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「春尚……」


「お探ししたとは申しません。行く先は分かっておりましたからね」


「それなら!」


「それでもです。あなたは急ぎ過ぎる。何度も申しましたでしょう? 側使えの者たちの身にもなって下さいと。もう何日も眠れずにおるのですよ?」


「それは……」


 影が少しだけ萎んだように見えた。

 その頭上から月光が部屋に差し込んだ。

 高く結い上げられた髪の先が乱れている。

 春尚がつくよに向き直った。


「つくよちゃん。あと二回夜が来たら、西棟の子が一人移される。本当はお前さんの仕事ではないが、ひとつ頼まれてはくれないか?」


「あの……えっと……」


 春尚が懐に手を入れた。


「これはね、蜂の巣から取り出した蜜だよ。これを湯に溶かすとね、それは甘くて旨いのだ」


「へぇ……」


「いつも赤い組紐で髪を二つに縛っている子がいるだろう? あの子にこっそり飲ませてやってくれないか?」


 つくよはその幼女に思い当たった。

 春の盛りに、か細い腕を伸ばして桜の花に触れようと背伸びをしていたあの子だ。


「そのお子が?」


「ああ。帝は今……少しお加減が悪くてね」


 千世と朔也が息を飲んだ。


「待て! なぜ美里が!」


 影が春尚の腕を掴む。

 月あかりがその顔に差し、若草色の衣の柄を浮き上がらせる。

 つくよは、あの幼女の名が美里なのだと初めて知った。


「なぜも何も、それは薬師長が決めることですからね」


「……」


 東宮兄さまと呼ばれた少年が立ち上がった。

 今度はその手を春尚が引く。


「行ってはなりません。あの子を隠しても、他の子が消えるだけじゃ」


「しかし!」


「まあお座りなされませ。急いては良き事などございませぬよ?」


「春尚……お前はなぜ落ち着いておる!」


「無力な身ですので」


 春尚の顔に影が差した。

 まるで光と影が入れ替わったようだとつくよは思った。


「だから! だからこそ……」


「兄上。落ち着かれよ」


「朔也!」


 廊下の板が軋む音がした。

 春尚の視線が鋭く動き、右手を顔の前で動かしてぼそりと何かを呟いた。

 白く霞むような何かが部屋を包む。

 口角を少しだけ上げた春尚が、人差し指を口の前にまっすぐ立てた。


「何事でございますか?」


 下働きをしている老爺の声だった。

 春尚が視線だけでつくよに促す。


「何事もございません。少し悪しき夢見を……」


「ああ、つくよか。お前がいるなら心配ないな」


「はい」


 痛いほどの沈黙が部屋に戻った。

 フッと息を吐いた春尚が、少年の膝に手を置く。


「朝成さま。これが今の御世でございますよ。次世をどうするか。あなたが考えるのはそのことのみでございます」


 朝成と呼ばれた少年が拳を握った。

 千世がその手の上に枯れ枝のような腕を伸ばす。


「兄さま。我らはちゃんと生きておりますよ」


 それには応えず朝成が唇を嚙みしめる。

 つくよは胸の痛みを持て余し、逃げるように庭に視線を向けた。

 ざっと風が薙いだのか、生垣の高野槙がうな垂れるように枝先を下げる。

 つくよはそっと唇を嚙みしめた。


「春さま。お預かりいたします」


 つくよが伸ばした手に、春尚が小さな壺を乗せた。


「あの子はね、知っているんだ」


「え?」


「ここの子たちは存外に鋭い。私たちにできることは少なすぎるんだよ」


 千世が朔也の額に手をそっと置く。


「姉さま?」


 千世は何も言わず朝成に向き直った。


「東宮兄さま。今日のところはお帰り下さいませ。こちらのことはこちらで」


「千世……お前まで」


「ではどうなさいます?」

 

 ゆるく結んだ千世の毛先が跳ねた。


「え?」


「西棟の幼女を救うために、東棟の子を渡しますか? それともここの子を……結を差し出しますか?」


「それは……」


 朔也がボソッと言った。


「己で如何ともできぬことに、悩む暇など無いのです」


 春尚が後を引き取る。


「今この瞬間を生きておることで精一杯なのですよ、ここの子たちは」


「……」


 朝成が嚙みしめる口の端から、血がスッと糸を垂らした。


「わたしが……」


 つくよの声に四人が目を向ける。


「わたしが代わりに参りましょうか? 天子様はどこがお悪いのです?」


 春尚が飛び掛かるようにつくよの肩を掴んだ。


「ダメじゃ! 絶対にダメじゃ! お前は……」


「でも、そのお子も身代わりのお子も助けられましょう?」


 朝成が両手をだらりと下げた。

 遠くで梟が気の抜けるような鳴き声を夜空に放っている。


「すまなんだ。私が浅慮であった……。刹那のことを避けても何も変わらぬ。分かっておる! 分かっておるが……このまま何も……」


「お気持ちはわかりますよ。私だってそうです。ここに居るものはみんな同じ気持ちで日を送っておるのですから」


「……すまん。本当に……すまなかった」


「兄上」


 朔也が静かな声を出す。


「私たちは皆、その覚悟をもって日々のおまんまをありがたく頂戴しておりますよ」


 朝成の小さな肩がまた小さく萎んだ。

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