3‐5‐5 誘い
寮から一歩踏み出すと、ひんやりとした春の夜気がナギサを包んだ。
昼間の暖かさは嘘のように引き、代わりに湿り気を帯びた新緑の、むせるような独特な香りが鼻を突く。
稚児衣装から着替えたあとの薄手のブラウスでは、少し心許ない。ナギサは小さく身震いすると、食堂へと足早に歩き出した。
(……えっ?)
食堂へと続く小路の脇、深く茂った木立の奥。
そこだけが、まるで月の光を切り取って溶かしたような、柔らかな乳白色の光に包まれていた。
蝋燭のように揺らぐことはない。緻密な魔力で編み上げた、静謐で、けれど圧倒的な存在感を放つ隠蔽結界。
おそらく、魔法探知の特殊能力を持たない者が見れば、ただの暗がりにしか映らないだろう。
むせるほどの新緑の香りの中、柔らかな陽だまりのような微かな匂いがする——
(この香り……)
誘われるように、ナギサの足が小路を外れた。
木々の隙間を縫い、光の源へと近づく。
近づくほどに心地よく、柔らかな空気がナギサを包み込む。
——そして、息を呑んだ。
老木にもたれかかり、その老木ごと包み込む光の繭の中に、彼が佇んでいた。
いつもは燃えるように輝いている金髪も、乳白色の光の中では柔らかな黄金色。伏せられた瞳を縁取る長い睫毛は何故か銀色にさえ見えた。
一歩、また一歩。
閉じた瞳が開かれる前に、少しでも早く彼の前へ。
彼は神。そして己は神を傷つける“白光”の力を宿す器。
だから、距離を取らねば、これ以上惹かれては駄目だ、と己を戒めているのに……理性より、想いに体は素直に反応してしまう。
「やっと出てきたね」
——不意に、長い睫毛が震えた。
伏せられていた瞼がゆっくりと持ち上がり、その黄金の瞳がナギサの姿を捉える。
「今日は食事を抜いてしまうつもりかと思って、心配したよ」
驚きにナギサが固まるより早く、リュークの手が、壊れ物を扱うように、でもしっかりとその細い手首を捉えた。彼はそのまま、戸惑うナギサを光の繭の中へと引き込んだ。
瞬間、むせるほどの濃い香りは消え、柔らかな陽だまりのような匂いにナギサは包まれていた。
「……リューク、お帰りなさい」
「ただいま」
たったそれだけの遣り取り。
だが、そう微笑むリュークの指先が、微かに震えている。
いつも自信に溢れている彼が、まるで壊れ物を扱うような、あるいは、抑えきれない焦燥を押し殺しているような。
そのわずかな指の熱が、繋いだ手を通して、ナギサの心臓にまで直接流れ込んでくる。
でも、それ以上に己の胸の鼓動が激しく、頬が熱を帯びていく。
吐息がかかるほど間近に引き寄せられて、顔を上げることすらできず、繋がれた手に視線がいってしまう。
「ち、近いです……」
嬉しいはずなのに口から出るのは、つまらない言葉。
誰にも視られない結界の中。もっと甘えればよいのにと、囁き続けるもう一つの声がうるさい。
「はは、そうかもしれないね。でも——」
知ってか知らずか。
ナギサの手を取ったまま、リュークが目の前で片膝をつくと、そのまま軽く指先に唇を落とした。
「!」
どうしてリュークは、これほど無防備に己に触れることができるのか。
あの春宵宮でのことを覚えていないのだろうか?
アダマースの枷を解くために、リュークはナギサの中の“白光”の力を解放した。
その力に戸惑うナギサを、リュークはただ、壊れ物をいたわるように抱きしめ続けてくれた。
その代償に、リュークの治癒力を上回るほどの傷を負わせることに——神にとっての死に等しい“白光”の恐怖を与えたはずなのに。
弾かれたように顔を上げれば、どこまでも優しい星金の輝きを宿した瞳がナギサを見つめていた。
「やっと僕をみてくれたね」
悪戯っぽく、けれど慈しむように、彼は目を細めた。
その指先が触れる場所から、じりじりと熱が伝わってくる。
——怖い。
己のなかの“力”が彼を焼いてしまわないか。それ以上に、この優しい熱に、心まで溶かされてしまうのが……
「さてと」
リュークの眼差しが、僅かに厳しさを帯びる。
その変化に気づけば、自然と背筋が伸び、熱を帯びていた身体も冷めていく。
何か怒られるようなことをしたであろうかと、その眼差しを受け記憶を辿るが、リュークに不利益になるようなことはしていないはず。
はて? と心の内で考えていると、
「ナギサ、大変な目に遭ったはずだけど、僕には教えてくれないのかな?」
「……ん、ひょっとして、人攫いのことですか?」
「ひょっとしてって……ナギサ、他人事じゃないだろ?」
溜息と共に零れた声は、少しだけ呆れたような色を含んでいる。
リュークの少し厳しい眼差しは、心配の表れらしい。
彼がすべてを把握していることは、その声音から察しがついた。隠しごとはできないと諦め、ナギサはぽつりぽつりと、小物屋を出てからの出来事を話し始めた。ウォーリから聞かされた事後説明までを終えると、夜の静寂がより一層深く感じられた。
だが、こうして改めて説明すると、とても危険で恐ろしいことだったと思い至る。特に腕輪の件は男達が未だ目を覚まさないこともあって、後味が悪い。
ローニャの名前探しのことで危険な目に遭い過ぎて、少し感覚が麻痺しているのかもしれない。
「——頑張ったね」
その囁きは甘く、心地よい。けれどどこかリューク自身を突き放すような苦さを孕んでいた。




