26 憧れの場所
橙山姉妹の家から弁天島へ向かう最短ルートは、東海道本線の線路沿いを通る301号線へ出る道だ。
しかし華は、
「こっちの方が車が少なくて走りやすいから」
と言って、東海道をまっすぐ西へ向かう道を選んだ。
虹子は青いジャージ。華は半袖のシャツにピンクのパーカー姿。
昨夜の雨を含んだ朝の空気は少しひんやりとしていて、走り始めると頬を撫でる風が心地いい。
住宅街を抜けると、立派な松並木が現れた。
その一角に、黄褐色の子供の像が立っている。四頭身ほどの身体で、太鼓を抱えるようにしゃがんでいる姿がどこか愛嬌を感じさせた。
虹子「これは?」
虹子が足を止めると、華は迷いなく答えた。
華「波小僧」
虹子「どういう小僧なの?」
華「それはね……」
少し考えたあと、像の下にある説明板を指差す。
華「ここに書いてある通り!」
虹子「つまり知らないんじゃん!」
二人で吹き出しながら説明板を読む。
遠州七不思議の一つ『波小僧』。
昔、漁師の網に黒い小僧がかかり、殺されそうになった小僧が命乞いをした。海へ返してやると、それ以来、海の底から太鼓の音を鳴らし、天候の変化を漁師たちへ知らせるようになったという。
「そういえば、こっちのニュースで海鳴りのことを『波小僧』って言ってたよ」と華。
「じゃあ、この言い伝えから来てるんだね」
「きっとそう」
虹子はもう一度、小さな像を見つめた。
「こういう昔話って、本当にあったことが少しずつ形を変えて残ってることもあるでしょ。だから波小僧も、本当にいたんじゃないかなって思う」
「さすが虹ちゃん」
華が感心したように笑う。
虹子は照れながら、少しだけ高校生活を思い返した。
もう少し周りを見ていたら。
もう少し誰かと向き合えていたら。
何かが変わっていたのだろうか。
それでも結果として華と再会し、今こうして静岡の街を並んで走っている。
過去は変えられない。
でも、これからはいくらでも変えられる。
「虹ちゃん?」
「ん?」
「波小僧に一目惚れした?」
「そんな趣味ないっ!」
華の笑い声が、静かな松並木に響いた。
*
少し道草をしたが、ここから弁天島までは一・五キロほどだ。
「ちょっとペース上げるよ。無理しないでね」
華が軽やかに駆け出す。
高校で陸上部に所属していた虹子も、付いていくのがやっとだった。
ピンク色のパーカーが少しずつ離れていく。
その時、
「ここ」
華が一軒の店の前で立ち止まった。
白い看板には『深江商店』。
「ここのしらす、本当に美味しいんだ」
「へえ……」
息を整えながら店を見る虹子に、華が笑う。
華「帰りに寄ろうよ」
虹子「うん。今日の楽しみがまた増えた」
再び走り始める。
今度は虹子も遅れず、華のすぐ後ろについた。
犬を散歩させる人。
自転車で通り過ぎる人。
宿場町だった面影を残す街並み。
東京とは、時間の流れ方まで違うように感じる。
やがて左手に舞阪漁港が現れた。
何隻もの漁船が静かに並び、潮の香りが一気に濃くなる。
「舞阪漁港だよ」と華。
「おお、漁船がいっぱい」
「漁師の町だからね」
「毎日こんな魚が食べられるの?」
「食べられるよ。だから虹ちゃんは絶対合格するだ」
「何だよ、その浜松理論」
「うふふ」
静岡へ来る前は、浜名湖と鰻くらいしか知らなかった。
でも華の話を聞きながら走っていると、この街には、そこで暮らす人だけが知っている景色や歴史が当たり前のように息づいていることが分かる。
さらに進むと、『東海道舞阪宿本陣跡』と刻まれた黒い石柱が見えてきた。
「舞阪宿って、やっぱり宿場町だったんだ」
虹子が華に問いかける。
「そう。東海道五十三次の三十番目だったかな」
「歴史得意だったっけ?」
「昨日、お姉ちゃんに聞いた」
「褒めて損した」
「うふふ」
その先には、『渡船場跡北雁木』と刻まれた石柱。
「これ、何て読むの?」
「えーっと……」
華はくるりと背中を向け、スマホを取り出した。
数秒後。
「はい、出ました。『きたがんげ』と言います」
「それ絶対、MOOGLE先生で調べただけじゃん」
「私の持つ科学の力です」
「あんたのスマホの力だよ」
笑いながら、また走る。
そして弁天橋へ差しかかった瞬間、視界が一気に開けた。
朝日にきらめく水面。
その向こうには、ゆったりと弧を描く浜名大橋。
そして橋の右手。
旅行雑誌や観光サイトで何度も見てきた、あの赤い鳥居が小さく見えた。
虹子「うわあ……!」
思わず足を止めかける。
「感動するのはまだ早いよ」と華。
「え?」
「橋を渡ってからのお楽しみ」
華を追って弁天橋を渡る。
潮風が強くなった。
そして『弁天島海浜公園』のゲートをくぐり、緩やかなカーブを抜ける。
浜辺へ出た、その瞬間。
穏やかな水面の向こうに、「いかり瀬」と呼ばれる小さな陸地。
その手前には、両脚を海へ浸したような真っ赤な大鳥居が朝日に照らされていた。
「おお……」
虹子はその場に立ち尽くした。
ずっと来たかった場所。
画面越しでも、本の写真でもない。
本物の弁天島が、今、目の前にある。
「もっと早く呼べばよかったね」
隣で華が静かに言った。
虹子は首を横に振る。
「ううん」
そして空を指差した。
「今が最高のタイミングだよ。ほら」
華も見上げる。
鳥居の向こう。
朝日に照らされた青空いっぱいに、大きな虹が架かっていた。
二人はしばらく言葉を失ったまま、その景色を見つめた。
やがて華が微笑む。
「……そうだね」
虹子も微笑み返した。
いつの間にか二人の手は自然につながっていた。
弁天島の風が、その間を優しく吹き抜けていった。




