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「くそっ! これほどとは……」
春尚の声が廊下まで流れ出てきた。
帝の口から次々に黒い霧が吐き出されていく。
それは毒気を帯びて、饐えたような悪臭を放っていた。
「春! 右に回り込め!」
雲から飛び降りた忠尚が叫ぶ。
すでに動き出していた春尚が、忠尚の動きと波長を合わせた。
「毒が舞っておるな。お子たちを奥へ!」
掛けた言葉が虚しく空を切った。
従者たちは腰を抜かして、その場でぶるぶると震えている。
「役に立たぬ奴らじゃ」
そうごちた忠尚が、春尚へ視線を投げた。
呼応して動こうとした春尚の足元に、黒霧が巻き付く。
「急急如律令! 六根清浄急急如律令」
叫ぶように春尚が呪文を唱え印を結んだ。
一度は霧散したように見えたが、黒霧はなおもねばりつく。
「これほどの怨念とはな。この執念は、物の怪でもなかなか居らんぞ」
忠尚が呆れたような声を出した。
「朔也さま、後ろへ下がってくだされ」
まだ少しは動く両手を櫂にして、朔也が帝の側から離れようと藻搔いた。
「朝成さま! 後ろへ! 早う!」
「朔也!」
一度は飛び退って引いた朝成が、朔也を助けようと手を伸ばした。
「ダメじゃ! 早う退け!」
春尚の足を雁字搦めにしている黒霧が形を変え、朝成の腕に取り付いた。
「急急如律令! 臨兵闘者皆陣烈在前!」
忠尚が抑え込んでいる黒霧の本体が、雨のように広がっていく。
「朝成さま!」
朔也の体に伸ばした朝成の腕が、その付け根まで黒く染まった。
「毒を含んでおる! 息を止めろ!」
その足元では、すでに朔也が咳きこみ始めていた。
「父上! 父上どうか……どうかお静まりあれ! 我願成仏!」
庭に続く襖を蹴破るようにして隆正が現れた。
薄暗い部屋に月あかりが差し込む。
その冷たいまでの光に、黒い霧が一瞬怯んだ。
「今じゃ!」
忠尚が叫んだ。
その刹那、月光が雲に遮られ、再び部屋に帳を降ろす。
「くそっ!」
勢いを盛り返した黒霧が、朝成の腕を押さえたまま、朔也へと向かって流れた。
「朔也さま!」
その声に陰陽師の三人が一斉に顔を向けた。
「つくよ!」
雲から駆け下りたつくよが、朔也の体を包むように蹲った。
黒霧がつくよの体内に吸い込まれていく。
その体は、見る間に黒く染まっていった。
「やめろ! 止めてくれ! つくよ」
春尚の悲痛な声に、庭の木々が揺れた。
「待て!」
忠尚の声に、全員が動きを止める。
「これこそが月読の真髄じゃ。姫の覚悟を見逃すでないぞ」
黒い霧を吸い続けるつくよの体が、ボワンと薄い光を放ち始めた。
その輪郭が透明になっていく。
まるで、静かな湖面に浮かぶ月のようだと春尚は思った。
「月の満ち欠けは我が意のままなり。我こそは月の支配者。出でよ大月。我に従え!」
つくよの言葉に、庭草の葉先までくっきりと見えるほど、月あかりが強さを増した。
「満月まではまだ間があろうに……」
独り言のような忠尚の言葉に、隆正が反応した。
「これが……月読の力」
「ああ、命がけのな」
春尚の顔が歪んだ。
風も無いのに、つくよの髪がサラサラと波打っている。
スッと月まで一直線に伸びた光の道がつくよを捕らえた。
「もう大丈夫でございますよ、朔也さま。つくよが全て吸い取りますから、安心して身を委ねて下され」
「つくよ……」
すでに限界値まで毒を取り込んでいた朔也の体には、黒霧はきつ過ぎたのだろう。
青を通り越して、最早白くなっていた唇が、その怨念の強さを如実に表していた。
「さあ、朔也さま。少し眠られませ。つくよが子守唄を歌って進ぜましょうほどに」
そう言ったつくよが、小さな声で歌い始めた。
「ねんねん御山の子ウサギは……」
朔也の目から、透明な涙が一筋流れ落ちた。
「ぐえっ!」
黒霧を吐き切った帝の喉が、変な音を出した。
「父上……どうか成仏なされませ」
朝成が、灰色に変色した腕を、帝の胸に押し当てていた。
「あとは私が受けとりましょうぞ。ですからお心安らかに」
帝の口から、金色の小さな玉が出た。
「おさらばでございます」
そう言った朝成の体がフラッと揺れて崩れ落ちた。
それと同時に陰陽師の三人を捕らえていた怨念が霧消していく。
つくよは、それら一切に目を向けず、ただひたすらに子守唄を歌い続けていた。
「あれあれ、朝成さまも幼き子のようじゃ。さあ、あなた様もこちらにおいでませ」
つくよが手を伸ばすと、朝成の体が吸い寄せられるように動き始めた。
「もう大丈夫ですよ。毒気は全て吸い取りましたからね」
小さな背中に当たっていた月光が、より一層その輝きを増していく。
「つくよ!」
春尚の声に、つくよがゆっくりと振り返った。
「春さま、ようやく返せます」
つくよの体が強く光った。




