1‐03‐1 ひとつの不安
喉の奥が締め付けられるような、底知れない不安。
転移以来、ずっと心の奥底にあったそれは、目の前の本を前にして、さらに膨らんだ。
セラスから手渡された本は、ずしりと重かった。羊皮紙だろうか、ざらりとした手触りだ。丁寧に仕立てられた表紙には、タイトルらしき文字はなく、ただ、長い年月を感じさせる傷や修復跡が刻まれていた。
ナギサは、いつも食事をする時に使う椅子に座る。そして、やはりいつも食事が置かれる小さなテーブルに、本をそっと置いた。一度目を閉じ、深く息を吸い込む。
言葉は、文字は、この世界でも通じるのだろうか。
転移以来、ずっと心の奥底にあった不安が、再び喉の奥を締め付ける。
静かに吐きだした息とともに、そっと瞼を上げ、本の表紙へと手を伸ばした。
『聖なる学び舎へようこそ。これから多くの叡智と出会い、その扉を開くでしょう。この書はその一歩を記す、最初の道標となるでしょう——』
——よかった、読める。
思わず小さく息を吐いてしまう。余程緊張していたようだ。
異世界へ渡ることで、最大の不安。それは、この“容姿”と“言葉”の問題だった。
元世界で読んだ異世界物の物語では、都合よく話せるものが多かったが、言葉が通じず難儀するようなものもあった。だからナギサはこの世界でどうなるのか不安を覚えていたのだ。
最初にクラーヴィアが話しかけてきた時は、あまりにも混乱していて認識していなかった。なんの問題もなく彼女が話すことが理解できていたこと。そして、それに言葉を返している己がいることに。
そして今も特に意識することもなく文字が読めている。恐らく《女神》が言っていた『最大限の加護』の一つなのだろう。
だが、その肝心の《女神》には、いつになったら会えるのか。『手伝ってほしい』と《女神》は言った。
『次に会う時に』という言葉を、ナギサは“こちらに渡ればすぐに続きの話をする流れになる”と勝手に想像していた。それだけに、今の展開はまったく想定していなかった。
そもそも、ここは“エイルタム”なのか? この大前提の確信が欲しい。
恐らく“そうであろう”というのは察せられる。言葉に不自由しないこと一つとっても、なんらかの力が働いていなければ、ありえない話だ。
確信を持つためにも、やはり《女神》本人からの言葉で、安心させて欲しいのだ。
こんなことを相談する相手もいない。かといって、勝手に動き回って《女神》を探すには全てが足りない。
今ナギサに出来ることは、この足りない部分を補うこと。大人しくこの本をまずは読むことで、知識を得るしかないのである。




