9 フラワージャパンのレジェンド
虹子は履いたばかりのスパイクを見下ろした。
セレクションに向けて、新しく買うことも考えた。
だがボールとは違い、昔のスパイクは自宅の下駄箱の奥に残っていた。
母親の陽子が梱包して残してくれていたのだ。
試しに履いてみると、問題なくフィットした。
最後に履いたのは中学二年の秋。
それから身長も、足のサイズもほとんど変わっていない。
MIZUMO製。人工芝、天然芝、ハードのすべてに対応する固定式。
色は黒。
「ほっぽらかしててごめん。頼むぜ、相棒……」
ジュニア時代。男子の仲間たちは、ヨーロッパのスター選手が履くMIKEやAMIDASの最新モデルを好んだ。
その中で虹子だけは、
「あたしは、なんだかんだ日本人に合ってるのは日本のメーカーだと思うけどね」
などと生意気なことを言って、MIZUMOの真っ黒なスパイクを履いていた。
無駄に男子と張り合っていた。
今から思えば、みっともないところもあった。
それでも――。
「あの頃は夢中だったな」
思わず笑う。
そしてハッとして周囲を見回した。
誰にも見られてないよね……
開始時刻が迫る。
参加者は三十人ほどまで増えていた。
おそらく、かなりの精鋭だ。
強豪女子チームのエースだっているだろう。
GKグローブをつけた子が三人いる。
――あの子たちはポジションが違うから、ライバルじゃないかな。
そんな余計なことまで考え始めると、不安が一気に押し寄せてくる。
大丈夫。大丈夫……
???「あらっ?」
不意に声をかけられた。
???「あなた、もしかして朝丘虹子さん?」
振り返る。
そこにいたのは、すらりとした長身の少女だった。
巻き毛のポニーテール。
そして、切れ長の目。
虹子「星野……夕輝さん?」
彼女は虹子に少し詰め寄ると、腕を組んだ。
「ふ〜ん。私のこと、覚えてくれてたの」
「は、まあ」
「ジュニア大会のMVPさんが、どうして今さら、うちのセレクションに来てるのかしら?」
「いや、別に……」
夕輝の鋭い視線が、虹子を射抜く。
――今さら。
その言葉が、胸に刺さった。
嫌味の一つくらい言われる覚悟はしていた。
それでも、ここまで露骨に冷たい視線を向けられるとは思わなかった。
少し間を置いて、夕輝が言った。
「まっ、合格したらチームメートだから。その時はよろしくね」
「よろしく」
そう返すしかない。
虹子が軽く会釈すると、夕輝は「ふんっ」と短く鼻を鳴らし、踵を返した。
気づけば、緑のトレーニングウェアを着た女子たちが集まってきていた。
ヤングシスターズの選手たちだ。
「ピッ!」
笛が鳴る。
「はい、セレクションに来た人たちは集合してください」
二十代後半ぐらいだろうか。
緑色のジャージを着た女性が声をかけた。
「はいっ!」
参加者たちが集まる。
その様子をヤングシスターズの選手たちが見つめている。
虹子はそれとなく、夕輝を探した。
端の方で腕を組んでいる。
やはり目立つ。
容姿だけではない。
何かを射抜くような眼光。
同じウェアを着た選手たちの中でも、ひときわ強い存在感がある。
何となく、また目が合ってしまった。
ばつが悪い空気の中、グラウンドの入口に、二人の女性が現れた。
一人は眼鏡をかけた小柄な女性。
そして、もう一人は――。
「八木沢純……」
間違いない。
東京シスターズのトップチームを率いる監督。
かつて〝フラワージャパン〟を世界一へ導いたキャプテン。
女子サッカー界のレジェンドだ。
「私が東京ヤングシスターズの監督をしている永石早苗です。今日はよろしく」
永石監督が先に挨拶すると、シスターズの八木沢監督が前へ出た。
「八木沢です」
短く名乗る。
それから、参加者たちを見渡した。
「セレクションに来てくれてありがとう。最初に言っておきますが、うちが欲しいのはユースの選手じゃない。トップで活躍できる選手です」
現場の空気が変わった。
「能力があれば、すぐにでも引き上げる。ヤングシスターズの選手も、年齢や学年に関係なく、トップで活躍するためにしのぎを削っています」
虹子は黙って聞く。
「そんな彼女たちに負けないぐらい、ここにいる誰よりも、私たちをワクワクさせてください」
「はいっ!」
参加者たちの返事が響いた。
同時に、ヤングシスターズの選手たちにも緊張が走ったように見えた。
虹子にも分かった。
これは、セレクション生だけの試験ではない。
ヤングシスターズの選手たちにとっても、トップチームの監督へアピールするチャンスなのだ。
虹子も改めて気を引き締める。
その時――
八木沢と目が合った。
すると彼女が、わずかに驚いたような表情を見せた。
「あなたが、朝丘虹子さん?」
「はい。よろしくお願いします」
虹子は慌てて頭を下げた。
八木沢は何かを確かめるように、虹子を見た。
そして少しだけ表情を緩める。
「楽しみにしてるわね」
「は、はい!」
ひょっとして、ジュニア時代の自分を知っているのかもしれない。
だとしたら――
これは単に、ヤングシスターズへ入るためのセレクションじゃない。
サッカーから逃げた自分。
あの時の自分に、打ち勝つためのセレクションでもある。
虹子はそう覚悟した。




