28
「兄上」
「おう、戻ったか。隆正は?」
「途中で気を失いかけたので、ずっと背中をどやし続けておりました。まあ……一応は終えましたので、今は寝かせておりますが、直に来るでしょう」
「ははは! お前もなかなか厳しいなぁ」
「兄上ほどではありませぬよ。それより治療は?」
忠尚が思い出したように左耳に触れた。
「もう血は乾いておるから大丈夫ではないか?」
春尚が盛大に溜息を吐いて使用人を呼んだ。
「あの藪を呼んでくれ。怪我人じゃ」
使用人が困った顔できょろきょろと目だけを動かした。
「わかっておるくせに。あの髭面のクサレ薬師だ」
「は……はい。ただいま」
今度は忠尚が溜息を吐く。
「お前は……本当に薬師が嫌いだな」
「嫌いですよ」
「毒を盛ったから?」
「それだけじゃない。あいつらは苦しむお子の脈を、無表情で取り続けたんだ。大丈夫かの一言もなく、状況をつらつらと文字にしておったわ」
「……春尚。まあ、そう怒るな。あれらも役目であろう?」
「それはそうだが」
「ではお前は何をした? その横で同じように見ておっただけであろう? 言葉は掛けたかもしれぬが、手は出さなんだ。違うか?」
春尚が強く唇を嚙んだ。
「それは違いますよ」
つくよの声だ。
「春尚さまは、誰よりもお子さまたちをよく見ておられました。心を砕かれ、薬湯後の甘味を切らさないようになさっておいででした」
忠尚はただじっとつくよの顔を見ている。
「お子さまたちは、みんな春尚さまが大好きでした。薬師様が来られたら、みんな顔を青くして隠れるのに、春尚さまだと嬉しそうに庭に出られるのです。お加減が悪くとも、起きだしてお迎えに……みんな……みんな、それは嬉しそうに……」
「つくよちゃん」
「お子さまたちは、みんな春尚さまが大好きでした」
しゃくりあげるつくよの背に春尚が指先を乗せる。
「そうか。それならば良い。お前も頑張ったな、春尚」
「兄上……私は……私は……」
「お前の役目はただ東の子を物の怪から守ることだけだったはず。それ以上のことをしていたのなら、それはお前の優しさだ」
春尚の肩が震えた。
つくよが泣き顔のままで春尚の前に正座した。
ゆっくりと三つ指をつき、静かに頭を下げる。
「申し訳ございませんでした。私は千世さまをお守りできませんでした。どうぞ罰をお与え下さい」
「……」
春尚は涙を流しながら何度も首を横に振っている。
「そうか。罰を受けると申すか」
忠尚の声はひたすら平坦だ。
「はい。何なりと」
「兄上!」
春尚が片膝を立てて、忠尚ににじり寄る。
忠尚はまったく意に介さない。
「そうだなぁ。では陰陽院の頭として申し上げよう」
春尚が息を飲んだ。
「つくよ。いや、月読の姫君」
忠尚が居住まいを正す。
「ここに来る前までの事を、包み隠さず教えてくだされ」
「え?」
「もう孤児だの、里は分らぬなどと隠す必要はありません」
「あ……」
「陰陽寮に居室を用意します。護衛には春尚をつけましょう」
「あ……あの……」
「春尚で不足とあらば、陰陽頭の私が直接つきましょうぞ」
「いえ! そんな」
「では、そのように致します」
押し切られたつくよが春尚を見た。
「つくよちゃん。そうしなよ。その方が私も安心だから」
「春さま?」
「私がここに来るときには一緒に連れてくる。館に行く時も一緒だ。それでどう?」
「あ……えっと……」
「決まりだな」
忠尚が話を打ち切った。
床の間に飾られた松明草よりも、つくよの頬の方が赤い。
それを見た春尚の頬が、ゆっくりと同じ色に染まっていった。
奥からただ事ではないほど急いた足音がする。
「一大事にございまする! 陰陽師様の御動座を!」
帝の側近が二人、真っ青な顔で駆け込んできた。
「何事か!」
忠尚が打って変わって鋭い声を出した。
「御上のお体より、何やら得体の知れないものが」
「生薬は」
「全てお口に。そのすぐあとから急にお苦しみになり、朝成さまが……」
「朝成さまが何となされた」
「御上の胸に手を当てられました。その途端、御上の周りに黒い霧が」
忠尚が立ち上がる。
春尚が素早く動いた。
「先に参る」
頷いた忠尚が、つくよに手を伸ばした。
「姫様も御動座あれ」
忠尚の指先から真っ白な雲が湧き出した。
「さあ、乗りなよ。雲に乗るのは初めてだろう? それとも春尚がもう乗せちゃったかな」
「一度だけ」
「一度? あいつも存外に吝嗇だなぁ」
忠尚の手につくよが指先を乗せた。
ニヤッと笑った忠尚が独り言のように言う。
「あいつ、妬くかな。へへへ、ざまを見ろってんだ」
雲がゆっくりと浮いた。




