6 東京ヤングシスターズ
帰宅部の虹子にサッカー漬けの生活が戻って、二週間。
東京ヤングシスターズのセレクションまで、あと二日。
その日の夜、古賀凌駕が虹子の家にやってきた。
何だかんだ世話になりっぱなしなので、せめて晩ご飯でもご馳走しようと虹子が誘ったのだ。
ヤングブラザーズの練習後、いつもはクラブハウスで食事を済ませるという凌駕も、この日はおにぎり一つだけで、お腹をすかせてやってきた。
母親の陽子は王子の郵便局で働いているため、夕方には帰宅して料理を手伝ってくれた。
「この生姜焼き、うまいよ。虹ねえが料理できるなんて」
「ふふ、伊達に一年近くも帰宅部してないわよ」
「それ、自慢するところ? この肉じゃがはもっとうまい」
陽子「まあっ♡」
「ちょ、それはお母さん!」
「どうりでおいしい……」
「やかましいわ」
右手でパンチする真似をした虹子に、凌駕は左手で避けるふりをする。
陽子は小さい頃の凌駕をよく知っていたが、こうして顔を見るのは久しぶりだ。顔立ちが大人び、背も伸びた姿に、しきりに感心していた。
陽子「凌駕くん、すっかりイケメンになっちゃって。モテるでしょう」
凌駕「虹ねえ以外には」
陽子「いやねえ。虹子なんて、凌駕くんにはもったいないわよ」
虹子「一人娘の母親が言うことか!」
食事を終え、三人でコーヒーを飲んでいた頃、凌駕が何気なく言った。
「じゃあ、虹ねえの部屋に行っていい?」
「な、何言ってんの。ダメに決まってるでしょ」
陽子「お部屋に行ってきたらいいのに。二人でしたい話もあるでしょ」
「どういう母親だ」
「安心してよ。虹ねえを襲おうなんて、これっぽっちも思ってないから」
「ばかっ、そういう話じゃないの!」
別に見られて困るものがあるわけではない。
虹子は単に、女っ気のかけらもない自分の部屋を見せたくなかっただけだ。
凌駕が少し寂しそうな顔をしたので、ちょっとだけ申し訳ない気持ちになったが、慌てて話題を変える。
「そんなことより、東京ヤングシスターズについて聞かせてほしいんだけど」
「ああ。俺も隣のグラウンドから練習を眺めるぐらいで、そこまで詳しくはないけど」
「そっか……」
「ただ、トップチームの監督が元日本代表のボランチで」
「ええっと……やなぎさわ?」
「う〜ん、惜しい!」
陽子「八木沢純ね」
「そうです。さすが陽子さん」
凌駕の言葉に陽子の表情が、ぱっと明るくなった。
こういう時に「おばさん」ではなく名前で呼ぶのは、凌駕の妙に気が回る小僧っぽいところだ。
それにしても――。
こんなに目を輝かせてサッカーの話をする母親を、虹子はほとんど知らなかった。
〝フラワージャパン〟ことサッカー女子日本代表が、ワールドカップで世界一に輝いたのが2011年7月。
八木沢純は、その時のキャプテンだった。
大会のベストイレブンにも選ばれている。
サッカーを始めたばかりの頃、一応経験者だという母から聞かされた記憶もかすかにある。
しかし当時の虹子は、自分がボールを蹴ることにしか興味がなかった。
「ヤングシスターズの現在の監督は永石早苗さん。俺も仲いいけど、セレクションの合否に影響力があるのはトップの八木沢監督だと思う」と凌駕
「彼女にアピールできればいいってこと?」と虹子が聞き返す。
「まあね。トップチームもオフだから、セレクションを視察するって聞いてる。あ、そうそう……」
「ん?」
「城北が全国優勝した年、東京都大会の準決勝で東京リトルブラザーズと対戦したの覚えてる?」
「えっと……何となく」
「あの時、一人だけ女子の選手がいたでしょ」
「そうだっけ?」
「星野夕輝。彼女がヤングシスターズの10番だよ」
「ほしの……あっ!」
あの試合の後、めちゃくちゃ泣いていた子か――。
キックオフ前にすごい挑発してきたっけ。
そして試合後、泣き腫らした目で自分を睨んでいた少女の顔が浮かんだ。
頭の中に積もっていた落ち葉が、箒で払われるように、当時の記憶が蘇ってくる。
試合内容そのものは、よく覚えていない。
ただ、全国行きの大本命と言われていた東京リトルブラザーズを、伏兵だった城北ウイングが2―0で破った。
後半、華の先制ゴールをアシストし、さらに二点目を決めたのが虹子だった。
その虹子に対して、中盤でマッチアップしていた女の子が試合後、泣きながら何かを言ってきた。
「あの子、何て言ってたかな……」
「『次は絶対に負けないわ!』だったかな」と凌駕。
「なんで覚えてるの? つ〜か、その言い方きもいわ」
「だって、すぐ横で聞いてたもん♪」
「あんた、あたしの助手か」
「いいえ、子分です」
「子分にした覚えはないっ!」
凌駕によると、星野夕輝は同世代でも指折りのアタッカーで、アンダー世代の代表にも選ばれているという。
昨秋のU-17女子ワールドカップにはけがで出場できなかった。
つまり、虹子が映像で観たあの大会の直前まで、華とチームメートだったということだ。
――ということは。
凌駕も、まだ華とつながっているのだろうか。
そう考えて、虹子はふと気づいた。
サッカーに関する凌駕の近況を、自分はほとんど知らない。
正確には、知らなくなった。
虹子がサッカーを辞めた、あの頃から。
城北ウイングの後輩だった凌駕は、相変わらずUNITYを通じて駄文を送りつけてくるが、サッカーの話題はほとんど出してこなかった。
凌駕が中一の終わり、東京ヤングブラザーズのU-15チームにスカウトされた時、そして昨年の秋、U-16日本代表に初めて選ばれた時だけは自慢のメッセージが届き、虹子も「おめでとう」と素っ気なく返した。
今になって思えば――。
あいつなりに、気をつかってくれていたのかもしれない。
「小学校の頃のことだし、彼女も覚えてないんじゃない?」
虹子はそれが当然のように問いかける。
「それがユウキ……えっと、星野さん。俺があの時、あの場所にいたことを知った途端、『朝丘虹子はどうした』って、すごい勢いで聞いてきてさ」
「ユウキ?」
「あ、いや……」
「もしかして、凌駕の彼女?」
「そんな関係じゃないよ。はっは」
明らかに怪しい。
「まあいいや。それ、いつの話?」
「二年前かな。虹ねえがウイング辞めた後だったから、知らないって答えたけど」
「余計な気ぃつかわせちゃったね。それで何て?」
「一瞬ムッとしてから、もう興味なくしたみたいな態度で、それっきり」
さすがの虹子も、ちょっとばつが悪くなった。
デザートのチーズケーキまで食べ終わると、凌駕を王子駅まで送ろうとした。
しかし、
「女の子を夜道一人で帰らせるのも悪いから」
と断られた。
「この優男め……」
台所へ戻ると、流しはすでに空になっていた。
洗い終わった食器が、きれいに並べられている。
――帰宅部の娘には出来すぎた母さんだ。
一階にある陽子の寝室へ、
「ありがとう」
と声をかけて、虹子は二階へ上がった。
東京シスターズのことは、まったく知らなかったわけではない。
王子駅前のポスター。
自宅にたまに届く『北区ニュース』。
虹子がサッカーを辞めた翌年の新年号では、シスターズの選手が表紙を飾っていた。
当時の虹子は見向きもしなかったが、陽子が読んでいたのか、しばらくテーブルに置かれていた記憶がある。
「西が丘か……」
東京シスターズは公式戦のホームゲームを西が丘で行う。
一方、普段は東京ブラザーズと同じ西東京のグラウンドで練習し、下部組織のヤングシスターズも、そこで活動している。
王子から最寄り駅までは、乗り換えを含めて一時間ほど。
雑司ヶ谷にある虹子の高校から通うにしても、まあまあ面倒そうだ。
「まっ、スマホで将棋ゲームでもやってれば、移動中の時間は潰せるか」
ベッドに寝転がり、タブレットで東京シスターズの公式ホームページを開く。
今度はセレクションの案内ではなく、ヤングシスターズの選手リストだ。
高校二年生の欄に、星野夕輝の名前を見つけた。
ポジションは「FW/MF」。
「これか……」
顔写真を見る。
巻き毛のポニーテール。
すらりとした高身長を連想させる端正な顔立ち。
アーモンド型の瞳が、いかにも気の強そうな雰囲気を漂わせている。
「こんな顔だったっけ?」
何しろ虹子の記憶に残っているのは、試合前のドヤ顔と試合後の泣き顔だ。
写真をスクリーンショットし、UNITYで凌駕に送りつける。
『凌駕くん、随分と可愛い彼女だね』
少しして、
『違うって』
という無駄な反論とともに、URLが届いた。
人気SNSコメンター(Commenter)のものだ。
開いてみる。
アルファベットで『YUKI HOSHINO』
見たばかりの顔が現れた。
「フォロワー……1万人?」
まだプロでもないのに、かなりの知名度がある。
理由はすぐに分かった。
アイコンこそユニフォーム姿だが、背景画像ではガーリーなファッションでポーズを取っている。
コンビニに並ぶファッション誌の表紙にいても、違和感がない。
虹子はふと、自分が同じ格好でポーズを取っている姿を想像した。
「おえ〜っ」
自分で想像しておいて、声が出た。
さらにプロフィール欄にあるリンクを開くと、フォロワーは2万人。
カラフルな私服姿の写真ばかりが並んでいる。
虹子にいたっては、モメンタグラムのアカウントすら持っていない。
「こりゃ、あたしには無理だわ」
黄色いジャージ姿で、引きつった作り笑いを浮かべる自分しか想像できない。
それはさておき――。
もしかしたら。
橙山華もコメンターをやっているんじゃないか。
虹子はスマホを手にするとコメンターの検索欄へ、その名前を入力した。




