3‐5‐7 ドナおばさん
大神殿の敷地内は灯りが少ない。
学舎寮から食堂までの小路もまた、深い闇に沈んでいた。
灯りが少ないといっても、気配りはされている。人の気配を察すれば、ぽわりと足元に魔灯が灯る。
すっかり暗くなったこの時間でも、子供が一人で歩いてもなんら問題はない。
辺りは夜の静寂に満ちていて、重なる二人の足音さえも、ひどく大きく響いている。
そんな静けさの中で、時折、空腹を訴えるお腹の音が鳴った。
(……絶対に、聞こえている)
繋がれた手に、ほんの少し力がこもった気がした。
恥ずかしさから一歩でもいいから距離を置きたいのに、しっかりと繋がれた手はそれを許してくれない。
伏せ気味にした顔が熱い。横を歩くリュークを盗み見れば、彼は結界の中での出来事などなかったかのような、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
その余裕が、今は少しだけ恨めしい。彼はどこまでも優しく、どこまでも正しく“保護者”であろうとしている。
特に会話はない。それが気まずいわけでもない。
ただ、リュークの傍らにいる心地よさに慣れてしまっている己が不安だった。
いつかは一人になる。
繋がれた手から伝わる体温が、愛おしければ愛おしいほど——
いずれ訪れる、独りきりの凍えるような未来を想う。
リュークにとっての刹那は、己にとっての一生だ。
今の温もりだけでは、心の冷えを拭い去ることはできなかった。
◇
食堂の入り口が見えてきた。と、するりと繋がれた手が離される。
突然消えた温もりに、一瞬だけ指先が泳ぐ。
人目に触れる場所では、リュークはあくまでも“親しい商人”で、自分は“保護されるべき子供”なのだ。突きつけられた境界線に、ナギサは胸の奥をチリリと焼かれるような思いで、強引に己を納得させた。
食堂は閑散としていた。
夕食時間としては、遅めの時刻ではある。
だが、ナギサは普段この時間に来ることが多い。そしていつもは、学舎生や神官見習い達が、そこかしこで食事や食後の語らいをしている姿を見かけるものだ。
なのに、今日は本当に人が少ない。人の喧騒はもちろんのこと、食器が触れ合う響きも、椅子を引く微かな音すら聞こえてこない。
二人が食事の受け取り口へ向かうと、いつもナギサを気遣ってくれる女性が、のんびりとふきんでカウンターを拭いていた。
「ドナおばさん、こんばんは。今日はとても静かですね」
「おや、今日も遅いね。見ての通り、大したものが残っていないよ」
ナギサが不思議そうな表情をしていたのだろう、
「明日から春学期の講義が始まるだろ? 皆、初日ぐらいはちゃんと講義に出たいんだろうねぇ。毎回、学期の初めはこんな感じで、早めにやってきて、さっさと寮に戻っていくんだよ。だから、もう食事も選べるほど残ってないのさ」
(なるほど)
言われてみれば、なんとなく納得できる。
明日から春学期の講義が始まる。最初の印象は大切だ。それに自分自身の中でのけじめみたいなものもあるだろう。初日ぐらいはちゃんとしたい、そんな心持ちで今日は早めに食事を済ませて部屋に戻り、明日に備えているのだろう。
「へぇ、子供達は存外真面目なんだね」
横からリュークが、どこか他人事のように口を挟んできた。
その“子供達”の中にナギサも含まれているのか、それとも。
「久しぶりじゃないか、リュークさん。商いは上手くいっているかい?」
「お久しぶりです、ドナさん。商いは、ぼちぼちといったところですね。フィデューシ様からの依頼がなかなか細かくて、やっと今日終わらせて戻って来たんですよ」
淀みのない、聞き慣れた商人の声音。
先ほどまでナギサにだけ向けられていた、あの熱を帯びた眼差しが嘘のようだ。
この器用さが、ナギサを少しだけ寂しくさせる。
「なるほどね。まぁ、久しぶりにお嬢ちゃんに会って浮かれるのもわかるけど、その子も明日から講義なんだ。夜更かしさせて明日寝坊でもしたら可哀想だろ? 早く寮に戻しておやり」
「そうですね。そこまで僕が気が回らなくて……」
リュークが苦笑してナギサを見た。その瞳の奥には、ドナには決して見せない、悪戯っぽくも粘り気のある光が、一瞬だけ宿った気がした。




