5 これが、女子サッカー
東京ヤングシスターズの加入セレクションにエントリーしたものの、当日まで二週間あまりしかない。
さすがの虹子も焦っていた。
ある日の夕方。
飛鳥山公園で古賀凌駕と待ち合わせた。
以前あげたボールを持ってきてもらうよう頼んでいたのだが――。
「虹ねえからの大事なプレゼント、返すわけないじゃん。代わりに俺の愛用をあげるよ」
そう言って、凌駕はAMIDAS製の五号球を差し出した。
「……まあ、いいけど」
その場で軽くリフティングしてみる。
まったく足に付かない。
右足はおろか、左足も絶望的だった。
小学生の頃は左利きと間違われるほど、右足と同じように扱えたのに。
「虹ねえ、ヘッタだなあ〜」と凌駕がからかう。
「うるさい!」
「まあ、焦ることはないよ」
「焦らせてるのは、どこのどいつだ」
「俺、ドイツ人じゃないけど」
「そのドイツじゃない。もう六月なのに身震いするわ」
ボールを受け取った凌駕がリフティングを始める。
あたりも薄暗いのに、いつまでたっても終わる気配がない。
頃合いで止めると、
「ま、リフティングなんてできなくても、サッカーうまい選手は世界にいくらでもいるから」
と慰めてきたので、軽く肘鉄を食らわせた。
「虹ねえ、それ一発レッド。格闘技の方が向いてるんじゃない?」
「余計なお世話だよ」
その後、一対一をしてみた。
まったくボールを奪えない。
ワンフェイントで、あっさり逆を取られる。
――サッカーって、こんなに難しかったのか……。
しゃにむに向かっても軽くいなされる。
あっち向いてホイからダッシュしたり、お相撲さんの猫だましみたいなことまで試してみたが、それでも奪えない。
「お前、ずるいぞ!」
「何がだよ!」
凌駕にポンと浮き球を渡され、今度は虹子がムキになって仕掛ける。
しかし、ファーストコントロールが大きくなった。
そこを簡単にかっさらわれる。
慌てて身体をぶつけて奪い返そうとした瞬間、足が絡まって尻餅をついた。
「イテテテ……」
前かがみになった虹子へ、凌駕が右手を差し出す。
「ま、焦らずに行こうよ」
いつになく優しい眼差しだった。
虹子を小馬鹿にしながらも、クラブでの練習を終えた後、わざわざ飛鳥山まで来てくれた。
今や素人同然の自分に付き合ってくれている。
そのことには、感謝しかなかった。
凌駕が帰った後も、虹子は残されたボールを夜遅くまで触り続けた。
少しだけ。
本当に少しだけ。
感覚が戻ってきた気がする。
だが、あの頃まで戻るには、途方もない時間が必要に思えた。
――これ、セレクションに間に合うだろうか……。
「間に合うかじゃない。間に合わせるんだ!」
どこかのスポーツ漫画で聞いたようなセリフを吐き出した。
翌日。
学校から帰って赤色のジャージに着替えると、公園で一時間のランニング。
夕食前までボールを触った。
食後も自宅前の街灯の下でボールタッチとリフティングを繰り返す。
会社帰りの男性が物珍しそうに見てきても気にしない。
夜間巡回のお巡りさんに不審がられても、
「どうも〜」
と笑顔でやり過ごす。
そして、またボールを触る。
小学生の頃、夜に壁当てをして近所のおばさんに怒られ、母親に謝らせてしまったことを思い出した。
二日目。
三日目。
四日目。
少しずつ感覚が戻ってくる。
足のいろいろな箇所でボールを触りながら、上半身のバランスにも意識が向くようになった。
凌駕も一週間のうち三日、練習に付き合ってくれた。
対人を意識したボールコントロールも、少しずつ様になってきた。
「虹ねえ、上手くなってきたじゃん」
「こんなのまだまだよ」
かつての感覚にはほど遠い。
それでも、何とか軌道には乗ってきた。
風呂から上がると、寝るまでサッカーの動画をチェックする。
世界的なスター選手のスーパープレー集。
Nリーグで最も技術が高いと言われる川崎フロンティアの「止めて蹴る」練習。
最初は男子サッカーばかり観ていた。
だが三日目、ふと思い立って〝フラワージャパン〟と呼ばれる女子代表の試合を観てみた。
さらに、ヤングシスターズのトップチームである東京シスターズの映像もチェックする。
ボールサイドに人数をかけ、短いパスを巧みに使うチーム。
そんな印象だった。
西が丘で試合がないかとWOリーグの日程も調べたが、二週間前にシーズンは閉幕していた。
過去の記事を確認すると、東京シスターズは残り五試合で監督が交代。
その後は四勝一敗と盛り返したものの、四位でシーズンを終えていた。
検索しているうちに、華が出場したU-17女子ワールドカップのハイライト動画を見つけた。
「すごい……」
画面の向こうにいる華のプレーに、虹子は魅了された。
水が流れるような動き。
そこに柔らかなボールタッチを重ねていく。
名前の通り、フィールドに華が咲いているようだ。
長い髪をフィギュアスケート選手のようにアップで結い上げた華が、大柄な外国人選手たちを翻弄している。
華のプレーは際立っていた。
だが、虹子の目に飛び込んできたのは彼女だけではない。
青地にピンクのストライプが入ったユニフォームを着た日本の選手たち。
白いセカンドユニフォームをまとった、大柄なフランスの選手たち。
確かに男子サッカーと比べれば、スピードや力強さは違う。
しかし――。
ボールを扱う技術。
判断。
次々と繰り出されるプレーのアイデア。
虹子の目には、それらが男子のサッカーにまったく見劣りしないどころか、新鮮な輝きを放って見えた。
2―1。
フランスのリードで迎えた後半アディショナルタイム。
10番を背負う華が、8番の選手とのワンツーで中盤の外側を抜け出した。
顔を上げる。
右足から、絶妙な浮き球のラストパス。
その先へ長身の9番が飛び込む。
「ミシマッ!」
実況が叫んだ。
「日本にも、こんな大きいFWいるんだ……」
後ろから来たボールを完璧に捉えたボレーシュート。
決まった。
虹子はそう思った。
しかし、フランスの長身GKが間一髪で弾き出した。
『あっと! キーパーのクラリスに弾かれたー!!』
その直後、タイムアップ。
歓喜の輪を作るフランス代表。
その周囲で、日本の選手たちが次々とピッチへ倒れ込んでいく。
”ミシマ”と呼ばれた大柄なストライカーの肩を抱く華の姿があった。
たった十分程度のハイライト動画だった。
それなのに虹子は、それまで観たどの試合よりも引き込まれていた。
その中心にいたのは、かつての相棒だった。
そして、その周りにも知らない選手たちがいる。
自分がずっと目を向けようとしなかった世界が、そこにあった。
「これが……女子サッカーなんだ」




