだった。
「学院に来てから、
杖ばっかり見てたので……」
少しだけ笑う。
「まだそれほど時間は経ってないのに…、
なんだか…前の旅がずっと昔みたいです」
「昔話にしては、ずいぶん最近だな」
「ですよね」
小さく笑う。
「でも……」
視線が槍に残る。
「これを見ると、旅のことを思い出しますね」
俺は何も言わない。
ユーリスは少しだけ槍を見つめたまま、
続ける。
「森の中とか、
川辺とか、
野営とか……」
ほんの少しだけ、
口元が緩む。
「今思うと、
あの頃も十分めちゃくちゃだったんですけど」
「今も大差ない」
「それはそうです」
すぐに返る。
それから、
少しだけ間。
ユーリスの顔から、
笑みが薄れる。
「……でも」
今度は、
槍ではなく俺を見る。
「これを、部屋のすぐ手に届くところへ戻したってことは……」
静かな声。
「本格的に、何か動いてる…ですよね?」
俺は答えない。
だが、
否定もしない。
それだけで、
十分だったらしい。
ユーリスの目が、
少しだけ真面目になる。
「……やっぱり」
小さく落とす。
部屋の空気が、
少しだけ張る。
さっきまでの柔らかさが、
静かに引いていく。
ユーリスは、
ゆっくりと槍から手を離す。
触れてはいない。
ただ、
目で追うのをやめた。
「エア」
呼ばれる。
「なんだ」
「ちゃんと、話してください」
まっすぐな声だった。
「さっきの“危険”って、何ですか」
逃がさない目だ。
いつもの遠慮がちな聞き方じゃない。
知ろうとしている。
俺は少しだけ息を吐く。
「……大したことじゃない」
「嘘です」
即答だった。
「槍を出してる時点で、
大したことじゃないわけないです」
それもそうか。
「それに」
ユーリスは続ける。
「エア、一日中一人で動いてましたよね」
「……あぁ」
少しだけ間。
それから、
ユーリスはまっすぐ聞いた。
「昨日の……あの不審者と、関係あるんですか?」
部屋が、静かになる。
遠くの廊下の音すら、
少し遠のいた気がした。
俺は視線を外さない。
「ある」
短く返す。
ユーリスの指先が、わずかに強く握られる。
「……やっぱり」
「昨日の奴が、
今日も動くと思った」
そのまま続ける。
「だから、一人で動いた」
「それで離れて?」
「あぁ」
ユーリスはすぐには返さなかった。
だが、
その目は揺れていた。
怖がっているというより――
納得していない顔だ。
「……そうですか」
小さく言う。
「……何か分かりましたか?」
「今日は出なかった」
「……出なかった?」
「気配も、視線もない」
短く言う。
「だが、消えたわけじゃない」
ユーリスは黙って聞いている。
俺は少しだけ息を吐いた。
「お前がさっき、
見られてる気がすると言っただろう」
その瞬間、
ユーリスの表情が少しだけ強ばる。
「……はい」
「だから、対象を変えた可能性がある」
部屋の空気が、
さらに張る。
ユーリスは言葉を失ったまま、
少しだけ俯いた。
「……私を、ですか」
「断定はできん」
すぐに返す。
「だが、可能性はある」
「……そうですか」
小さな返事。
その声に、
怯えだけじゃないものが混じっていた。
俺はそれに気づく。
「……どうした」
ユーリスが顔を上げる。
少しだけ、
唇を引き結んでいた。
「少し、不満です」
「……何?」
思ったよりも、はっきり返ってきた。
ユーリスは視線を逸らさない。
「危ないから守ろうとする。
それは分かります」
静かな声だ。
だが、
奥に熱がある。
「でも、エアはすぐに遠ざけようとする」
「当然だろう」
「当然じゃないです」
即答だった。
「前からそうです」
俺は少しだけ目を細める。
ユーリスは続ける。
「情報を集める時とか、
調べものとか、
そういう時は頼ってくれるのに」
少しだけ間。
「本当に危ない時だけ、
急に一人で抱えようとします」
その言葉に、
返す言葉が一瞬止まる。
「……」
ユーリスは続けた。
「私、ただ守られるだけのつもりで、
ここまで来たわけじゃないです」
小さな声だ。
だが、
揺れていない。
「神器のことも、
槍のことも、
危険なのは最初から分かってました。
……それでも、来ました」
一歩、
ほんの少しだけ近づく。
「前だって、同じパーティーだったじゃないですか」
渡りの風。
その名を口にしなくても、
意味は分かる。
森も、
火も、
魔物も、
命のやり取りも。
少しの間とは言え、一緒に越えてきた。
「なのに今は、
危ないから離れろ、出るな、部屋にいろって……」
少しだけ眉を下げる。
「それ、正しいのかもしれないですけど」
短く息を吸う。
「正直、ちょっと嫌です」
沈黙。
夜風が窓を鳴らす。
俺はしばらく何も言えなかった。
ユーリスの言っていることは、
分からないでもない。
だが――
だからこそ、俺も正直に答えなければならない。
「……お前は弱い」
俺は静かに言う。
「俺より弱い。
ノクシアより弱い。
狙う側から見れば、崩しやすい」
ユーリスが言葉を飲む。
俺は続ける。
「だから遠ざける。
それだけだ」
「……でも」
「それに」
少しだけ声が低くなる。
「お前は、まだ誰かを巻き込まれて平気な顔をできるほどではない」
ユーリスの目が、わずかに見開かれる。
「俺はできる。
それで何かが起きても、なにも感じないわけじゃない…。
だが…俺は必ず敵を仕留めるまで怯まない。
…お前は違う」
「……」
「だからだ」
それが、
俺の答えだった。
しばらく、
誰も何も言わない。
やがて、
ユーリスが小さく息を吐いた。
「……ずるいです」
「何がだ」
「そういう言い方されたら、
怒れなくなるじゃないですか」
少しだけ、
困ったように笑う。
だが、
その目はまだ真剣だった。
「でも、エア」
呼ばれる。
「私、全部任せるつもりはないです」
「……」
「自分が弱いのは分かってます。
今のままじゃ足手まといになるのも」
少しだけ槍を見る。
それからまた、
こちらへ視線を戻す。
「でも、だからって何も知らされないまま、
後ろに下げられるのは嫌です」
「……知って、どうする」
「考えます」
即答だった。
「出来ることを探します」
その言葉は、
思ったより重かった。
「それに……」
ユーリスは少し言いにくそうにしたが、視線はまだ外れない。
「……?」
「エアは考えるのが苦手じゃないですか?」
そう言って、笑った。
「……な!? お前なぁ」
俺は小さく息を吐く。
「まったく……、面倒な奴だな」
「エアにだけは言われたくないです」
それも即答だった。
ほんの少しだけ、
空気が緩む。
俺は壁に背を預けたまま、
ユーリスを見る。
「昨日の不審者だがな」
「はい」
「白服とは別のものが動いている可能性もある」
「……別勢力、ですか」
「あぁ」
「じゃあ、尚更……」
ユーリスはそこで言葉を止める。
だが、
何を言いたいかは分かる。
尚更、一人で抱えるな。
そういう顔だった。
俺は目を閉じて、
一度だけ考える。
それから言った。
「……分かった」
ユーリスが少しだけ目を見開く。
「え?」
「全部は話さん。
と言うより、何を話せばいいか分からんからな」
先に釘を刺す。
「だが、必要なことは伝える」
「……」
「その代わり、勝手に動くなよ?」
ユーリスの表情が変わる。
少しだけ、
安堵したように。
「……はい」
「危ないと思ったら、すぐ言え」
「はい」
「一人で確かめようとするな」
「それは……」
少しだけ目を逸らす。
「気をつけます」
「……今、間があったな」
「ありました」
正直だった。
俺は小さく息を吐く。
だが、
悪くない返事だと思った。
ユーリスは少しだけ肩の力を抜く。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことじゃない」
「それでもです」
その声は、
さっきよりずっと落ち着いていた。
部屋の空気も、
少しだけやわらぐ。
だが、
危険が消えたわけじゃない。
槍はそこにある。
夜もまだ深い。
俺は槍へ一度だけ視線を向け、
それからユーリスに戻した。
「……今日はここにいろ」
今度は、
さっきほど言葉が跳ねなかった。
ユーリスも、
変な勘違いはしない。
「はい」
素直に頷く。
そして小さく、
だがはっきりと続けた。
「でも、次からはちゃんと私にも役目ください」
「役目?」
「情報集めでも、
見張りでも、
考えることでも」
少しだけ笑う。
「そういうの、得意なんですから」
俺はしばらくその顔を見て、
小さく口を開く。
「……考えておく」
「絶対ですよ」
「注文が多いな」
「今さらです」
それも確かだった。
部屋の中に、
ほんの少しだけ笑いに近い空気が落ちる。
外ではまだ、
見えない何かが動いているかもしれない。
だが――
少なくとも今は。
一人で全部を抱え込む形ではなくなった。
それだけでも、
少し違った。




