35 ひなぎくタイマー
息つく暇もないゲームは、虹子が予想もしなかった形であっさり決着した。
残り一分半。
赤組の黄宮ひなぎくの動きが、突然止まったのだ。
花びらのような眉毛が完全に下がり、ぼーっとその場に立ち尽くしている。
事実上の三対二になったことで、形勢は一気に白組へ傾いた。蝶野さくらのパスから橙山華が抜け出して同点に追いつく。さらに今度は荻野目蒼のパスから華が囮になり、さくらが赤組側のエンドラインを越えた。
終了間際に白組が逆転。それから間もなく、タイムアップの笛が鳴り響いた。白組の三人が輪になって喜ぶ横で、
「まあ、仕方ないわね」
紺野巴はそう言って、銀谷静と一緒にゆっくりグラウンドを周回し始めた。
一方、その場に大の字で仰向けになったひなぎくは、
「どつかれた〜」
と空に向かって叫んでいる。
虹子「どつかれた? 白組、ひなぎくに何かしましたっけ」
梨恵「とても疲れたってこと」
虹子「ああ、なるほど」
そこへ恵子が駆け寄り、上着のポケットからバナナを取り出した。
そのまま、倒れているひなぎくの口元へ差し出す。
「これで我慢してね。今日のお昼は特別にプリン二個つけるから」
「しょんないやあ!」
ひなぎくはガバッと起き上がると、さっきまで倒れていたのが嘘のような猛スピードで巴と静を追いかけていった。
「何なんだ、あれ」と虹子。
理恵が即答する。
「ひなぎくは、いつもあんな感じよ」
「え、試合でも?」
「そうね。抜きどころを知らないから、だいたい途中でへなるわね」
「それって、かなりまずいんじゃ……」
「『ひなぎくタイマー』って呼んでるの。疲れてくると眉毛がだんだん下がってきて、下がり切ったらアウト。さっきも止まる少し前から下がってたわ」
「そのタイミングで交代?」
「流れ次第ね。試合中の飲水で多少は回復するから」
「バナナで?」
「バナナドリンクで」
「そんな魔法のアイテムが……」
*
残りの時間は自主練習になった。何をしようかと考えている虹子に、華が声をかける。
華「虹ちゃん、一緒に蹴ろう」
虹子「おうっ!」
思わず力強く返事をしたが、心の中では歓喜のガッツポーズだった。
二人は短い距離からパス交換を始め、少しずつ間隔を広げていく。
四十メートルほどまで離れたところで距離を固定し、右足、左足と交互にボールを蹴った。
虹子のボールは、なかなか真っすぐ華へ届かない。手前でバウンドしたり、左右へずれたりする。一方、華から飛んでくるボールはほとんど誤差がなかった。虹子の真正面ではなく、少しだけ左右にずらし、どちらの足でもトラップしやすい位置へ順回転のボールを送り込んでくる。
こうした基本的なところでも、しばらくサッカーから離れていた虹子との差は明らかだった。さらに華は、少し曲がる横回転のボールや、縦に落ちるボールまで蹴り分けてくる。それに対して虹子は、左右の足で順回転のボールを繰り返し蹴った。
何本も続けるうちに、虹子のキックも少しずつ安定してきた。
その頃には、太腿のあたりにずっしりとした重さを感じ始めていた。
それを察したのか、華がドリブルしながら虹子のところまで近づいてくる。
「虹ちゃん、一対一やろ。軽めにね」
「おうっ」
華は虹子と向き合うと、細かなボールタッチで左右に揺さぶりをかけてきた。
虹子が足を出す。
華はターンでかわす。
もう一度寄せる。
また外される。
――うまい……。
三十秒ほど経っても、一度もボールを奪えない。
「はい、次は虹ちゃんの番」
ようやくボールを渡される。
「屈辱……」
凌駕との一対一を思い出しながら、左右の足で交互にボールをコントロールする。華が足を伸ばしてくる瞬間を狙い、スパイクのソールでボールを引いた。その瞬間だった。
華が唐突に加速する。気がつけば、虹子の足元からボールだけがきれいに消えていた。少し離れたところまで運んだ華は、こちらをからかうようにリフティングを始める。
「虹ちゃん、こっちだよ〜」
「待て、華っ!」
悔しい。でも、楽しい。
何度かわされても、またボールを奪いに行きたくなる。
結局、一度も華からボールを奪えないまま、自主練習の時間は終わった。
「やっぱ、うまいな華は」
虹子が素直に認めると、華はすかさず返してきた。
「虹ちゃんこそ、サッカー再開してひと月しか経ってないんでしょ。末恐ろしいわ」
「慰めになってない」
「うふふ。慰めてないよ。本気」
その言葉は嬉しかった。それでも、華との差が以前よりはっきり見えるようになったことも事実だった。
弁天島では、再会した今が最高のタイミングだと言った。
その気持ちに嘘はない。
ただ――。
もっと早く戻っていれば。
そんな焦りが、自分の中にあることも、もう否定できなかった。




