プロローグ どこまでも
元ジュニア王者の虹子はサッカーを辞めたはずだった。
もう一度、本気でボールを追いかける日が来るなんて、思ってもいなかった。
朝丘虹子、高校二年生。
中学二年でサッカーから離れ、何もない日常を過ごしていた彼女の時間を動かしたのは、偶然目にした、ひとつの記事だった。そこにいたのは、かつて相棒・橙山華。
「私には一番のライバルがいます。ニジちゃんって言うんですけど」
その言葉に導かれ、虹子の止まっていた時間が、また動き出した。
女子サッカーの世界に飛び込んだ虹子は東京から静岡の浜松へ。
再会、新しい仲間たちとの出会い。そして…
あたし、やっぱりサッカーが好きだ!
鹿児島の夏空の下、白雲スタジアムに歓声が響いていた。
ボールが足に吸い付く。
そんな表現しか思い浮かばなかった。
朝丘虹子は右足のアウトサイドで相手をかわすと、そのまま一気にトップスピードに乗った。
追いすがるディフェンスの足音が遠ざかっていく。
ゴールまで、まだ25メートル近くある。
「ニジちゃん!」
左から橙山華が駆け上がってくる。
虹子は視線だけを向けた。
華は最後のセンターバックを引きつけるように、斜めへ走っている。
――ナイス華!
虹子の前に、視界が広がった。
ゴールキーパーはまだゴールラインの少し前。飛び出してくるような距離ではない。
それでも虹子には、ゴールへの道筋が見えていた。
右足を振り抜く。
鋭く回転したボールが高く、外へ逃げていく。
だが、夏空に弧を描くように鋭く曲がり、そして落ちる。
ボールはキーパーが慌てて伸ばした手の先を越え、がゴールネットへ突き刺さった。
スタンドに一瞬の静寂。
そして――。
「ゴオオオール!」
次の瞬間、白雲スタジアムが大歓声に包まれた。
「虹だ!」
誰かが叫んだ。
そのシュートを虹子もどう説明すればいいのか分からない。ただ、頭の中にイメージされた軌道がそのままフィールドに描かれたのだ。
虹か…その余韻も束の間。
「ニジちゃん!」
華が勢いよく飛びついてくる。
「重いって!」
その後ろから、男子のチームメートたちも次々と駆け寄ってきた。
「お前、本当にすげえな!」
「化け物!」
「誰が化け物だよ!」
笑い声が広がる。
朝丘虹子は城北ウイングのエースだった。
チームの誰よりもサッカーがうまく、ゴール、勝利を呼び込む。
そして横には最高の相棒がいる。
「ハナ!」
「ニジちゃん!」
やがて、試合終了のホイッスルが鳴った。
全国ジュニアサッカー大会優勝。
金色の紙吹雪が鹿児島の夏空を舞い、虹子は仲間たちに何度も胴上げされた。
*
表彰式を終え、チームが帰り支度を進める中、虹子は白雲スタジアムの芝生に寝転がっていた。
火照った身体を、夏の風が優しく冷ましていく。
太陽に照らされた桜島が眩しい。
「ねえ、ニジちゃん」
隣で空を見上げていた華が呼びかける。
「うん?」
「私たち、もっともっと行けるよね」
あまりにも当たり前のことを言われた気がして、虹子は笑った。
「行けるよ。どこまでも」
そう言いながら、虹子は太陽に右手をかざす。
虹子に合わせるように、華も左手をかざした。
そして二人は拳を軽く合わせる。
「約束」
「うん、約束」
男子とか。
女子とか。
そんなことは、考えたこともなかった。
ただサッカーが好きだった。
誰よりもうまくなりたかった。
華と一緒なら、もっともっと先へ行ける。
限界なんて存在しない。どこまでも行ける。
あの頃は、そう信じていた。




