27 クライネの練習場へ
弁天島で思った以上に時間を過ごしてしまった。
帰り道に華おすすめの『深江商店』でしらすを買った頃には、時計は9時を回っていた。
橙山姉妹の家へ戻る。
居間では蕾が座椅子に腰掛け、華の握ったおにぎりを頬張っていた。
虹子「おはようございます」
蕾「はーい、おはよう。行ってらっしゃい」
眠たそうに目を細めながら、それでも優しく笑っている。
その一言だけで、不思議と肩の力が抜けた。
虹子は急いで支度を整える。練習生の虹子は動きやすいシャツで行くつもりだったが、華が青地に黄緑が縁取られた練習着のストックを貸してくれた。さっそく袖を通す。
「虹ちゃん、こっち向いて」
浜名ディーネの選手になった気分で写真に収まった虹子。
「あれ、華は着ないの?」
「うふふ、向こうの更衣室で着替えるから」
「ちょ、おいっ!」
*
東海道沿いの「馬郡」バス停から、美浜公園方面へ向かう路線バスに乗る。
土曜の朝ということもあり、乗客は数人だけ。
虹子が二人掛けの席へ向かおうとすると、華はそのまま最後尾へ行き、五人掛けのシートへどっかり腰を下ろした。
「もしかして、二人席に座りたかった?」と華。
「いや、別に……」
「虹ちゃんって、ジュニアの遠征でもいつも一番後ろだったでしょ」
「そうだっけ?」
「男子も『虹子席』って、勝手に空けてたから」
「……そんな女王様みたいだった?」
「女王様というより……大王様かな。こんな感じ」
華は両足を豪快に開き、腕まで組んでふんぞり返る。
「こら」
「うふふ」
華は素直に足を閉じた。
バスはゆっくり東海道を西へ進む。
窓の外には松並木。
その向こうには、ところどころ浜名湖の水面が顔を覗かせている。
「そういえばさ」と虹子が問いかける。
「はい。どのようなご用件でしょうか」
「どこの会社の受付だよ」
「うふふ」
「ディーネの公式マスコットって、やっぱりウナギ?」
「違う違う」
華はスマホを取り出し、水色を基調にした小さな女の子のようなキャラクターを見せた。
「水の精霊、ディーネちゃん」
「ウンディーネって聞いたことない?」
「……ない」
「ドイツ語で『水の精霊』って意味なんだって」
「へえ」
「だからクラブもディーネ。マスコットもディーネちゃん」
「なるほど」
目的地が近づくにつれて、自然と会話が少なくなった。
虹子の膝を、華が軽く二回叩く。
華「楽しもう」
虹子が顔を上げる。
「期待してるよ、相棒」と華。
「うん」
胸のつかえが、すっと消えた。
*
「次は、西若林」
車内アナウンスが流れる。
華が降車ボタンを押した。
二人はICカードを運賃箱へタッチする。
値段表示を見て、虹子は思わず呟いた。
「……さ、360円か」
「虹ちゃん」
華が笑っている。
「今、高っ、って思ったでしょ」
「え、まあ……」
「顔に全部出てる」
「だって東京の感覚だと……」
「私も普段は自転車だからね」
「今日はあたしのせいでバスだもんね」
「うん」
あっさり頷く。
「だから虹ちゃんも合格したら、自転車買お」
「そうだね」
その何気ない一言に、少しだけ未来を想像した。
合格した後。
自転車で学校へ行き、そのまま練習へ向かう。
そんな生活が、ほんの少しだけ現実味を帯びる。
バス停から歩いて数分。
美浜公園が見えてきた。
野球場、テニスコート、弓道場。
その一角に、鮮やかな緑のサッカーグラウンドが広がっている。
「前は天然芝だったんだけどね。管理が大変で、今はハイブリッド人工芝になったんだ」
「いい環境だね」
「一般の人も予約すれば使えるからさ。前後に使う人たちが『頑張れ』って声を掛けてくれるよ」
トップチームは別の専用施設。クライネは美浜公園のグラウンドを優先的に使用している。
華に案内されて向かうと、一人の女性が待っていた。
40歳前後だろうか。髪を後ろでまとめ、柔らかな笑顔がよく似合う。
「恵子さん。こちら虹ちゃん。朝丘虹子です」
華が女性に紹介する。
「は、はじめまして。朝丘虹子です」
虹子は頭を下げた。
「虹ちゃん、ふふっ。小野田恵子です。よろしくね」
華め--
恵子さんは初対面なのに、どこか安心する声だった。
その直後。
恵子は虹子の顔をじっと見つめる。
途端に緊張が走る・・・
「虹子さん、犬好きでしょう?」
「えっ?」
あまりに突然だったので、反射的に自分の腕の匂いを嗅いだ。
恵子がくすっと笑う。
「匂いじゃないわ」
「え?」
「雰囲気」
「あ……」
聞いていた華が「うふふ」と笑う。
虹子も照れ笑いするしかない。
小野田恵子。初めて会ったはずなのに、不思議と初対面という気がしなかった。




