1 止まった時間
五月の終わりの雨は、朝から降ったり止んだりを繰り返していた。
窓ガラスをつたう雨粒をぼんやり眺めながら、朝丘虹子はタブレットを手に取った。
高校二年の平日。
学校から帰ってきても、特にやることはない。
いや、やろうと思えばいくらでもある。
それでも身体は動かなかった。
ベッドに寝転がり、ニュースアプリを開く。
芸能。政治。将棋。
スポーツ…何となく画面をスクロールしていると、不意に一本の記事が目に飛び込んできた。
『橙山華 リトルフラワーからヤングフラワーへ 若き司令塔の肖像』
「とうやま……はな」
懐かしい名前を、小さく口にする。
心臓が一度だけ大きく鳴った。
虹子は起き上がると、恐る恐るタイトルをタップした。
〝リトルフラワー〟――17歳以下の日本女子代表の愛称。
そういうことか、と虹子は小さく息をつく。
サッカー女子日本代表が〝フラワージャパン〟と呼ばれていることくらいは、世間の情報に疎い虹子でも知っている。
タブレットの記事を開いたまま、スマホの方で検索してみる。
「えっと17歳以下の代表がリトルフラワーで、20歳以下がヤングフラワーか…」
記事によると、昨年の秋に行われたU-17女子ワールドカップで準優勝した〝リトルフラワー〟の中心選手だった橙山華は、ひとつ上の〝ヤングフラワー〟でも期待されているという。
「へえ〜、あいつ、そんな活躍してるんだ」
独り言を呟きながら、思わず笑みがこぼれた。
記事には大会を通してのプレーぶりが詳しく紹介されていた。
正確な左足のキック。
広い視野。
年齢を感じさせない試合運び。
どの言葉も、虹子には不思議なくらいしっくりきた。
「変わらないじゃん」
華は昔からそうだった。
自分が動き出せば、華は一番いい場所へ、一番いいタイミングでボールを届けてくれた。
だから、一緒にサッカーをするのが楽しかった。
ページをスクロールする。
写真の中の華は、日本代表のユニフォームを着て笑っていた。
少し大人びた顔立ちになった。
それでも、その笑顔は小学生の頃と何も変わっていない。
記事の最後に、小さな囲み記事があった。
『橙山華選手 一問一答』
何気なく読み進める。
――あなたにライバルはいますか。
『はい。私には一番のライバルがいます。ニジちゃんって言うんですけど』
虹子の指が止まった。
――ニジちゃん、どんな選手ですか?
『小学生の頃からずっと追いかけてる選手です。今は……ちょっとお休み中みたい(笑)』
そこで記事は終わっていた。
「ニジちゃん……」
小学校のサッカーチームで一緒だった華は、いつも虹子のことをそう呼んでいた。
ライバル。その言葉が、胸の奥へゆっくりと沈んでいく。
目の奥が熱くなった。
目頭を右手で押さえても、あふれた涙は頬を伝い、指の隙間からぽたぽたと落ちていく。どうして泣いているのか、自分でも分からなかった。
嬉しいわけじゃない。悲しいわけでもない。
ただ、ずっと閉じ込めていた何かに、名前を呼ばれた気がした。
「あたし、何やってるんだろ……」




