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「ねえ、聞いたかい?」
「ああ、あれか。まあ、出ても不思議ではないわい」
子供らの食器を膳部に運び込んだつくよの耳に、不穏な声が滑り込んだ。
「何のこと?」
「ああ、まだ知らなんだか。出たんだよ」
胸の前で手首から先をだらんとぶら下げながら、下働きの女が言った。
「庭を歩いていたらしい」
「私は座敷にあがるのを見たと聞いたよ」
「まだ子供らしいじゃないか」
「そりゃそうだろう。ここでは何人も……」
「しっ! それ以上言わないでおくれ!」
つくよは何も言わずその場を離れた。
その噂なら知っている。
春尚から直接聞いているからだ。
「もしも夜中に、つくよよりも少しだけ年嵩の男の子が来たら、私に知らせてくれ」
「物の怪でしょうか?」
「いや、生きた少年さ。だからこそ面倒なんだけれどね」
「どうやってお知らせしますか?」
そう聞いたつくよに、春尚は小さな人形を渡した。
それは厚めの和紙で折られたもので、流し雛のような形をしていた。
「これを破るんだよ。なぁに、固くはないから大丈夫さ」
つくよは、その言葉を思い出しながら、それを忍ばせた懐をスルッと撫でた。
使用人たちはまだ同じ話題を手放さずにいる。
そしてその夜、子供らが寝静まったのを確認したつくよが、使用人部屋に戻ろうと腰を上げた瞬間、庭に面した廊下が軋む音がした。
やっと来たかと思った自分に驚きながら、つくよは懐に手を差し込んだ。
音もなく襖が開く。
「朔也……」
その影は確かにそう言った。
「誰ぞ!」
つくよの声が鋭く尖る。
「騒ぐな。子らが起きる」
月を背負って立った影が声を出した。
つくよは転がるように子らの布団の前に出た。
「東宮兄さま……」
千世が体を起こす。
「ああ、千世か。具合はどうか?」
「まだつくよが居ります」
「うん、少し急いだ。すまん」
千世がつくよの顔を見た。
「心配はいらぬ。一番上の兄さまじゃ。時折こうして訪ねて来られる」
影が驚いた声を出した。
「千世?」
「つくよは心配いりませぬ」
影は黙ったままつくよを見つめていた。
「東宮兄さま?」
朔也の声だ。
「ああ、朔也。よう耐えたなぁ」
「……」
「来月には移されると聞いた。それで急ぎ来た」
「……」
「朔也?」
それでも朔也は黙っている。
千世が朔也を庇うように座り直した。
「移さねばなりませぬか?」
「それは……」
「千世は……嫌にござりまする」
か細いがはっきりと透き通るような声だ。
「しかし、ここに居てはまた……」
「それでもです」
今度は影が黙り込んだ。
つくよは金縛りにあったように指先さえ動かせずにいた。
「移れば死に待ちでございましょう?」
絞り出すような朔也の声に、影の肩が月明かりを揺らした。
「だからこそ……」
「私はここに居りとうございます。兄上はお帰りなされ」
「朔也?」
「私らと兄上は住んでいる世界が違う!」
結と藍丸が寝苦しそうに寝返りを打った。
「お立場もございましょう。そろそろ……」
「だから! だから迎えに来たのじゃ!」
「だから? 私が逃げれば他の子がまた同じ苦しみを味わうのに?」
「朔也……」
「ここに居ってもお役目の時には必ず参りましょう。それでは足りませぬか?」
沈黙に耐えかねたように野鳥が悲鳴のような鳴き声を上げた。
つくよは歯を食いしばって指を動かす。
なんとか触れたそれを、爪の先で裂いた。
「若君。困らせないで下さいよ」
どこからか湧き出たように、春尚が姿を現した。
飄々とした風が薄掛けの端を揺らす。




