37 ランと陸斗
37 ランと陸斗
「アン、アンッ!」
熊野神社の裏手にある寮の建物が見えてくると、犬の鳴き声が聞こえてきた。
桃香「ランの声だ~!」
小野乃木桃香が笑顔で叫び、そのまま入り口の方へ駆け出していく。
あんな無邪気そうな桃香が、三対三ではあれだけ鋭い動き出しを見せた。あれは間違いなく本物だ。
黄宮ひなぎくもそうだが、橙山姉妹の家に来てまだ一日も経っていないというのに、あまりの情報量に虹子はめまいがしそうだった。
浜名城星寮はもともと、スポーツ推薦などで県外から浜名学芸館へ進学した学生が下宿生活を送るための施設だった。
三年前、WOリーグ参入を目指してユースチーム「クライネ」を創設した浜名ディーネが、高校とスカラシップの提携を結んだことで、現在は事実上のクライネ専用寮となっている。
元フラワージャパンの小野田恵子が、クラブのマネージャーと兼任で寮母を務めていた。
両開きの門をくぐると、すでに桃香が白地に赤茶色の毛が混じった小型犬と戯れている。
それにしても動きが素早い。
虹子は正式に犬を飼ったことこそないが、子供の頃に何度か捨て犬を拾ってきたことがある。
そのたびに陽子に怒られながら面倒を見て、里親を探して回ったものだった。
虹子「かわいい。ジャック・ラッセル・テリア?」
さくら「あら、虹子さん詳しいのね」
虹子「あ、さくらさん」
さくら「さくらでいいわよ。実家で飼っているの?」
虹子「飼ってはいないけど、犬が好きで」
ランはしばらく桃香の周囲をぐるぐる回ると、今度は蝶野さくらのところへ駆け寄った。
さくらが少し腰を落とすと、ランは膝に前足を乗せ、嬉しそうに手をペロペロと舐める。
沙羅「ランはさくら嬢が大好きだからな~」
桃香「そうだよ~♪ さくら、ブルームのにおいがするから」
虹子「え、ブルームのにおい?」
虹子はてっきり花の香りかと思ったが、そうではなかった。
ブルームというのは、さくらが自宅で飼っているシェットランド・シープドッグの名前だと梨恵が教えてくれた。
さくらの実家は、高塚の北にある佐鳴湖の東側にあるという。この辺りでは邸宅の多い地域らしい。
確かにさくらには、いかにもお嬢様らしい気品がある。それでも嫌味っぽさはなく、虹子も自然に話すことができた。
その時、寮の玄関から男の子の声が飛んできた。
「おかえりなさ~い。もうご飯できてるよ」
梨恵「あれは陸斗。恵子さんの一人息子だよ」
ランは陸斗の方へ駆けていき、そのまま抱き上げられた。
虹子が桃香やさくらとランを眺めている間に、ほかのメンバーは次々と建物の中へ入っていたようだ。
陸斗「さくらさん、梨恵さん、桃香……あとは……」
虹子「虹子です。よろしくね」
陸斗「陸斗です。新しい人?」
虹子「えっと、まだ練習生」
陸斗「よろしく、虹子さん」
虹子「よろしくね」
陸斗「梨恵さん、食事は12時半だから。あと10分ちょっとしかないよ」
梨恵「あ、ごめんね」
陸斗「一人はもう食べ始めちゃってるけどさ」
すると桃香が、事件の真犯人を言い当てる探偵のような勢いで声を上げた。
桃香「ひなぎくだ!」
さくら「まったく、あの子は……」
陸斗「帰ってくるなり食堂に駆け込んできて、『ご飯出して』って。紫乃ちゃんも困ってたよ」
虹子「紫乃ちゃん?」
陸斗「うん。ここで働いてる子」
虹子「そうなんだ」
陸斗「今日のご飯も紫乃ちゃんが作ったんだよ」
城星寮の玄関はかなり広く、右手には何十足も収納できそうな大きな下駄箱が備え付けられている。
陸斗「大きい荷物はそこに置いていいよ。お風呂はそっち。今はお湯入ってないけど、シャワーは使えるから」
寮生の梨恵は、
梨恵「ちょっと部屋に荷物置いてくるね」
と言って、右手にある階段を上っていった。
さくら「じゃあ、私たちは1階でシャワー浴びる?」
桃香「浴びる~」
虹子「さくら、さっきシャワー浴びてたじゃん」
さくら「さっと浴びただけだから」
桃香「モモ、さくらに洗ってもらう~」
さくら「しょうがないわね」
虹子「幼児か!」
虹子がシャワーを終えると、備え付けのバスタオルで体を拭き、ドライヤーで髪を軽く乾かした。
少し遅れてお風呂から出てきたさくらと桃香は、少し歳の離れた姉妹ぐらいに見えた。
虹子「あっ」
二人に気を取られた拍子に、右手に持っていたヘアブラシを落としてしまう。
床に落ちる――。
そう思った次の瞬間、ブラシは虹子の足元で桃香の手に収まっていた。
桃香「はい」
虹子「あ、ありがとう。その……」
虹子は思わず桃香の顔を見る。
――やっぱり速い。
さくら「ほら、早く食堂に行きましょ」
桃香「うん、行こ~♪」
虹子「そういえば梨恵さん来なかったけど」
さくら「ああ、二階にもシャワーがあるのよ。寮生はそっちを使うことが多いわ」
虹子「ああ、なるほど」
虹子はもう一度、何事もなかったように歩き出した桃香の背中を見た。
普段の言動からは、とても想像できない。
だけど、ボールが絡まなくてもあの反応速度。
――やっぱり、ただの〝歩く宇宙人〟じゃないんだな。




