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「兄上」


「おう、戻ったか。隆正は?」


「途中で気を失いかけたので、ずっと背中をどやし続けておりました。まあ……一応は終えましたので、今は寝かせておりますが、直に来るでしょう」


「ははは! お前もなかなか厳しいなぁ」


「兄上ほどではありませぬよ。それより治療は?」


 忠尚が思い出したように左耳に触れた。


「もう血は乾いておるから大丈夫ではないか?」


 春尚が盛大に溜息を吐いて使用人を呼んだ。


「あの藪を呼んでくれ。怪我人じゃ」


 使用人が困った顔できょろきょろと目だけを動かした。


「わかっておるくせに。あの髭面のクサレ薬師だ」


「は……はい。ただいま」


 今度は忠尚が溜息を吐く。


「お前は……本当に薬師が嫌いだな」


「嫌いですよ」


「毒を盛ったから?」


「それだけじゃない。あいつらは苦しむお子の脈を、無表情で取り続けたんだ。大丈夫かの一言もなく、状況をつらつらと文字にしておったわ」


「……春尚。まあ、そう怒るな。あれらも役目であろう?」


「それはそうだが」


「ではお前は何をした? その横で同じように見ておっただけであろう? 言葉は掛けたかもしれぬが、手は出さなんだ。違うか?」


 春尚が強く唇を嚙んだ。


「それは違いますよ」


 つくよの声だ。


「春尚さまは、誰よりもお子さまたちをよく見ておられました。心を砕かれ、薬湯後の甘味を切らさないようになさっておいででした」


 忠尚はただじっとつくよの顔を見ている。


「お子さまたちは、みんな春尚さまが大好きでした。薬師様が来られたら、みんな顔を青くして隠れるのに、春尚さまだと嬉しそうに庭に出られるのです。お加減が悪くとも、起きだしてお迎えに……みんな……みんな、それは嬉しそうに……」


「つくよちゃん」


「お子さまたちは、みんな春尚さまが大好きでした」


 しゃくりあげるつくよの背に春尚が指先を乗せる。


「そうか。それならば良い。お前も頑張ったな、春尚」


「兄上……私は……私は……」


「お前の役目はただ東の子を物の怪から守ることだけだったはず。それ以上のことをしていたのなら、それはお前の優しさだ」


 春尚の肩が震えた。

 つくよが泣き顔のままで春尚の前に正座した。

 ゆっくりと三つ指をつき、静かに頭を下げる。


「申し訳ございませんでした。私は千世さまをお守りできませんでした。どうぞ罰をお与え下さい」


「……」


 春尚は涙を流しながら何度も首を横に振っている。


「そうか。罰を受けると申すか」


 忠尚の声はひたすら平坦だ。


「はい。何なりと」


「兄上!」


 春尚が片膝を立てて、忠尚ににじり寄る。

 忠尚はまったく意に介さない。


「そうだなぁ。では陰陽院の頭として申し上げよう」


 春尚が息を飲んだ。


「つくよ。いや、月読の姫君」


 忠尚が居住まいを正す。


「ここに来る前までの事を、包み隠さず教えてくだされ」


「え?」


「もう孤児だの、里は分らぬなどと隠す必要はありません」


「あ……」


「陰陽寮に居室を用意します。護衛には春尚をつけましょう」


「あ……あの……」


「春尚で不足とあらば、陰陽頭の私が直接つきましょうぞ」


「いえ! そんな」


「では、そのように致します」


 押し切られたつくよが春尚を見た。


「つくよちゃん。そうしなよ。その方が私も安心だから」


「春さま?」


「私がここに来るときには一緒に連れてくる。館に行く時も一緒だ。それでどう?」


「あ……えっと……」


「決まりだな」


 忠尚が話を打ち切った。

 床の間に飾られた松明草よりも、つくよの頬の方が赤い。

 それを見た春尚の頬が、ゆっくりと同じ色に染まっていった。

 奥からただ事ではないほど急いた足音がする。


「一大事にございまする! 陰陽師様の御動座を!」


 帝の側近が二人、真っ青な顔で駆け込んできた。


「何事か!」


 忠尚が打って変わって鋭い声を出した。


「御上のお体より、何やら得体の知れないものが」


「生薬は」


「全てお口に。そのすぐあとから急にお苦しみになり、朝成さまが……」


「朝成さまが何となされた」


「御上の胸に手を当てられました。その途端、御上の周りに黒い霧が」


 忠尚が立ち上がる。

 春尚が素早く動いた。

 

「先に参る」


 頷いた忠尚が、つくよに手を伸ばした。


「姫様も御動座あれ」


 忠尚の指先から真っ白な雲が湧き出した。


「さあ、乗りなよ。雲に乗るのは初めてだろう? それとも春尚がもう乗せちゃったかな」


「一度だけ」


「一度? あいつも存外に吝嗇だなぁ」


 忠尚の手につくよが指先を乗せた。

 ニヤッと笑った忠尚が独り言のように言う。


「あいつ、妬くかな。へへへ、ざまを見ろってんだ」


 雲がゆっくりと浮いた。

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