40 アピールチャンス
前日と同じく、虹子と華はバスで美浜公園のグラウンドへ向かった。
早くも見慣れた風景になりつつあり、昨日までは気にも留めなかった沿道の店や建物が、少しずつ目に入るようになっていた。
華「今日も晴れてよかったね」
虹子「そうだね」
六月末。例年なら、いつ雨が降ってもおかしくない時期だ。
しかし、この日は雲一つ見当たらないほど空が晴れ渡っていた。
「だけどさ、小学生の頃の虹ちゃんって、雨が大好きだって言ってたよ」
「あたしが?」
「うん。『下手な奴はもっと下手になるから〜』って」
「どんだけ嫌な奴なんだよ、リトル虹子は」
「うふふ。誰も反論できないぐらい、虹ちゃんはうまかったけどね」
「今は見る影もないけど」
「え、そんなことないよ」
華に悪気などない。
それどころか、気遣ってくれているのも分かっている。
それなのに、その優しい言葉が情けないほど胸に突き刺さった。
虹子はやり場のない感情を、華とは反対側に置いた手の指へぎゅっと込めた。
楽しむ。
評価を気にしない。
独りよがりにならない。
周りを観察する。
頭の中で、一つずつ確認していく。
「うう〜……」
また自分の心の闇へ吸い込まれそうになったところで、華に声をかけられてハッとした。
もう美浜公園のバス停は目と鼻の先で、華が降車ボタンを押すところだった。
華は少しばつが悪そうな顔をすると、虹子の後頭部を二度、三度と優しく撫でた。
*
グラウンドへ到着すると、虹子は昨日とは違う空気にすぐ気付いた。
練習開始までまだ三十分ほどあるというのに、ほぼ全員の選手がすでに集まり、ストレッチや簡単なボールを使った自主練習をしている。
華から、紅白戦の日は短いウォーミングアップを済ませると、すぐにゲームへ入ると聞いていた。
だから、それぞれが必要な準備をしているのだろう。
それにしても、グラウンドには昨日とは明らかに違う緊張感が漂っている。
華「紅白戦はサブ組にとってアピールの場でもあるんだよ。レギュラー組は絶対に自分の場所を守らないといけない」
過去の実績は関係ない。
その時に良い選手を使う。
それが室崎かぐら監督のモットーなのだという。
真剣な表情でそう話す華を見て、虹子も改めて理解した。
自分にとっては、浜名ディーネ・クライネへ入るためのテスト。
しかし、ここにいる選手たちにとっても大事な真剣勝負なのだ。
プレハブで着替えを済ませてグラウンド脇へ出ると――。
美麗「サンちゃ〜ん!」
いきなり大声で呼びかけられた。
金美麗は何人かでパス回しをしていたようだが、虹子を見つけると大袈裟に手招きしている。
――サンちゃんって誰だよ。
「おはよう、ミリョ」
「キンちゃんでいいよ。サンちゃんだけ特別〜」
「いや何でだよ」
虹子の隣にいた華が笑いながら、
「行っておいで。ここからは敵だよ」
とピースサインを送ってきた。
虹子も同じように返し、美麗たちの輪へ加わる。
美麗「フラワーまたね〜。紅白戦は負けないよ」
華「うふふ。望むところ〜」
六人だったグループが、虹子を入れて七人になった。
梨恵「虹子、おはよう!」
虹子「梨恵さん、おはよう」
三年生の茶野梨恵へ挨拶を返してからメンバーを見渡し――。
虹子「あれっ」
と思わず声が漏れた。
そこには小野乃木桃香もいる。
桃香「ニジたん、よろしく!」
虹子「お、おう!」
遅刻常習犯だと聞いていたので、紅白戦にはちゃんと時間通り来るのかと少し心配していた。
話を聞くと、実家の菊川から東海道線で来ている梨恵と、同じ沿線の愛野に住む藤野紗季が、わざわざ磐田にある桃香の家まで迎えに行ったらしい。
梨恵「ストライカーの彼女がいないと、ファーストチームには勝てないから」
いかにも現実主義者らしい答えだった。
金美麗 きんみれい
茶野梨恵 さのりえ
小野乃木桃香 おののぎももか
藤野紗季 ふじのさき
東雲奈々美 しののめななみ
朝丘虹子 あさおかにじこ
秋野琥珀 あきのこはく
この七人でパス練習を始める。
セカンドチームの残りは、センターバックの千草沙織と本城あずき、FWのマゼンタ・カビル、白波唯。四人は荒木良子コーチと空中戦の確認をしていた。
梅田小春は、今回の紅白戦ではファーストチーム側の控えに入るようで、蝶野さくらと三人でボールを蹴っている。
虹子たち七人は、互いの名前を呼びながらテンポよくパスを回した。
途中から二人が鬼になり、五対二へ移行する。
まだ虹子が十分に把握できていないのは藤野紗季だ。
藤色の髪をヘアバンドで留めた左利きの選手で、クライネでは右サイドハーフを主戦場としている。大柄ではないが、テクニックの高さは容易に想像できた。
一方で秋野琥珀とは前日の練習後にすっかり打ち解けたが、選手としての特徴はほとんど分かっていなかった。
シンプルな練習だが、ファーストタッチ、パスを出す判断、スピード、精度と、狭いエリアで必要になる要素が凝縮されている。
そして虹子にとっては、仲間をさらに知るための貴重な時間でもあった。
*
練習開始の十分前になると、梨恵の呼びかけでセカンドチームが集合した。
GK練習をしていた与謝野楓とシアン・マイヤーも合流する。
全員で輪を作ると、梨恵が一人一人の顔を見渡した。
「みんな分かってると思うけど、このゲームは八月の静岡フェスティバルに向けた大事なアピールの場になります」
少し間を置く。
「それと、ここにいる朝丘虹子のテストでもある」
梨恵がこちらへ顔を向けた。
虹子は何も言わず、深く頷く。
輪の中の空気が少し張り詰めた。
大会名を聞いても、虹子にはまだ具体的なイメージが湧かない。
それでも、この紅白戦の重要性だけは十分に伝わってくる。
梨恵「勝って、未来を切り開くよ!」
「おおっ!」
全員の声が一つになった。
前日より三十分早い午前十時。
監督とコーチ陣の号令で、この日の活動が始まった。
今日は寮母を兼ねる小野田恵子の姿が見当たらない。
その代わり、見慣れない男性一人と女性二人が加わっていた。
虹子が周囲へ聞くより早く、室崎かぐら監督が声をかけてくる。
かぐら「虹子さん、紹介するわね」
男性は棚橋潤強化・育成部長。
女性の一人が浜名ディーネのトップチームを率いる倉田由美監督。
もう一人が姫島祥子ドクターだった。
由美「あなたのことは聞いているわ。朝丘虹子さん」
虹子「はい。よろしくお願いします」
虹子が一礼すると、倉田監督は柔らかな笑顔で応じた。
――聞いている?
その言葉が何を意味しているのか虹子には全く理解できなかった。
倉田監督は大柄ではない。上背ならクライネを率いる室崎監督のほうが大きい。
それでも立っているだけで、どこか周囲を引き締めるような威厳があった。
虹子が主力組へ視線を向ける。
華も、それまでとは明らかに違う緊張した表情をしていた。
そこで虹子は、もう一つ気付く。
この紅白戦は、自分のテスト。
セカンドチームにとっては、レギュラーを奪うためのアピール。
そして――。
ファーストチームの選手たちにとっても、トップチームへ自分を売り込む絶好の機会なのだ。
グラウンドにいる誰一人として、ただの練習試合だとは思っていなかった。




